脳科学 と 渋沢栄一と 帝王学
“部屋とワイシャツと私”くらいなテイストで並べてみました (笑)
【チャンスの女神は前髪しかない?】
仮に本当にチャンスの女神に前髪しかなくても、そこいら中にたーくさん 居る。
らしいよ。(笑)
42歳を迎える2020年、今年はまだ『やりたいことリスト100』を書いていません。
この28歳からずっとやってきたのにやらないの?とも思いつつ
それより今優先したいことが3つ。
実現したいことも3つ。
優先したいことが3つ。
1、脳科学・認知行動療法を専門的に学びたい
2、自分自身が”論語と算盤“を実践したい
3、帝王学 何が起きても揺るがない心を鍛えたい
それって、裏を返すと、
1、自己体験レベルのことじゃ目指す指導者にはなれない、専門性や論拠が必要
2、理論や学問では人を勝たせられない、実践力・実を動かす力量を上げる必要
3、まだまだ心が細い、脆い、ブレやすい、動じない精神力が必要
っていう不足の会話と表裏一体。心の欲するところ。
実現したいことは3つ。
1、夢実現プロジェクトを広げて、主体的・能動的にご自身の未来を拓く人を増やしたい。老若男女問わず自己実現することの素晴らしさを伝えたい。どなたかがチャレンジしてみたいことにチャレンジできる環境を創りたい。
2、美容健康”心と身体“に関わる仕事を志した人たちのための、生き方・在り方と関わり方を学べるプログラムを作りたい。その方々が本来の目的から揺らぐことなく成し遂げたいことに邁進できる環境を創りたい。
3、”丁寧に生きる“ことを広げたい。それは自分を大切にするということ。美容健康、食と習慣、思考と行動、自分自身への関わり。例えば口に入れても大丈夫なものでお化粧品を生みたいし、大好きな施術を生かして新しい分野の技術開発をしたい。自己探求を深めたり、心の豊かさを実感して欲しいし、そういうことに興味を持ってもらえることを発信していける何かをいつも生み出していたい。
私自身が辿り着いた ”私が幸せを実感できる瞬間“が
「人と喜びを共有している時」
だったから、私が満たされる時はそれで、満たされない時は「相手が喜んでいない時」だったりする。
だから結構大変、相手次第になりがち。
特に大切に思っている相手にほど強く反応する。
『人の人生に関わって生きていきたい』ということと、
それは同時にほとんど全ての場面で思い通りになんかならない試練だらけの生き道なので、
極端に疲れて投げ出したくなることもあれば、突然感情のコントロールが効かなくなることもあれば、過剰に自分を責めて追い込んでしまうこともあるから、
私にとって感情のコントロールに
『帝王学』と『認知行動療法』はとても有効なのでした。
数ヶ月前、帝王学のお師匠様から「5年後どうなっていたいの?」と聞いていただいたことがありました。
1年前の私なら『もっとこうなってたいしああなっていたい、誰々みたいになってたい』っていう目標が必ずあった。
けど、2019年を乗り切ってみたら、もうあんまりどうなりたいかは無かった。
私、どうなりたいかなんて考えても虚しいと思っていることに気がついた。
だって理想の自分になれると思ったら大間違い、私は私だったことに変わらない。
出来ることは増えたし、やりたいことも変わった。
でも、前みたいに『これぐらいのサロンにしたい』とか『何人社員育ててたい』とか『2店舗目はいつまでに出したい』とか『こんな部屋に引っ越して家具はどこそこので食器は何ちゃらで』とか結構どうでもいい。
どう思われたいかもあんまりないし、人よりトロいから人一倍努力することも苦じゃなくなってきた。
別に早く出来てなくていいし、そんなに煌びやかに着飾りたいわけでもない。
あ、上質なものは少しでもいいから選べるようになりたいな、、、あ、1個あったね(笑)
あ、母を安心させられたらいいな、2個あったね(笑)
そう思うと、、、結構あるね(笑)
ただ、チャレンジしたいことがたくさん出来た。
クルンボルツ博士っていう素敵なおじちゃまがいらっしゃいました。
私はこの方のプランド・ハプンスタンス・セオリーという理論を学んだ時からこの方のお名前からしてなんだかとても好きで、クルンボルツクルンクルンって覚えた(笑)
クルンボルツ博士。私たちの実社会に大きな影響をもたらし、その生涯を2019年5月に閉じられました。
音の響きから入って、意味を知って、“計画された偶発性” ってワクワクしちゃう!って思っていました。
私は “望んだら手に入る” 理論 を持論に持っていますが(笑)
それは欲することを自覚するところから始まり、たくさん準備したり努力したり必要な力をつけていく過程に様々な出会いがあり、必然的に巡り合っていき、やがて手に入るのですが、
それを肯定してくれるような気持ちになったのを覚えています。
最近、尊敬する脳科学の先生が、クルンボルツの理論はスピリチュアルで言う所の“引き寄せ”なんだよね、と仰いました。
目が♡になって、「おー!!!なるほど!」キラーンって思いました。
私はこの脳科学の先生の講座がとても好きです。6時間があっという間です。
脳科学というと難しそうに聞こえるかもしれませんが、この先生はもともと、
「人の幸せは心の中にある」と思って心理の世界に飛び込んで、大学教授を目指されたそうです。だからお話の中身がとても温かくて柔らかい、その上で科学的根拠や生物学的根拠や社会心理学の分野にわたるたくさんの事象、事例、研究結果などを学ばせてくれます。
それが楽しい。
歴史を紐解くこともできるし、社会活動の変化を検証することもできる。
とても楽しい。
その先生が、チャンスはたくさんその辺にいっぱいあって、迷いなく意思を決めていきている人にはたくさん寄ってくるって。
そして陰陽五行で言う所の
“火 生 土 ”
伝達本能と引力本能
思いを伝える、魅力をあげる、引力本能を開花させる
というところと私の中でイコールになりました。
西洋も東洋も偉大な人たちが辿り着くところは皆、同じなんだな、と思いました。
その実践成功者を挙げるとするならば、私にとっては渋沢栄一さんの人生体験に思えます。渋沢さんの「自叙伝」は食い入るようにあっという間に読んでしまいました。
ビジネス書とかだと、例えお風呂の中ででも3ページで寝てしまいますw
渋沢栄一さんは幼少時から“優秀な指導者”の下で沢山の本を読むことで社会や歴史の事象や構造、哲学や心理や真理に触れ、環境が豪農だったことで商売のなんたるかを本能的に身につけていたようです。
チャレンジ精神旺盛で、志し高く
“日本を変える”ということにおいて、立志した少年期から”論語と算盤“が生まれた晩年期に至るまで一貫してその『意思決定』は揺らぐことがなかったため、思いを貫く一所懸命な生き方がたくさんのチャンスを引き寄せたように見えます。
目まぐるしく動乱期を駆け抜け、明治維新のあらゆる要人に関わり、たくさんの見聞と体験と気付きから”実業“の分野で志しを果たされた方です。
渋沢さんの最初の目標は倒幕でしたが、倒幕のチャンスの女神の前髪は掴み損ねて正解でした。
その後になんと標的であったはずの江戸幕府 最後の将軍慶喜公に仕えるチャンスの女神がやってきて、その前髪をしっかり掴んだのでしょう。
その後日本の動乱期に参画するチャンスの女神の前髪は逃したものの、慶喜公の幼い弟公を安全なところへ移すためナポレオン3世の治世フランスに留学するというチャンスの女神の前髪を掴みました。
フランスの銀行の仕組みを知り、そして奇しくもヨーロッパは産業革命の真っ只中で、日本と世界の力の違いを目の当たりにするのでした。
「日本の商業を興さねば!」その体験が維新後の彼の生き方を決める『意思決定』となったようです。
もし彼に『日本の未来を変える』という目的がなければ、目の当たりにする事柄に日本の未来の可能性なんてみ出すこともなく、チャンスの女神にすら気付きもしなかったでしょう。
気付かなかったら、無いのと同じです。
目に見えないものですら意識することで存在し始めます。
ちょうど一年前、私が手に入らない現実にもがき苦しんでいると、
お師匠様が私にこう仰いました。
「流れに身を任せなさい」と。
私は、クルンボルツくるんくるん“クルンボルツ博士”の理論と、渋沢栄一さんの人生を、知識レベルであったとしても知っていたことで恐らくは、
お師匠様のその言葉がスーッと、私の心を救ってくださいました。
“結構頑張ってきたしね、、、、ものは試しに流されるだけ流されてみようかな”
そうして、
人生初。具体的目標を持たずに、
なんとなく、やってみたいことはチャレンジしてよし。ダメだったらやめて良し。
という1年を過ごしてみたのでした。
結果、“〇〇でなければならない”人生から脱皮したかもしれません。
(してないかもしれません 笑笑)
【龍安寺】
に行ってみました。
去年の4月。
私は体験学習型です。
なんでも、自分の目で見て聞いて体験して実感したい。
“吾れ、唯、足るを知る ”
帝王学を本ではなく、月に一度、お師匠さまの元へ学びに行くようになったのは2017年4月でした。
そして2回目の5月だったかな、、、、一番最初に頭殴られたような言葉 。
私は我欲が強い人生です。
だから今もすぐに不足の会話が起きる 。
これが足りない、あれが足りない、自分の中の劣等感や欠如感に支配されていく傾向が強い。
「うまくいっていない」という幻想を見始めると、自分の中にその原因を深追いしすぎて渦にハマる。
人ができてるのに自分ができていないように見えてしまう。
特に日本人は不確実な要素が多い環境に身を置くと、楽しむことよりも不安を煽り集団心理に依存する傾向があることは、
脳科学の分野のみでなく、文化人類学的にも明らかなことで、
いわゆる村社会の歴史は分かるところで約500年前から確実に始まっていたそう。
これは日本人の6割強に見られる遺伝子の成せることで、欧米人と比べて悲観的に物事を捉えやすいため、会社や組織、地域に依存した意思決定になりやすく、いわゆる“個性的”な考えを排他する傾向が強いそうです。
そのため、本来大らかで楽天的な個性の欧米的で主体的発想の人が集団心理から外れると疎外感・孤立感に苛まれることになり、本来鬱になりづらいはずの人たちが日本では鬱になりやすくなるという。
私が鬱かどうかはもっぱら興味がない。
自分がどこに当てはまるのかは、遺伝子を調べないと正確に判断できないけど、それを証明することより、今何に苦しんでいるのかを知る必要がある。
自分のこともできないのに人のことができるわけがない。
理論や学問は背景としてとても大切だと思う。
個人の体験する人生観だけで物事を判断したり、誰かに何かを伝えるのは、
自由にやっても構わないけれど、そんな大した成果を生むことはできないと思いました。
ただ思いを叫んでるだけでは、本当に創り出したい世界は創れない。
人は確信的に安心できる“何か”という幻想を追い求めていて、根拠や理論があると安心するらしい。
私からすると、その根拠や理論も誰かの思考や思想だけどね、とか思ったりしました。
でも今は私自身、科学で証明されるものに安心を覚えていたりします。
人って勝手なもんだな、と自分自身のことを思います。
自分だって刻一刻と変化するのに、人だって一瞬一瞬変化する。
それを受け取れた時、過去より“今”と“未来”をどう生きるかに意識が向きます。
そして、美容の仕事の枠を超えて、大切なことを伝えていきていこうと思ったところで、人に伝えても伝わらない沢山の不足感から生まれた成長欲求。
伝えたいことが伝わらない、さて、このことに浸っている暇はない、どうしたら伝わるのか、どうしたら耳を傾けてくれるのか。
体験してきたことの学術的裏付けが欲しかったり、あらゆる場面に対応できる知識と判断基準が欲しかったり、人の心理の本質を知りたかったり、いかに自我(自分の正しさ)を抑えて人の肯定的な自己実現の支援ができるようになるか訓練したかったり。
全ては欲求から始まるので、その欲求に従って探求したり活動を繰り返すと
当然
壁にぶち当たる、もしくは期待していた通りの成果が手に入っていないと思い込んで自分自身にフラストレイトしていく。
こういう時にこそ、自分はどうあるべきか、という心の鍛錬をしていく必要を強く感じます。
それが特に経営・実業に関しては、渋沢栄一の
"論語と算盤"
特に私は“大立志と小立志”の話が好きで、何度も、そうだよね、と励まされる。
そして脳の仕組みや機能を知ることで自分の思考を客観視すると「今何が起きていてもいい」と思える安心が手に入る。
そしてこの自己体験は、
創り出したい成果=何か成し遂げたいこと
を誰かと一緒に取り組む際に、対人コミュニケーションの改善の為に役立つ。
それは「私もこうだったからきっとこの人もこうだ」と当てはめて決めつけるのではなく、
「私には私の体験があったように、私の感情があったように、私の考え方捉え方の癖があったように、この人にもこの人ならではの何かがあるはず」と、
頭を空にして目の前の人が何を考えどう感じて何を大切にしているのかを『共有』するところから始まる。
そして大切なのは「今、この人が何を感じていてもいいし、どう考えていてもいい」というスタンスで聞くことだと思う。
その上で、その人にとって、又は目的を達成するという課題にとって、又はチームにとって、「本当はどうしたいか」「本当はどうありたいか」という可能性の創作をその人と一緒に始めることだと思う。
“吾れ、唯、足るを知る”
は
“今、これです”
と在る事を在りのまま、受け取ることのように思う。
【needではなく、want】
本当はどうしたいのか の世界は、目先のニーズに応えるレベルのものではない。
needに応えようとすれば、私より誰かの方がとてもとても優秀で、私じゃなくても良いし、さもすれば、私じゃない方がいい、というドツボにハマる。
でも目の前の人のwantに応えるのは、その方の本当に創り出したい何かを、私も一緒に何かできることはないか、誠心誠意、共に創作することができる。
たとえ自分の力量が足りなくても、どうしたらもっと良くなるかを探求し、援助し、時には援助者を募り、自分に不足している情報やスキルは持っている人を巻き込んで来てしまえば、いかようにも結果は創れる。
私がどんなに自分がミジンコにしか見えなくて不足感に苛まれても、
目の前のどなたかのwant=可能性の創作が始まると、
急に我を忘れて一所懸命メキメキ元気を取り戻し発揮し始める。
東洋思想をなまじかじると「中庸」であることが良いことのように思い込みがちだけど、それはある程度自己実現を果たした後のことではなかろうか、と思う。
孫子の兵法だって、戦乱の世で統一を欲するところの戦略だし、孔子だって、そもそも軍師として雇ってもらおうと欲するから弟子を育てたし帝王のあり方を説いた。
もし帝王=リーダーが国民が豊かであることを欲さなかったら無法地帯になるのじゃないか?とか思う。
“吾唯足るを知る” とは
欲さないことではなく、“欲するところ”の今すでに手に入っていることに注目し、今在ることにこそ感謝して、謙虚に、「今これです」「そしてここからどうする」と、地に足つけて日々が一歩の連続であることなのだと思う。
その積み重ねが道無き道を切り拓くことになるのだと思う。
“千里の道も一歩から”。
私の言うところの“コツコツ亀さん”
トロくてものろくても、別にそんなのはどうでもよくて、
生きてる間にゴールにたどり着かなくても、
その生き道を生きているだけで“幸せ”だと思う、今日この頃。
ある時
お師匠様が仰った。
“極みを見よ”と。
私はまだ、スタートにもなっていない気がしました。
きっと、その“極み”を見たところから大きく何かが動き出すのだろうと思いました。
だから私は人生を通して、その“極み”が見てみたい。
私の中の“欲するところ”
心の声のままに。
“何が欲しいの?”
自分にも相手にも、そうやって関わって生きていきたい。
あなたは今、何が欲しいですか?
【鏡花水月】
鏡に映った花や水に映った月のように、目に見えていながら手に取ることが出来ないものの例え、知覚することはできるが現実に存在しない幻。
2020年3月1日
庚子 戊寅 癸卯
美知子
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