ちょいちょい書くかもしれない日記(母のともだち)
母のスマホに「勇気を出して」連絡してくださった方と、ちょいちょいやり取りをしている。
とても穏やかで親切で、優しい方だ。
何度か実家の固定電話で、母に通話を取り次いだ記憶がある程度だが、あちらは母から私についてあれこれ聞いておられるようで、色んなお話をしてくださる。
施設のインフルエンザ発生に伴う面会停止が解除されたので、20日に予約を取ってくださったそう。
母がこの1年でどうなったかをざっくりお伝えしたので、きっとこれまた勇気が必要なことだったと思う。
それでも母に会おうと思ってくださること、感謝に堪えない。
今の母の姿に(転んだばかりでどえらい顔だし)大きなショックを受けるのではないかと案じつつも、ありのままの母を受け入れてくださる方なのではないか、とも思う。
母の友人たちは、何故か私の心配ばかりしてくださる。
たぶん、今の私と同じ立場で、色んな大変なことを乗り越えてこられたのだろうな。心強い。
明日、とうとう実家が母の、実質的には私の手を完全に離れることになる。
要らないものは置いてってもらっていいですよと買主さんが言ってくださったので、かつて抽選でもらった古いルンバは置いていくことにした。
この1年あまり、実家の掃除を一手に引き受けてくれていた頼もしいやつだ。
たぶん、新しい買主さんの元でもそれなりに働けるだろう。
連れ帰ることも考えたが、やはり猫6匹と暮らす我が家では、ステーションでゴミの管理ができて、拭き掃除も1台でできてくれないと困る。
お掃除ロボのメンテナンスについては、人力でやらねばならないパーセンテージをいかに下げるかも性能のうちなのだ。
申し訳ないが、お別れすることにした。
最後に家を一周して、自分の部屋だったところで写真を撮った。
何冊もの本を、ここで書いた。
何匹もの犬や猫を、ここで育て、共に暮らした。
いい部屋だ。そして、いい家だ。
設計担当者とのやりとりも含め、思い出深い、ずっと大好きな家だった。
いいこともよくないことも、たくさんあった。
とにかく大き過ぎることや、構造の複雑さや、後年発覚した施工業者のやらかしや、ボディブローのようにゆっくり進行した震災のダメージや、どうしようもない高湿度……色々な理由で私が実家を引き継げなかったことは、本当に申し訳なく思う。
父は実家を建てたとき、私や弟の子供たち、そのまた子供たちが住める、あるいは集える家にするんだと、うんと張り切っていた。
二間ぶち抜きの和室で、自分の葬式を盛大に出してもらうのだ、とも。
父は当たり前のように、祖父母と同じような大家族が持てると思い込んでいた。
孫たちのおとないを楽しみにするお祖父ちゃんになるつもりだったのだ。
なにひとつ、父が思ったようにはならなかった。
それを思うと、なんだか無性に泣けてきた。
こればっかりはしょうがないと口では言いつつ、父も母も、孫がいないことをどんなにか寂しく思っていただろう。
父の主義や思いつきで、人生をポキポキと曲げられたおしてきた私なので、正直、ここに来てまで父の身勝手な夢想に対して罪の意識を抱くつもりはない。
それでも、人生の最後は、自分の身体も、仕事も、ゴルフも、趣味の桜の写真撮影も、家族の形も、あまりに思うようにならないことが多すぎて、つらかっただろうな……と思いもするのだ。
どうかどうか、せめてこの家を、色んな人がいい思い出を作り、楽しく過ごす場所として活用していただけますように。
そんな売主の勝手な希望はここに置いていこうと思いつつ、玄関の鍵を閉めた。
ポリペールだけは、かつて私が父に買ってあげたものなので、ぐすぐす泣きながらうちまで引きずってきた。
めちゃくちゃ汚いが、春になってから洗って使おう。今は寒すぎる。