#117 サルトル「実存は本質に先立つ」とは?本質が先か存在が先か?

実存は本質に先立つ。これは超有名なサルトルのことばだ。どういうことか。

世界といったとき、世界を認識する存在がある。植木鉢の朝顔も、池の中のメダカも、食卓の醤油瓶も、事実として存在するし私も事実として存在している。ではそれらは自分(醤油瓶に自分があるとして)の存在を認識し、世界を認識しているか。食卓上の醤油瓶にはその可能性は薄い。そういう人間のことをハイデッカーは、現存在(Da Sein)といった。存在一般から存在としての人間への問いである。

さて、戦後、サルトルは1966年に来日し、当時の学生にも大きな影響をあたえ学生運動の正当化に利用されてりもしたともいわれる。それほど影響力のあった思想だ。作家の大江健三郎は当時の東大仏文にいたし、いくつかの小説や評論を読んでみれば、多分にサルトルの思想に傾倒した気がする。

ちなみに、この年にはビートルズが日本にも来ている。1964年の東京オリンピックと新幹線開業で時代は戦後を創造しようとしていたころ。1966年に22歳の大学生は、逆算すれば、1944年生まれ。戦後の物資のない時代を徐々に生きて貧乏を知りつつ正義によって社会的不合理へのまなざしがあったはすだ。

これまでの哲学は実存とはなにかを追求してきた。ハイデガーなどのドイツ哲学はそこが出発点だった。これは存在論である。人の存在に関する哲学である。存在の意味を探ってきた。

自分の存在を認識できるのは、ただただ人しかいない。現実に存在する、のと、ただ単に存在するのでは、意味が違うだろう。人は醤油瓶のように存在しているわけではない。存在としての人があることを認識しているのは人である。そゆえに、その存在は醤油瓶とは違う。醤油瓶は事実としての存在であるが人は事実としての存在を認識できる現存在としての存在者である。

ハイデガーは現存在といった。ドイツ語でDa Sein。自分の存在を認識し、かつ自分とは何かを問うことができるわけだ。この方法論で存在とは何かを問うと、どうしても人とはどのように存在しているのか、となる。そして、人は世界を認識するが同時に世界内にいる二重性を持つ。人はどのような様式で世界と関わり認識し世界と関係性をもつかなのである。

この世界の認識と世界との関係性が問題になってくる。ここをチューニングしていったのがサルトルだといえる。彼は存在者の存在の在り方や様式を世界との関係式で解明しようとするドイツ哲学の伝統的な解を求める方法をとらない。むしろ、そういうややこしいことを回避しながら、現実に存在すること自体の意味から、つまり人間の存在の現時点から存在の在り方を未来に開拓するような、いってみれば、解の公式を打ち立てるような方法の周波数でラジオを聴こうとした。

解の公式をみつけ、解にしたがう生存の在り方はそれから外れてしまうと間違いということになる。例えば、サルトルの「実存主義とはなにか」にはペーパーナイフを例にそれが示されている。ぺーパーナイフは日本人にはなじみがないので、ここでは、お箸にしよう。

職人がお箸をつくるとき。お箸と言う概念があらかじめ職人には理解されている。つまりお箸という本質、使用方法と使用場面はあらかじめ理解されていて、その上で職人はお箸という「本質」にむかって作業する。

では人間もそうなんですか、という問いにどうこたえるのか。人間の本質と言いうのが予めあって、それに向かって生活する。いやいや本質といわれてもなにが本質なんですか?それを議論してるうちに自分の人生終わるかも。そんなことよりも明日の仕事の段取りと夕食の買い物にいかないとね、となる。

そうなると人は本質を理解しないまま生きているんでしょうか?それっていいんでしょうか?これまでの哲学者はおそらくそれはダメっていうでしょう。どうすればいいのか?

生きていることからスタートするしかない。本質の議論よりも実存していることが先だ、というのがサルトルの主張のようだ。単純明快で素朴な理論だ。拡張すれば、自分で自己決定し社会も変革できるという参加要請とも受け取れる。サルトルはこれをアンガージュマン(フランス語)という。フランス語の本来の意味解釈は別にしても、戦後思想の構築にもってこいということだったかもしれない。小田実(思想家)は書を捨て街に出よう、と呼びかけた時代である。

音楽を例にとると、12音階には平均律がある。これを調整しようというのがハイデッカーだとすると、楽譜あるんだから弾いてそこから調整しよう、というのがサルトル。双方いずれも度し難い。その両者の立ち居振る舞いが本質なのではないか、ということらしい。

個人的にバイオリンをやっている立場からいうと、調弦・ピッチのありかたからして、両方ありだよねが正直なところ。合わなければピアノと相談すればいい。ただ、ハイデッカーのいうように人は死を迎える。限定的な時間のなかで生きることを考えると解を求める気持ちもわかる。

ここまで書いて、人生のまとめとしていえることは、解はそれぞれありそれぞれ先哲の主張と理論を知っていることが手本になること。あくまで手本を手習いして自分で習字することだ。習字からやっと独り立ちできるのはもっとあとだということ。習字しているうちにそれに気づくと思います。

では次回、サルトル「自由の刑に処せらている」で話しましょう。