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シベリア

「あら、さっきお父さん来たわよ」
 ちょくちょく買い物をしていた八百屋のおばさんに、そう言われたのは、私が三十代後半の頃のことである。
 私はギョッとして
「な、なんでわかったんですか?」
 と恐る恐る聞いた。
 それは、私がおばさんに「これが私の父です」などと紹介したことはなかったからで、しかし、こういう人でしょ、と説明するおばさんの言う「お父さん」は、確かにうちの父であることは間違いないようだった。
 そして、なんでわかったのか、というその問いに、おばさんは
「だって、ソックリじゃない!」
 と、さも可笑しそうに笑った。
 親子なんだから、似ているところがあって当たり前なのだが、幼い頃ならまだしも、大人になってから「ソックリ」と言われるのは、多少、複雑なものがある。


 カステラに餡子や羊羹を挟んだ、シベリアという菓子がある。
 ジブリ映画「風立ちぬ」の中にも登場した、昭和の菓子と言われる、あの、三角のアレである。
 前に食べたのはいつのことだったか。
 たまに食べたくなっても、なかなか身近に売っていないのだが、それを買う機会が急にやってきたのは、つい先日のことだった。

 用事で市役所へ来ていた私は、ぐうぐうと鳴るお腹をなだめながら、渡された自分の番号が呼ばれるのを、グッタリとして待っていた。
 祝日の次の日だったからか、待ち合いの椅子は座れないほど混んでいて、覚悟して来たつもりでも、思った以上に時間がかかってしまった。
 十一時前に着き、全ての手続きを終えて帰る頃には、昼の一時半を過ぎていた。
 あまりにもお腹が空いたのと、わけのわからなくなりそうな説明をあれこれ聞かされ、普段から飲み込みの悪い頭を使ったのとで、私はものすごく甘いものが食べたかった。
 そこで思い出した。
 帰る駅のそばに、シベリアを売りにした、パン屋がある。
 随分昔からやっているそのパン屋に、私はいつか行こう行こうと思いながら、もう十数年が経ってしまっていた。
 今日こそ行こう。今日はもう絶対、シベリアが食べたい。
 そう思って、朝ごはんもろくに食べてこなかった私は、空腹でフラフラしながらも、そのパン屋へ向かった。
 そこまでの間に、食べるところなんて沢山ある。
 コンビニだっていくつもあるのに、私は「絶対に寄らないぞ」と思っていた。

 絶対にこうしたい、と思ったことは、そうしないと気が済まない。
 こうしろと言われたことでも、自分が納得しない限り、どんなに叱られても、ことごとく抵抗した。
「こんな頑固な子、見たことない、って思ったわ」
 母にそう言われたのは、可愛いと思って母がかぶせてくれた帽子を、私は何度もとって投げ捨てた、という話を聞かされた時のことで
「可愛かったのに。それに夏だったのよ。暑いでしょ?私が心配してかぶせても、気に食わなかったんでしょうよ、アンタは頑としてかぶらなかった」
 それが、まだ歩くのもままならない頃のことだったそうだから、三つ子の魂百まで、とはこのことである。
 母は当然、そんな私をずっと気に入らなかったらしい。
 後に母は、父と離婚をした時に、私とも「縁を切る」と言って、それ以来である。

 パン屋のシベリアは、三種類あった。
 スタンダードな餡子、餡の中に小さく砕いた栗の入った栗餡、それから黄色いのはなんだろう、と思ったらカボチャ餡だった。
 一種類しかないと思っていた私は、ちょっと迷って、一種類ずつ、三つ買うことにした。
 全部食べ切らなくても、父にもあげればいい、きっと懐かしいだろう。
 酒飲みだが、甘いもの、餡子やフワフワした菓子パンも、父は喜んで食べる。
 そうして私は、買ったシベリアの袋をぶら下げて、もはや空腹で気持ち悪くなりながらも、何も口にすることなく家まで帰ったのだが、これに似たような人がいたな、と思ったら、父であった。


 こんな話がある。
 当時、父は小学校四年生で、まだ、ほとんどの学校が給食ではなく、弁当だった頃のことである。
 ある日、学校に着いて、カバンを開けると、その弁当が入っていない。
 しまった忘れた、と思っても、もう遅い。
「何しろ一里半あったんだぞ、学校まで。一里半ってわかるか?大体、六キロだぞ、六キロ」
 大人でも結構なその距離を、小学生の父は歩いて通っていたらしいのだが、もちろん、それを家まで戻ったら、授業には間に合わない。
 仕方がないと諦めた父は、その日は弁当ナシと腹を括った。
 そんな父に助け舟を出してくれたのは、先生だった。
「弁当の時間になって、先生がかねをくれたんだよ。これで何か買ってこい、ってな。学校に購買みたいなのがあって、そこで買え、って」
 先生は、ひとりだけ弁当のない父を、見るに見かねたのだろう。
 なんとも優しい先生である。
 しかし父は、そのお金を「突っ返した」という。
 育ち盛りで、そうでなくても、その距離の通学と授業で、当然お腹はペコペコになっているはずなのに、その時、父は
「絶対買わねえ!」
 と思ったそうな。
「ハラが減って、ハラが減って、しょうがなくてなあ。だから、周りがみんな弁当食ってるだろ?それが見てらンなくて、教室の外に出て行ってな」
 結局父は、みんなが弁当を食べている間、空きっ腹を抱えて、ひとり校庭にいたらしい。

 頑固で意地っ張り。
 この気質は、生きてゆくのに、持っていてもあまり良いことはない。
 損をする。
 帽子を投げ捨てて、後でネチネチ嫌味を言われることになる。
 空きっ腹を抱えて、家に帰らなければならなくなるし、ひとり校庭に出て行かなければならなくなる。
 変なところが似ちゃったなあ、と私は思う。
 あの八百屋のおばさんに「ソックリ」と言われた時も、複雑な気持ちになったものだが、それが内面となると、もっと複雑になる。



 父はちょっと、難しい人だった。
 終戦から三年後の昭和二十三年、鹿児島で生まれた父は、三人兄弟の長男坊。
 祖父の仕事の都合で鹿児島から埼玉、そして北海道へと移り住んだ雪深い山奥で、弟たちが生まれた。
 父の母親である祖母は、元々良い所のお嬢さんで、祖父は婿養子だった。
 その頃のことを、祖母はあまり詳しくは話さなかったが、少ない給料、男児が三人、慣れない大雪に、その生活はお金のやりくりも家事一切も、本当に大変だったと言っていた。
 炭鉱夫であった祖父は女癖も悪かったらしく、それはそれで色々あったようだが、それでも家長である祖父を立て、自分は何歩も身を引いて、祖父とはまた別のところから祖母は一家を支えていた。
 そんな祖母を想ってか、父は家の手伝いも、弟たちの面倒もよく見たらしい。
 長男として、兄貴として、父はその期待や責任を、背負わないわけにはいかなかったのだろう。
 ここまでが、聞いた話。
 私の記憶にある父は、こうである。
 仕事は一生懸命、人当たりも良い、しかしそれは外だけのことで、家の中ではいつもブスッとしていて、無口だった。
 家庭のことは、母や祖母に任せっきりで、ほとんど関心はないようだった。
 それでいて、酒癖の悪い父は、暴力こそ無かったが、酔うと威張り散らし、人を見下し、文句を言い、暴言を吐いた。
 ちょうどバブルの頃で、頑張れば頑張るほど、その成果が返ってくる時代だった。
 父は若くして、化学メーカーの支店長にまでなっていた。
 仕事も忙しく、大概遅くまで飲んで帰ってくる父は、普段からあまり家にいることは少なかった。
 話を聞いてほしい時にはいない、いる時に話をしようとしても、聞くような人でもなかった。
 たまに聞いてくれたと思ったら、全部否定するか、馬鹿にするだけだったので、姉や私は、父に近寄らなくなった。
 やがてバブルが崩壊し、父の勤める会社も傾いて、早期退職して他の会社へ移った父は、ますます様子がおかしくなった。
 そんな父を、家族は、だんだんと疎ましく思うようになっていった。
 母は父を夫として見なくなり、姉や私は、他所のうちの優しそうなお父さんを羨ましく思い、父の陰口を言った。
 祖母は、そんな私たちを
「でもお父さん、頑張っとってよ」
 とたしなめていた。
 それが、わかっていないわけではなかった。
 私たちが学校に行けるのは、暮らしていけるのは、父が頑張ってくれているおかげ、とはわかっていても、それ以上に父の態度が許せなかった。
 家の中があまり上手くいかないくなってきた頃、ある日、夜中に泥酔して帰ってきた父が
「どうせおまえら、俺のことが嫌いなんだろう!知ってんだぞ!馬鹿にしやがって!」
 と怒鳴り散らしていたことがある。
 そうじゃない。
 馬鹿にしているわけじゃないのに。
 そのことを姉は
「長男でさ、ばあちゃんがホイホイして育てたから、あんななっちゃって」
 と言っていたが、そのうち、その祖母までが
「あン子は、アタマがおかしくなったんかね」
 と言い出す始末で、ばあちゃん、そんなこと私に言われても困るよ、と思ったものである。
 やがて両親は離婚して、姉と私も家を出た。
 最後まで父と一緒にいた祖母も、亡くなってしまった。

 あの頃、私は、そういう父を憎んでいた。
 そんな自分は「悪くない」と思いたかった。
 そう思う自分も何か嫌だった。
 憎みきることができれば、まだいい。
 苦しいのは、憎みきれない時である。


シベリア

 買ってきたシベリアは、カステラが思ったよりもフワフワしていて、挟んである餡子は、さらっとして美味しかった。

「これ、今日パン屋で買ってきたやつ。明日持って行きなよ」
 と、私はシベリアのふたつ入った袋を、父に差し出した。
 早朝から市場で店をやっている父の、昼までの間に食べるオヤツにちょうどいい。
「なんだ、パンじゃねえのか。カステラか?」
 袋をのぞいて言う父に
「そうだよ、昔からあったでしょ」
 と私は言った。

 次の日の朝、袋のシベリアは、ひとつになっていた。
 残っていたのは、カボチャ餡だった。
 父は栗餡のほうを持って出掛けたようだった。
 やっぱり変わり種よりも、ふつうの餡子のほうが良かったのかもしれない。
 今度はその餡子のやつを、ふたつ買ってこよう。
 私は、そんなことを思いながら、残っていたそのカボチャ餡のシベリアを、食べていた。

 父が帰ってきてすぐ、どうだった?と私は聞いた。
 何が、と返ってくる。
「シベリアだよ、シベリア」
 私が言うと
「シベリア?シベリア……って、なんだ?あの、寒いとこの話か」
 などと父は言う。
 私は
「違うよ!今日食べたでしょ?あの三角のやつ」
 すると、父はちょっと考えて、ああ、と言い
「美味かったよ」
 と、しらっとして答える。
 なんか変だな、と思いながらも私は
「でも、シベリアって、挟んであるの、餡子じゃなくて、羊羹じゃなかったっけか」
 そう言って、私はスマートフォンを手に取り
「ええと、シベリアは『羊羹または小豆餡をカステラに挟み込んだ日本の菓子である』だって。ああ、やっぱり羊羹もあるんだね」
 それを聞いているのか、いないのか、父は面白くなさそうに、ふうん、と言うと
「そんなん知らねえ」
 不貞腐れ、半ば吐き捨てるようにそう言われ、私はそこで、あっ、と気が付いた。
 父は、シベリアを食べたことがなかったのである。
 どうりで話が食い違うわけだ。
 父はシベリアを、シベリアとは知らずに食べた。
 父が知らないシベリアを、娘が知っている。
 しかも娘は、さも、シベリアくらい知ってんでしょ、という勢いで話をする。
 そのことが、父の機嫌を損ねてしまったらしい。
 トイレにでも行くのか、父はブスッとしたまま、部屋を出て行ってしまった。
 バタンと閉まるドアに、みんなが弁当を食べている教室を、空きっ腹を抱えてひとり出ていく少年の姿が、見えたような気がした。

 あーあ。
 本当に面倒臭い。
 全然変わってない。
 ちぇっ!もう買ってくるもんか。

 しかし次にドアを開け、部屋に入ってきた父は、鼻歌を歌っていて
「まあでも、美味かったよ。美味かった、美味かった。なァ、ハナ」
 と後半は、そこに寝ていた飼い犬に、話しかけるようにそう言って、眠くて迷惑そうにしている犬の頭を、グリグリと撫でながら
「美味かったー、美味かったー。サンキューでしたー。なァ、ハナ。美味かったよなァ」
 と尚もしつこいくらいに言い続ける父に
「やっぱり、また買ってこよう」
 と、私は思うのである。

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