忘れ去られた特攻基地 高知の海に潜んだ「震洋」と「回天」
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年春、高知県須崎市に特攻兵器「震洋」と「回天」の基地が置かれた。土佐湾に面した須崎は昔から天然の良港として知られ、海に突き出した岬の裏手に静かな須崎湾が広がる。基地を設けた海軍は連合軍の本土侵攻に備え、2つの特攻兵器で敵艦艇を攻撃する計画を立てていた。終戦から79年。海を見下ろす山中には今も、忘れられた特攻基地の遺構が残されている。
洞窟が指揮所。海軍が開設
須崎市中心部から車で約10分の箕越地区。海辺の小さな集落から山道を登り、切り通しのようになった峠に差し掛かる。道幅は車1台がやっと通れるほど。峠の先は行き止まりになっている。雑木が生い茂る山裾を歩くと、約100㍍区間に3カ所の洞窟が口を開けていた。
入り口は高さ、幅とも5㍍ほど。奥行きは10㍍足らずしかない。人の手で岩山を穿ったのだろう。内部は荒っぽく削られた岩がむき出しになっている。日中でも暗い。地面には水がたまり、なにもかもがジメジメしている。
現地にある説明板によると、須崎に進出したのは海軍呉鎮守府第八特攻戦隊(八特隊)の第二十三嵐部隊だった。第二十三突撃隊とも呼ばれた部隊は1945年4月20日に開隊し、箕越に本部を設置。さらに、野見、宇佐、浦戸、手結に前線基地を展開した。
当時は日本全土で米軍の爆撃が続き、敗戦が濃厚となっていた。同年3月17日には硫黄島が陥落。26日には沖縄戦も始まった。追い込まれた戦況の中で、軍部は本土で連合軍を迎撃するという無謀な作戦を考えていたのだ。
勇ましく「本土決戦」と叫んでも。既に戦力は消耗している。国内の歩兵部隊には小銃さえ行き渡らない。竹やりや包丁、鎌などを武器とみなすだけでなく、まるで火縄銃の出来損ないのような「簡易国民拳銃」まで設計される有様だった。
国内の原油備蓄量は4月時点でわずか2万4000㌔㍑。航空機や艦艇を満足に稼働させるのは不可能で、アカマツから採れる松根油をガソリン代わりに利用するという涙ぐましい取り組みが奨励されていた。
第二十三嵐部隊は、こんな絶望的な状況の中で須崎にやって来た。基地跡に残る洞窟は送信所、送電源室、弾薬室に分かれるが、いずれも内部にコンクリートを打設したような痕跡はない。
戦後にわざわざ破壊したとも考えられず、最初からこの状態に近かったのだろう。洞窟内に木造の小屋を建て、兵士が勤務したのか。洞窟そのものが狭いこともあり、基地というにはあまりにもお粗末な造りである。
ただひとつ、この基地が有利だったのは立地条件にある。洞窟は切り立った岩山に築かれ、道をはさんだ反対側も山になっている。ここなら、米軍機が上空から偵察しても、簡単には見つからない。土佐湾から見ると、基地は岬の反対側にあり、艦砲射撃や戦闘機の攻撃を受けても生きのびられる可能性がある。
人間は部品のひとつ。冷酷な兵器
部隊が装備した「回天」と「震洋」は、ともに爆薬を積んで敵艦に体当たりする特攻兵器である。
「震洋」は小型のモーターボートで、船首に250㌔爆薬を搭載する。1人乗りと2人乗りの2種類があるが、どちらも木材とベニヤ板で作られている。搭乗員は震洋を走らせ、敵の艦艇や上陸用舟艇に突入する。
もし攻撃に成功しても、自らが爆発に巻き込まれる。もちろん装甲は施されておらず、機縦弾でも撃沈される。最初から人間を操縦装置としか考えない。非人間的な兵器のひとつだ。
人間魚雷の別名がある「回天」は、さらに冷酷な兵器だ。もともとは潜水艦などに搭載された九三式三型魚雷であり、搭乗員1人が魚雷に無理やり取り付けたような操縦席に乗り込む。
全長14.7㍍、重さ2.8㌧、炸薬量780㌔。搭乗員は直径わずか61㌢の魚雷に潜り込み、潜望鏡を頼りに進む。出入口のハッチは内部からは開けられず、一度出撃すれば引き返せない。実戦では、母艦の潜水艦から発進したが、ほとんどが目標にたどり着けず、搭乗員ともども海中に沈んだ。
海軍は戦争末期、震洋と回天を国内各地の湾岸に配備している。連合軍の上陸が迫ったら基地から発進し、敵に最後の戦いを挑むという作戦だ。当時は海軍、陸軍ともに、大量の特攻機を艦船攻撃に投入していた。軍は人間の命を顧みず、若者に「死ね」と命じた。空でも海でも、特攻兵器での出撃は死への片道切符だった。
山中にある基地跡は、指揮所の一部だったと思われる。舞台はここから前線基地に指令を出し、出撃させようとしたのだろう。では、震洋と回天はどこに配備されていたのか。須崎湾の須崎漁港からは、前線基地と思われる痕跡が確認できる。
基地の洞窟跡から直線距離で2㌔ほど。須崎漁港の堤防に立つと、目の前に岬が突き出している。この山は洞窟跡に続くのだが、山中に道はない。岬は木々に覆われ、急な山の斜面がそのまま海に落ちている。そのあたりを良く観察すると、4カ所の洞窟が見えた。
距離があるため分かりづらいが、洞窟は自然のものではない。入り口の形状は、第二十三嵐部隊の基地跡とよく似ている。ここが前線基地で間違いない。
須崎湾は大型貨物船が出入りできる水深があり、岬で守られているために風波に強い。震洋と回天は干潮時でも発進でき、そのまま土佐湾に向かうことができる。特攻隊員たちは戦時中、この洞窟の中から海を見つめていたのだろうか。
戦争の教訓はどこに
太平洋戦争は1945年8月15日に終わり、須崎の特攻隊員が出撃することはなかった。日本軍の解体とともに、特攻兵器は跡形もなく廃棄された。第二十三嵐部隊も歴史のかなたに消え去り、地元でさえ基地の遺構の存在を知る人は少ない。現地の説明板は朽ちかけ、文字を読むのも困難だった。戦争の記憶を少しでも伝えるため、基地跡に少しでも光が当たればと祈る。
厚生省によると、太平洋戦争での死者数は日本だけで約310万人にも達する。欧州戦線などを含む第二次世界大戦は、各国合わせて4000万人から5000万人が死んだ。それから79年、ウクライナに侵攻したロシアは泥沼のような戦いを続け、中東のガザ地区では罪も無い子どもたちが戦火に焼かれる。
人間はどこまで愚かなのか。だれが戦争を仕掛け、だれがそれを許すのか。戦いの現場で死を命じられたら、人間は正気でいられるのか。もしも、須崎で生き残った特攻隊員に会えたら、そんな質問をしてみたい。
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