科学小説「月からの手紙」4話
科学小説「月からの手紙」4話 ゆらぎ
厳寒期においても凍結しない湾を持つノヴァ・スコシアは、カナダで最も入植が早く行われ、発展していった地域である。そこに隣接するようにして、特有の赤い土と緑豊かな島がある。 ヴィクトリア女王の父の名にちなんで呼ばれるプリンス・エドワード島である。
これら地域の村の子ども達に教育を施す「校長」の役職に就いていたのが ジョン・バートン・ニューカムであった。1835年3月に生まれた息子、サイモンは父から受けた教育以外に正規の学校教育というものをまったく受けていなかった。
16歳になったサイモン・ニューカムは薬草研究家の見習い助手となるが、この人物がとんだ似非学者であることがわかり、嫌気がさしたニューカムはついに彼のもとから逃げだした。
200km近い旅の末、メイン州の港までたどり着くと、今度は船乗りとして働きながら、各地を転々とし、 1854年にはメリーランド州にわたった。ニューカムはこの地で教師の職を得るが、そのかたわら政治経済や宗教などを独学で学んだ。とりわけ彼は、数学や天文学に強い関心を持ち、ニュートンの書いた「プリンピキア」を愛読したのもこの頃である。
2年後にはワシントン近郊に移るが、ここでも教師をしながらワシントンの図書館に通い数学を学んだ。 フランスの偉大な天文学者ラプラスが書いた「天体力学」の英訳本をスミソニアン協会図書館から借りることができたのは幸いだった。
1857年、スミソニアンからの推薦により、ニューカムは当時マサチューセッツ、ケンブリッジ にあった米航海暦局に職を得ることとなる。そこでの彼の仕事は、航海に使う新たな天体表の作成 だった。
この頃、アメリカの北部、南部諸州の間では緊張が日増しに高まっていた。1860年の大統領選では、奴隷制の廃止を主張する共和党のリンカーンが当選し、これに 不満を抱いた南部諸州は、アメリカ合衆国を離脱しアメリカ連合国を結成。翌年には南北戦争が 始まった。
戦時に入り、合衆国海軍に籍を置く数学教授のなかには職を辞するものもあらわれた。海軍士官に 必要な訓練や教育を施すため、あるいは航海に必要な天体暦を維持するため、空いたポストを埋めなければならなかった。こうした状況のもと、 ニューカムはワシントンの海軍天文台に、数学・天文学の教授として任命されることとなる。2年後にはメアリー・キャロラインという女性と結婚している。
1870年12月22日の部分日食をニューカムはパリで観測していたが、 この時のパリも極めて困難な状況に置かれていた。オーストリアを破ってドイツにおける主導権を確立していたプロシアの次なる矛先は、 ナポレオン3世が統治するフランスに向けられたのだ。
1870年7月、プロシアの宰相ビスマルクは、ドイツを結束させフランスに対抗する準備を 進め、臨戦態勢に入っていた。対するフランスでは、東部アルザスを中心に20万もの大部隊を配備。19日、意を決したフランスがドイツに宣戦を布告するが、準備を整えて戦いに臨んだドイツ軍の前にフランス軍は敗退、9月2日にはナポレオン3世も捕虜となってしまう。さらに その2日後には パリで暴動が起こり、フランス臨時国防政府が成立してプロシアと講和交渉に入るが、これも失敗に終わる。
進撃を続ける18万ものドイツ軍部隊は、1870年9月19日、パリを攻囲。クリスマスを前に、食糧不足と戦いながら3ヶ月以上もパリを守っていた市民の頭上で、 日食が起こったのだった。
年が明けた1月5日、ドイツ軍の砲撃がついに始まり、やがてパリ天文台も市街戦のただなかに置かれるようになった。ニューカムはかろうじて戦火をくぐり抜け、パリを脱することができた。イタリア語やスェーデン語を解するだけ でなく、フランス語とドイツ語をも操れる能力がヨーロッパでは重宝した。このときニューカムは、1672年までさかのぼる日食の精密な観測記録が、パリ天文台に残されていることを知ったのだった。
帰国したサイモン・ニューカムの指導下、1873年10月には当時アメリカ最大の口径26インチ(66cm)望遠鏡が海軍天文台に完成した。その年の夏、パリ天文台の友人が手紙の中で、「プロキオンの伴星を発見した」と知らせてきたため、何度も26インチ望遠鏡でプロキオンの伴星を探したものの、ついに確認できなかった。それもそのはず、友人が見たものは伴星ではなくプロキオンの光学的なゴーストだった。本当にプロキオンの伴星が発見されるには、1896年、リック天文台での観測を待つことになる。
ニューカムは天王星と海王星の新衛星の発見にも精力的に取り組んだ。当時、すでにそれぞれ4個、1個の衛星が見つかっていたが、彼は、 新衛星の軌道から海王星の正確な質量を求めようとしていたのだ。しかしながら、実際には新衛星を ひとつも見つけることができなかった。
ニューカムが最も大きな関心を抱いていたのは、月や惑星の軌道理論だった。さまざまな天体からの 重力によって月や惑星の軌道が乱される「摂動」(せつどう)を計算することで、月や惑星の位置を精密に求めたいと考えていた。
当時は、デンマークのハンセンが作成した「月計算表」(1857年版)というものが使われていたが、計算位置と観測位置との明らかなずれが生じていたため、ニューカムは正確に求められる月の運動理論の完成を目指していた。ハンセンの理論は、1750年以降の観測位置に基づいていたのに 対し、ニューカムはもっと過去の観測も取り入れようと考えた。そう、パリで見たあの貴重な記録が役に立つのだ。1750年以前の記録を調べるうちに、ニューカムはハンセン表のなかに誤りを発見する。
こうして、ニューカムが行った天王星、海王星、そして月の運動に関する研究は海外からも高く評価され、 1874年の英王立天文学会は、ニューカムにゴールドメダルを授与することにした。(ハンセンもゴールドメダルを1842年と1860年の2度にわたり授与されている) そして翌年には、ハーバード大学天文台台長のポストを提示されるが、彼はこれを丁重に辞退した。 彼が愛してやまなかったのは観測天文学ではなく、観測データを説明できる数学理論だったからだ。
1877年、ニューカムは(この時はワシントンにあった)米航海暦局の局長に就任した。 それはまさに彼に打ってつけのポジションであった。同年彼は英王立協会のフェロー(研究員) にも推薦されている。
惑星のケプラー運動からのずれ、摂動には、周期摂動と長年摂動があり、摂動の理論を完成するには実に多大な努力を要する。惑星の摂動理論の基礎となったのが19世紀の終わり頃、 アメリカのニューカムと彼の助手であるヒルが作成した理論なのである。ニューカムは、ラプラスのアイデアを拡張し、摂動関数を楕円軌道にも適応できるようにしていた。
1896年のパリにおける国際会議では、各国の天体暦が、ニューカムらが導いた定数を採用するよう勧告が出された。
1884年にはジョンズ・ホプキンズ大学の数学教授となったのち、1890年には英王立協会からコプリーメダルが贈られているほか、1893年にはフランス政府からもレジオン・ドヌール勲章が、1898年には太平洋天文学会からブルースメダルが贈られている。
その後のニューカムは、アメリカ数学ジャーナルの編集にも加わり、1897年から2年間は米数学会会長として、1899年から6年間は米天文学会の初代会長としても活躍した。
学術書だけでなく、児童、一般向けの天文解説書やサイエンス・フィクションまで書いていたというニューカムは、 旅と芸術、そしてチェスを愛好する男でもあった。
1908年9月、彼の容態が悪化し始めた。医者の診断は膀胱癌だった。余命いくばくもないことを知ったニューカムは、残る命を月の運動理論にささげる決意を固める。最後の研究が完成した喜びもつかの間、1909年7月11日、ニューカムはワシントンにて74歳の生涯を閉じた。
アーリントン墓地での埋葬の儀には、海外からの政府代理人のほか、当時のアメリカ大統領ウィリアム・ハワード・タフトも参列していたという。
水星、金星、地球、火星、天王星、海王星の運動理論については、ニューカムによる計算表が 完成していたが、木星と土星についてはニューカムの部下であったヒルが担当していた。
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ジョージ・ウィリアム・ヒルは1838年3月3日、ニューヨーク州の彫刻師の家に生まれた。
中学生になったヒルは数学において優秀な成績を示し始めた。高校を卒業後、1855年には ラットガーズ・カレッジに入学。そこで彼はトーマス・ストロングという数学者の手ほどきを受ける。ストロングの手元には、ラプラスの「天体力学」やラグランジュの「楕円関数」など、 さまざまな数学書があり、ヒルはこれらを借りてきて、一般の学生レベルを越える多くの内容を吸収することができた。ストロングが関心を持っていた惑星運動に次第にヒル自身も惹かれるようになっていった。
あまり人付き合いを好まないヒルは孤独の研究を進めるタイプの人間だった。余暇をすごすときもひとりでいることを好んだ。
1861年から189年までヒルは米航海暦局で働くことになるが、1861年の彼は、 人生最初の「賞」の付くものを数学誌のエッセイ・コンテストで獲得している。航海暦局に入ってまもなく、 ドローネ(フランス)の「月の運動理論」に書かれた理論を学んだ彼は、行列式を月の運動に用いるという試みを始めた。1877年に自費で出版されたその論文は翌年には数学誌に掲載され、 正確な理論のためのさまざまな手法が展開されていた。
ヒルの上司であったニューカムは、ヒルのこうした才能に注目し、惑星の摂動論中もっとも難物とされていた 木星と土星の運動理論の作成をヒルに任せることになる。そのようなこともあり、航海暦局でよい待遇を与えられていなかったヒルの給料をあげるため、ニューカムは骨を折った。
これらを成し遂げたあと、彼はニューヨーク州ウエスト・ナイヤックの故郷へ戻るが、その後 ニューヨーク市のコロンビア大学で数学を教え、1896年までの2年間はアメリカ数学学会初代会長を務めた。その後、1902年には英王立協会のフェロー(研究員)に推され、1909年には同協会からコプリーメダルを授与されている。
ヒルは生涯を通じて結婚をすることもなかったが、人生の多くの時間を故郷の家族とともに 過ごすことができた。決して裕福とはいえなかったが、1914年、自宅で息を引き取ったときの彼の心は十分満ち足りたものだったに違いない。
こうしたヒルの業績の中で最も大きなものは、やはり月の運動理論だったが、その理論をさらに完成度の高いレベルに引き上げた人物が、イギリス、ヨークシャー出身のアーネスト・ウィリアム・ブラウンだった。
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1866年、農家の次男に生まれたブラウンは、1884年にケンブリッジのクライスト・カレッジ に入学する。在学時、数学で好成績をあげたトップ6人に名を連ねることになる。1889年には 英王立協会のメンバーとなり、2年後には王立協会から月理論に関する彼の最初の論文が刊行され、またケンブリッジ大学からは修士の学位も得ることが出来た。さらにこの年、彼は アメリカにわたることになる。ハーバード・カレッジで数学を教えることになったのだ。
1893年には応用数学の教授に昇格し、1907年にはエール大学の数学教授となった。 1932年に退任するまでその職位にあったが、夏休みにはケンブリッジに戻って過ごしていたという。
アメリカにわたる前のブラウンはすでにヒルの「月理論の研究」(1878年)を学んでいた。ブラウンがアメリカに到着した頃、ニューカムは惑星理論を構築中で、ヒルをなんとか説得して木星・土星の運動理論に取り組ませようとしていたのである。したがって、否応なくヒルは月理論から遠ざかることになった。ブラウンはいまこそ月理論が自分に向かって開かれている好機と見て、月理論に全力を挙げることになる。
地球と月だけが存在するのなら、月の運動理論は比較的簡潔になるのだが、 太陽や他の惑星からの重力が働くため、月の運動を記述するには大きな困難が伴う。太陽が地球に及ぼす加速度と、太陽が月に及ぼす加速度の差は、地球が月に及ぼす加速度の 約88分の1にもなる。そのほか、金星や木星などすべての惑星からも重力も考慮しなければならない。 地球が完全な球体ではなく、回転楕円体に近いことも月の運動に影響を与えている。
ブラウンの30年におよぶ研究の成果が、1919年の「月の運動表」として結実した。月の運動に影響を与えるあらゆるものが考慮された結果、月の位置を求めるには、三角関数 1632項からなる式を解く必要があった。ブラウンは、計算者の手間をできるだけ省くために、表値を使って月の正確な位置を求められるよう工夫したのだった。
それでも、ブラウンの理論は月の観測位置とは厳密には一致しなかった。そこでブラウンはいくつかの実験項を設けてその差を埋めることにした。理論からは出てこないこうした月のゆらぎを「フラクチュエーション」と彼は呼んだ。
その中には、時間とともに増大する長年項もあれば、大きな周期項もあった。その原因は地球の自転の不整にあるとブラウンは考えていたが、まもなくその正しさが 証明される。地球の自転が遅くなっている事実は、1927年頃に水晶時計が発明されると直接観測に かかるようになり、1937年には季節変動をも検出できるほどになった。
ブラウンもその業績により多くの賞を授与されたが、生活スタイルのほうは少し変わっていた。就寝時間の早いブラウンは、たいていは早朝3時から5時の間に起きていた。しかもベッドから離れることなく、濃いコーヒーで眼を覚ましたあとは、煙草を何本もくゆらせながら研究を進めるという生活を送っていたのだ。9時の朝食でベッドから離れる前には重要なひと仕事が済んでいたのである。
先輩にあたるヒル同様、ブラウンも生涯独身であったが、彼は社交的で旅行好きだった。 1938年7月に亡くなる直前まで研究を続けていたという。
その後、コンピューターの出現により、完璧と謳われたブラウンの月理論に異議が挟まれた。 1948年、「月の運動表」をコンピューターで解くことが始まり、 ブラウンの理論のなかに、2度同じ項が含まれていることが判明したのだ。
1960年には、コンピューターが(表の助けなしに)直接ブラウンの月理論から計算を行うようになり、 1984年になると、なんとブラウンの月理論さえ使われなくなってしまった。 ブラウンの時代には想像もつかなかったようなコンピューターが、あらゆる加速度を加味した運動方程式を直接解き始めたのだ。
月のフラクチュエーションのうち、「時間とともに増大する長年項」は、 地球の自転が遅くなっている現象で説明され、大きな周期項の部分は 地球内部の物質の移動によるものと考えられた。さらに1年周期の小刻みな周期項は 大気の流れに起因することがほぼ明らかになった。
「月による潮汐が地球の自転を遅らせている」という見解が、1865年、フランスのドローネ によって早くも指摘されていた。長年にわたる月の観測データから導かれた結論として、 地球の自転は、100年で1日の長さ(自転周期)がおよそ0.002秒長くなっていた。1世紀の間に、このわずかな遅れが累積されていけば、約0.6分。1000年後 には1時間分にも累積する。
もはや、一様に進む時刻基準として地球の自転を採用するわけにはいかなかった。1967年の国際度量衡総会では、 セシウム133原子の出す特定電磁波の波が、91億9263万1770回放射されるのに要する時間を「原子時の1秒」とするシステムが採用された。
しかしながら、日常生活では、地球の自転に基づく昼夜サイクルに合致した時刻が必要とされる。 そこで1972年からは、「原子時の1秒」を採用しながらも、地球の自転の遅れの影響ができるだけ時刻に現れないよう、「うるう秒」という余分な1秒を必要に応じ12月の終わり、あるいは6月の終わりに挿入することになった。
1972年から1999年までの27年間に22回の「うるう秒」の挿入があったが、 その後7年間は「うるう秒」の挿入がなく、2006年に23回目が入った。そして その後も「うるう秒」挿入頻度は低い水準を維持し続けた。 長期的には挿入頻度は高まり、 2050年頃には2年に1,2度の挿入が、さらに1500年後には毎月の挿入が必要との予測がされていたため、挿入頻度が低いままという事実は意外だった。
テヘラン地震・環境研究センターのアレーズ・ファクレジャハニらは、過去80年にわたる地球上のほぼ同じ地点で起こった異なる地震の記録を集めた。これらの地震波は同じような経路で 地球の核を通過したはずであった。解析の結果、固体である内核は、この45年間で地球の自転よりも年間約0.01秒ずつ速く回るようになったという。
この「スーパーローテーション」に よって地球の自転速度がどの程度影響を受けるのかはまだ不明だが、地磁気については、 東京工業大学の深瀬輝義やドイツ、カールスルーエ研究所のノーマン・グラッツなどのグループの行った320時間に及ぶコンピューターシミュレーションにより、今後100年間に地磁気が9%減少し、800~900年ほどで地磁気が「78万年ぶりに」反転するという結果が示された。 地球の外核とマントルの境界付近での物質の移動が「スーパーローテーション」の原因に なっているとすれば、自転の減速緩和も説明できると、ファクレジャハニは述べている。
2039年1月1日0時0分0秒の直前にも「うるう秒」、23時59分60秒が挿入された。 実に9年ぶりのことだったが、久しぶりの「うるう秒」に各方面への影響が懸念された。 これまでにもたびたび報告されてきたことだが、とくに1秒未満の正確さを要求される業務に使われるコンピューターで「うるう秒」が挿入されると、深刻な事態に発展する場合がある。 2030年には、サンフランシスコ上空で起こった2度のニヤミスや、 インド、ボバール郊外の薬品工場火災など、1月中に420件をこえるコンピューター 障害が世界中で報告されたのである。
2039年に入ると、精密な測定から月の自転においても全く予想外の変動が見つかった。2033年に日本によって月の北極近くに設置された月面天測望遠鏡が、月の自転に奇妙な変動を検出したのである。月内部の物質分布に何らかの変化が生じているのだろうか?
高感度月震計の数を増やして観測精度をさらに上げ、月内部を詳しく探る必要が出てきた。
2040年。ドローネ、ハンセン、ニューカム、ヒル、ブラウンといった人々の名が クレーターにささげられた世界で、彼らの後継である21世紀の研究者らは、驚くべき現象と出会うことになる。
月は死んではいなかった。
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参考文献 4話の内容で20世紀以前までは事実上ノンフィクション
クロニック世界全史(樺山紘一ほか 講談社 1994年)
南北戦争(ウィキペディア)
普仏戦争(ウィキペディア)
暦の科学(山崎昭/久保良雄 講談社ブルーバックス 1984年)
計算機による代数処理(R.パベル/M.ロススタイン/J.フィッチ 日経サイエンス 1982年2月号)
シャルル=ユージェヌ・ドロネー(ウィキペディア)
Charles-Eugene Delaunay (Wikipedia)
サイモン・ニューカム(ウィキペディア)
Simon Newcomb(Wikipedia)
Simon Newcomb (The MacTutor History of Mathematics archive / University of St Andrews Scotland)
Simon Newcomb (1835-1909) (CSB/SJU)
ジョージ・ウィリアム・ヒル(ウィキペディア)
George William Hill (Wikipedia)