「私が正しい。私と異なる意見は悪である。」私は、このように考えてしまう傾向があります
私は、私と意見の異なる人が苦手です。私と意見の異なる人と接していると、非常に疲れます。生気を奪われているような気持ちになります。
私には、様々な物事に対する私なりの考えがあります。その考えこそ、私にとっての正義です。私の考えこそ、私の正義なのです。
ですから、私は、私と意見の異なる人は、悪だと思ってしまいます。あるいは、私と意見の異なる人に対して、何て馬鹿な人だと見下してしまいます。私の中では、私が最も賢く、最も正しい人だからです。
ですから、私は、多様性という言葉が嫌いです。違いが嫌なのです。違うということが嫌なのです。みんな私と同じであってほしいと思います。それは、私の在り方が正義であり、正しい在り方だからです。だから、私の好きな言葉は、画一です。みんな私と同じが良いのです。
私は、私と異なる意見を言って、私に逆らう人が嫌いです。私に反発する人は嫌いです。私が好きなのは、私の言うことに従順な人です。何でも素直に服従する人が好きです。
私は、私の発言が絶対だと思っています。私が白と言えば白、黒と言えば黒で、白黒はっきりさせたいのです。灰色はありません。白か黒かどちらか一方です。
私は、他人を支配したいです。私の言いつけを、他人に守らせたいです。なぜなら、私の発言は正しい発言であり、私の言いつけも正しい言いつけだから、他人が私の言いつけを守ることが正しいからです。私は、私のことを正しいと信じています。
ですから、私は、私のことを否定する人が嫌いです。私を否定する人は、私にとって悪い人です。なぜなら、私こそが正しい人であり、私の行いこそが正しい行いだから、その私を否定する人は、私にとって悪い人です。
私は、このような個性を持っています。そんな私が、世界平和の実現を望んだら、世界平和が実現した暁には、どのような世界があるのでしょうか?
まず、世界は画一化されているでしょう。全世界の全ての人が、日本語を話し、日本文化をたしなみ、日本の歴史を学んでいるでしょう。世界の多様性は完全に失われ、みんな画一化されているでしょう。とにかく、全てが私と同じなのです。
そして、全世界の全ての人は、私の支配下にあります。逆に言えば、私は、全世界の全ての人の支配者になるのです。全世界の全ての人は、私の言いつけをよく守ります。そして、全世界の全ての人は、平和に暮らすのです。それは、私が、全世界の全ての人に、平和に暮らすように命令したからです。全世界の全ての人は、私に服従しています。
さらに、私は、全世界の全ての人の支配者になっています。王でも皇帝でもありません。支配者です。全世界の全ての人を支配する人だから、支配者です。
と、言うわけで、私は、全世界の全ての人の支配者になるべく、努力していきます。反抗、反発、反逆が起こらないように、うまく治めたいと思います。しかし、反抗、反発、反逆があったら、力でおさえつけようと思います。実力を行使するということです。
あれ、でも、実力行使したら、平和的手段のみを用いて世界平和を達成するという目標が達成できなくなってしまいます。しかし、破邪顕正と言いますし、従うものはこれを誉め、逆らうものはこれを斬り、というのは古来言われていることですからね。信賞必罰とも言います。私が正しい。私の命令が正しい。私の命令に服従する人が正しい。だから、私の命令に服従する人を誉めます。そして、私の命令に逆らうことは、悪いことであり、罪です。ですから、私の命令に逆らう人は、罰する。こういうことです。
つまり、私に反抗、反発、反逆する人には、罰を与えるのです。もちろん、平和的手段に限った罰です。なぜなら、私が正しく、正しい私に逆らうことは悪であり、罪であるから、私に逆らう人は罰するのです。
私は、私の命令に服従する人を大切にします。そして、私は、私に逆らう人を許しません。私に従う人には褒美を与え、逆らう人には罰を与えます。それが、私の生き方です。
今まで、平和的な手段のみを用いて世界平和を実現することを考えるあまり、世間一般に言われる平和への方途を意識しすぎてきました。多様性を受け入れるとか、違いを認め合うとか、そういうことが良いことだと信じ込まされてきました。しかし、私は、目が覚めたのです。
多様性は認めない。みんな画一化すべきだ、と。全世界の全ての人は、全てを私に合わせるべきだと。全世界の全ての人は、全てを私と同じにするべきだと。
全てが私と同じ世界。それが、私にとっての正しい世界なのです。
ここまで書いてきて、なんて自分勝手なことを書いているのだろう、と思いましたが、しかし、これこそが私の生きる道なのです。
多様性を認めないと、衝突が起きてしまうかもしれません。どちらも自分が正しいと言って譲らないことになりかねません。そうなったとき、どちらが正しいのか、白黒はっきりさせる必要が出てきます。今までは、殺し合っていました。それが、戦争です。しかし、これからは違うのです。平和的手段を用いて優劣を争います。ここがポイントです。
どちらも自分が正しいと言って譲らないとき、両者の主張が激突します。今までは、戦争が起きていました。しかし、これからは違うのです。平和的手段を用いて主張の優劣を争います。つまり、言論闘争です。相手を言い負かした方が勝ちです。そして、勝者の意見が通り、敗者は勝者の意見に従うのです。これが、平和的な対立の解決方法です。
意見を戦わせるのです。それが、文明的な対立の解決方法です。議論が対立したとき、意見が平行線になっているとき、そういうときは、どちらの主張が正しいか、意見を戦わせて、白黒はっきりさせるのです。そして、相手を言い負かした方が勝ちです。そして、勝者の意見が通り、敗者は勝者の意見に従うのです。
私は、私が正しいことを、主張します。私は、私こそが正しいことを、主張します。私は、私のこの主張に従う人には褒美を与え、逆らう人には罰を与えます。罰とは、非難、批判、否定です。全て、平和的手段を用いて罰を与えます。
私は、全世界の全ての人を愛しています。私に従う人も、逆らう人も、同様に愛しています。愛しているからこそ、従う人には褒美を与え、逆らう人には罰を与えるのです。