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土佐赤岡の「絵金祭り」 ろうそくの光に浮かぶ芝居絵屏風

  和ろうそくの光が、軒先に飾られた「芝居絵屏風」を照らし出している。色鮮やかな絵は生々しく、どこかおどろおどろしい。高知県香南市赤岡町で7月20、21の両日開かれた「土佐赤岡絵金祭り」。江戸末期の絵師金蔵(1812~1876)が描いた作品を楽しむ行事は、幕末から150年以上も続いている。

祭り会場の入り口


観光客でにぎわう商店街

 赤岡町は高知市から東に約20㌔離れた海辺にある。高知で「絵金」と呼ばれる金蔵はこの町で描き続け、優れた芝居絵屏風を残した。祭りでは、町の人々が大切に守ってきた作品23幅が毎年展示されている。
 21日午後7時過ぎ。町は昼間の熱気がさめず、土佐湾を渡る風はじっとりとした湿気を帯びていた。昔ながらの商店街の道は狭く、多くの人たちで埋め尽くされている。駐車場には県外ナンバーの車が並び、外国人観光客の姿も目立った。

絵金独特の世界。強烈な色彩と物語性


軒下に展示された芝居絵屏風

  絵金こと金蔵は、髪結いの子として高知城下に生まれた。幼いころから絵の才能に恵まれ、御用絵師池添美雅に師事して狩野派の画風を身に着ける。江戸でも学んだ結果、21歳の若さで土佐藩の家老桐間家の御用絵師に取り立てられた。
 しかし、高名な絵師の贋作を描いたという疑惑が持ち上がり、狩野派は金蔵を破門。御用絵師の身分も失い、城下を追放されてしまう。あてもない放浪の末に、叔母を頼って移り住んだのが赤岡町だった。疑惑の背後には、金蔵の才能に対する他の絵師のねたみや中傷があったとされる。
 金蔵は歌舞伎や浄瑠璃を題材にした芝居絵屏風を得意とした。当時、赤岡は宿場町として栄えていた。庶民出身の金蔵は10年以上も土佐各地や大阪を転々とし、汚名と貧しさに耐えた。赤岡の旦那衆はそんな金蔵の才能を認め、作品を買い上げて支援したのだ。

作品について解説する女性
解説は作品が描かれた背景にも及ぶ


浴衣姿の女性。屏風絵から抜け出したように見えた

 芝居絵屏風は商店や民家の軒先に展示されていた。作品の前には燭台が立ち、百匁ろうそくが燃えている。
 町並みの照明は落とされ、ろうそくの光だけを頼りに作品を鑑賞する。炎がゆらゆらと揺れる度、絵の上に光と陰影が投げかけられる。赤、緑、黄色。鮮やかな色彩は、たった今描かれたようだ。
 それぞれの作品には案内係が付き、題材となった物語や画面の構成などについて詳しく解説してくれる。若いスタッフが多いが、立て板に水の口調は堂に入っていた。
 それにしても、この舞台演出はすごい。どの建物も古い造りだから、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのようだ。乏しい光源は逆に芝居絵屏風の世界を広げ、見る者の集中力を高める。
 金蔵は1幅の絵屏風に、連続する物語の場面をいくつも取り入れている。じっと見つめていると、自分自身が絵の中に取り込まれてしまうような不思議な感覚にとらわれてしまう。

菅原伝授手習鑑寺子屋(すがわらでんじゅ・てならいかがみ・てらこや)


伊達競阿国戯場累(だてくらべ・おくにかぶき・かさね)
 

 「伊達競阿国戯場累」と題した屏風絵は、1778(安永7)年に初演された歌舞伎を題材にしている。
  画面中央では、醜い面相の「累」が夫の与右衛門につかみかかっている。与右衛門はかつて、絹川の谷蔵と名乗る相撲取りで、累の姉の遊女高尾を殺した。その死後に妻となった累は、高尾の怨念で醜い女になってしまったのだ。
 すべてを知った累は逆上し、高尾の怨霊に取りつかれる。与右衛門は足元にある草刈り鎌を取り、累を殺すのだ。陰惨で救いようのない物語が、縦164㌢、横182㌢の屏風の中で繰り広げられている。

浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)二幕目返し鈴ケ森

 「浮世柄比翼稲妻二幕目返し鈴ケ森」は、1823(文政6)年初演の歌舞伎が題材だ。画面左側には白井権八が立ち、背後には権八が斬り殺した雲助が倒れている。通りかかった侠客の幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)は、一部始終を見て権八にほれ込むのだ。
 黒小袖の権八は、なまめかしい色気がある。苦悶の表情で倒れた雲助の血のり。長兵衛の粋ないでたち。画面全体にただよう血のにおいとともに、2人の男の姿が妖しい雰囲気を醸し出している。
 金蔵の作品はどれも緊迫感にあふれ、凝視すると息苦しくなってくる。それでも目が離せない。月並みな表現だが、絵に力があるのだ。大学時代、油彩画を学んでいた妻は「遠くから眺めていても、迫力がある。絶えず変化するろうそくの光が、作品の魅力を引き出しているようだ」と話した。

赤岡の心意気。郷土の宝を守る

屏風絵に見入る人たち
ただ一つの照明の百匁ろうそく


光と闇。昔もこうやって鑑賞したのか

  会場で販売されていた「絵金読本」によると、金蔵が手掛けた芝居絵屏風は、昔から1年に1度だけ夏の祭礼に合わせて公開されてきた。赤岡の人々は自らが所有する絵を独占することなく、だれにでも見てもらった。
 この風習は幕末から絶えることがなく、町の文化として受け継がれてきた。作品は現在、町内の「絵金蔵」で保存、公開されているが、絵金祭りに限って家の軒先に持ち出されている。
 江戸時代の屋内照明といえば、行灯か提灯くらいしかなかった。あえて、百匁ろうそくしか使わないのは、当時と同じ状況で鑑賞してもらいたいという思いがあるのだろう。


古い建物が残る赤岡町。展示には最適



夏の夜に存在感を示す絵屏風

 この夜、絵金蔵に隣接する「弁天座」では、地元の人たちによる歌舞伎が上演された。夏祭りらしく、ビアガーデンもあれば、露店もある。観光客は金蔵の作品を見て回りながら、にぎやかな祭りを楽しんでいた。
 ビアガーデンの舞台では、ギター一本で金蔵の物語を歌う男性がいた。屏風絵の解説を聞くと、みんなが作者を「金蔵さん」とか「絵金さん」と呼んでいる。
 絵金という名は「絵師の金蔵」をはしょったもので、このあたりではかつて画家全体を意味した。大人たちはつい最近まで、子どもが絵を描いていると「おまん、絵金さんになるがかよ」と語りかけたそうだ。
 

歌舞伎が上演された弁天座
ステージ付きのビアガーデン

 

金蔵の作品は生き続ける

  町は夜の熱気に包まれている。屏風絵に対面していると、時間も暑さも忘れた。頭の中で芝居絵が渦巻き、聞いたこともない台詞が響く。この赤岡で筆を執った金蔵が、作品の背後の暗闇に立っている。そんな妄想が浮かび、夢中でカメラのシャッターを切った。
 高知県に生まれながら、絵金祭りに来たのは初めてだ。金蔵という名前は知っていたのに、彼の作品を知ろうとしなかった自分を恥じた。
 赤岡ではこれからも、絵金さんの屏風絵が夏の夜を彩るのだろう。もしも機会があれば、ぜひ赤岡に足を運んでほしい。
 不便で遠い土佐の田舎町だが、美術館やギャラリーでは絶対に体験できない芸術作品との出会いがある。
 金蔵は贋作騒動で地獄の底にたたき込まれながら、絵筆ひとつではい上がった。その生きざまは屏風絵に表れ、今も多くの人々を魅了するのだ。

田村麿鈴鹿合戦(たむらまろすずかかっせん)
蝶花形名歌島台小坂部館(ちょうはながためいかのしまだい・こさかべやかた)


伊賀越道中双六岡崎(いがごえどうちゅう・すごろくおかざき)


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