本当の自分になるためのレッスン③
乗り越えられない課題はやってこない
【本当の自分って何】
宿命ってご存知ですか?
これを読んでくださる方のほとんどは、
東洋思想が目に見えない縁起を扱うことや
輪廻転生論を展開していることを
ご存知ではないと思います。
私が今お師匠様から学んでいるのは
陰陽論、五行論、森羅万象学、東洋思想、密教思想、算命学
そして帝王学
です。
宿命をご存知でしょうか?
私はこの学問を知った時、
全ては導かれたと思いました。
あのタイミングでなかったら
そこに行くことを選んでいなかったし、
その準備ができていたことを
後から宿命によって知ることにもなりました。
宿命とは、
命が宿った日、この世に出てきたその日に、
森羅万象からこの肉体に宿ったエネルギーを
書き出してくれたものです。
それは、先天的な
私自身のもつエネルギーそのもの、と、
これからこの世で私がこの命をどう使うか、
使命、が書かれているのです。
東方龍高、北方玉堂
などの言語は、
この宿命のエネルギーを表していて
それがどこにあるとどのような働き方をして、
どのように自分の外側に影響していくか、
何をしたら自分の持って生まれた才能が
最大に開花するか、を記してくれている
一つの道標です。
そして2500年前から
繰り広げられてきたこの一つの学問は
惑星、天体と人間のエネルギーを読み解いて、
国を治める人の在り方を示した
帝王が学ぶ学問。
帝王切開の由縁。
聖徳太子の時代から
日本国家形成の基盤となった学問だと言うことに
私は感動したのと、
パズルがハマるような感覚、
私の人生の体験の連続が何のために起きてきたのか
本当の答えがここにあると感じました。
美容業を通じて、
人体と科学と心理を少なからず学んできて
「あー、これは科学だ、」と思いました。
説明会で座って14分、
答えに出会えたと思ったのを思い出しました。
違ったらやめればいい、
そう思って申し込みにサインして
あとはボーッと聞いていたのを覚えています。
腹腔鏡手術の後の回復が悪くて
まだ朦朧としていて普通ではなかったから(笑)
おそらく多くの方は、
その類の学問を、学問として国立大学で研究されたり
日本の一統を1300年以上前から生んできたこと
ご存知なくて
一括りに
スピリチュアル
だと思っていらっしゃると思います。
まあ、目に見えないものだから
スピリチュアルって言えばそうなんですけど、
一般的にスピリチュアルって
根拠のない当てずっぽうの霊媒師みたいのを
スピリチュアルって言いません?
その意味ではないですってことです。
私のルーツである家系も
世の中の方にお話しすると
だいぶスピリチュアルだけどw
人には理解できないことでも
本人たちにとっては事実だったりすることってありますよね。
さらにこれは文献学って言って
日本古来の学術がたくさん残ってるのを
学問として研究されているのです。
【私の42年をつくってきた幻影】
私に目に見えないもののを叩き込んだ父は
自分に都合の悪いものを霊媒と呼んでw
祖母はその目に見えないことの話を
しこたま私に植え付けましたけども、
いわゆる「ご縁」とか「徳積み」とか?
その語源ってこの学問なんです。
もちろん家系の人たちはこの学問は知りません。
でも歴史の古い武家には
当たり前のことばかりだったのだと思います。
なぜなら、武家の棟梁、
徳川の世の制定に陰陽五行を用いたから。
「腐っても鯛」と親族は笑っていました、武家です。
私は、この学問に出会うまでのベースがあります。
子供の頃から人に話しても
作り話だと思われるので
誰かに相談したくてもできませんでした。
この学問に出会った時
「やったー!!!きっとわかってくれる人がいる!」と思いました。
いや、そんなニッチな話分かる人はいませんでしたがw
父の3回忌のあった年あたりに出会ったこの学問は、
私には父が私を導いてくれたと思えてなりません。
もしかしたらご先祖様一同総出で
最後の一大イベントかもしれません。
父と私の宿命によると。
父は丁巳、私は辛巳、月干支が癸亥です。
学ばれてる方は、分かることでしょう、
私と父は宿命通り。
ちなみに、
祖母は庚戌で祖父は壬戌、
父の年干支は丙戌で、
弟と子供たちには皆丙戌が入っていて、
なんなら一人は庚戌も入っている戌属です。
私は大運が壬戌から始まります。
これだけ父方の話をしていてなんですが、
ちなみに私の六親法では
母方の母の家系のようで母もその母も巳持ちです。
祖母が私だけ可愛くないって
本気で言ってたのはこれのせいか?とか思ってますw
ほら、こんなのって
世の中ではスピリチュアルっていうのでしょ?
めちゃくちゃマニアックでしょw
でも本当に楽しいから興味がある方は学んでみて欲しい。
ぜひ一緒に学んで、大いに語り合いたいものです。
自分の人生も家系もいろんなことが
「マジか!!」ってなります(笑)
そういう目に見えないものの
不思議な力のお話は我が家では普通のことでした。
もっとも、母と弟は理解できないことを
父と私が話すので、嫌がったり、
弟は記憶力の良い私のことを
”嘘つき” ”キチガイ” って今でも思っています。
そんな弟の方が実はよっぽどスパイシーな宿命でした。
彼は知りたいとも思わないそうで、
一緒に学べたらと思ったことも何度かありましたが、
それは私の願望だから今はもう言いません。
私が子供の頃には親族が集まると、
400年続いた家系の因縁のことや、
昔本家の法要で夜中にお手洗いに行こうとしたら
遠くに青い玉が浮かんでいたらしく
「お別れを言いに来たけど怖かったわー」
なんていう話を朝から楽しそうに盛り上がって
話してしまうのが普通でした。
うちの敷地内に土葬のお墓が400年分、
そこに埋葬して火の玉が浮かぶんですって。
太平洋戦争の後から火葬になったけど、
火葬もその土葬の脇で弔ったそうです。
今は科学で人の溶ける時に出るガスが
夏の暑さで蒼く燃えるって言われてます。
慶長三年と書いたお墓から16個。父と数えました。
丸に十の家紋。
我が家の冠婚葬祭は
この家紋が入った着物を着ます。
足元に2つ、
働いてくれていた方の夫婦墓が
可愛く並んで優しい丸さに苔が蒸して、
子供ながらに、
亡くなった後も一緒にいられて幸せだろうなと思いました。
他に無縁仏もありました、
子供ながらに怖くて凝縮できなかったから、
フォルムの記憶はありません。
父が他界する前に
もう因縁を残さないようにと
永代供養をしてお墓をまとめて、
土葬していた土地に
弟たち家族が行かなくて良いように
お寺さんにお願いしました。
弟はこういう話を怖がってちゃんと聞かなかったし、
父は私に継がせたがったけど、
病床で父と話し合って、
家系を長男に継がせるのがご先祖様への義だ
ということで落ち着いて、
お墓を嫌がる弟のために閉じることにしました。
たくさんあった昔からの物品は、父より長く生きた父の叔父さんに思い出として全て譲ってしまいました。
我が家にはもう、400年守ってきた何も残っていません。
残ったのは、古い墓石と、私の中の記憶だけ。
昔のことを知っている人たちもみんな”あちら”に還って逝かれて、
叔母が二人いるけど、
誰も居なくなった家系のことを
お話をすることはありません。
私が子供の頃は賑やかでした。
親戚中が寄ってたかって、昔話で宴会でした。
九州山陽四国に散らばった代々の親族が帰ってきました。
江戸の後期のご先祖様が妾を切り捨てて、
3代先まで祟ってやると言って亡くなったそうで
それから3代女の子しか生まれず、
3代とも他家から養子をとって、
誰も働かず、毎日呑めや歌えの宴会だったそうで、
端からお金に変えてしまって財産を食い潰したとか、
維新の功労で警察官になって、
こんな片田舎でサーベル下げても仕事がなかったとか
古い写真を見返しながら
そんな話を盆正月、酒盛りしながら
話すのを聞かされていました。
その広い山間の土地の一番高いところに
家を構えて納めた家系で
今でも本籍は 「有徳原」と書いて、
中原とは呼ばずに
「有徳原」”うっとくばる” というのでした。
私の子供の頃は、ただの山で、なーんにもなくて退屈すぎて
そんな話はどうでもよかったというか、
父がよく、庭を掘ったら石油でも出ればいいのに、
と笑ってましたが、
そんなの出るわけないやん、
と無表情で思っていたような子供です。
昔仕えてくださっていたお家の方々が、
みんな農家になっていて、
たくさん食べ物を持ってきてくださって、
土間から上がらず、腰掛けて、
祖母がお茶を出していました。
食べ物も、お醤油もお酒も
「有徳原ですけど」と電話をすると持ってきてくださって
そんな山の中ですが、
祖母は車の運転をとうとうすることはありませんでした。
50年の法要には御座敷にお膳が何十も並べられて、
ご近所の方々がお手伝いにきてくれていました。
40年ほど前のことです。
私にはつい最近のようにあの活気まで思い出されます。
父が生まれる前の年、日本には原爆が落ちて、
太平洋戦争は終わりましたが、
良家に嫁げると思って
終戦直後の大分の山奥で
白無垢にタクシーでお嫁に行った祖母は、
金目のものは全て持ち出された後で、
愕然としたそうです。
子供の頃によく聞かされました。
残ったのは戦争から帰ってきた9人の男兄弟と
曽祖母が早くに他界していたので
働き手のない家事と御百姓仕事だったそうです。
「武家で働き手がないけん、百姓から嫁をとったんじゃ」
と祖母は言っていました。
子供ながらに、
おばあちゃんは好きな人とかいなかったのだろうかと思いました。
働くために嫁に行く、なんて、私はむりって思いました。
自宅から車で1時間ほど、
山の中を抜けて年に何度か帰る道すがら、
私は嫁には行かずお墓もお父さんと同じお墓に入ると、
言っていたのをとてもよく覚えています。
祖母が亡くなる12歳くらいまで言い続けました。
祖母の納骨の時に、
”あ、もう隙間がないかも”
と自分の納骨の隙間がないことを
確認したのが今は笑えます。
お正月やお盆には、
名家に養子に出た祖父の兄弟の子や孫が
ご挨拶にお越しになるから
祖母も母も食事を一緒にしたことはありませんでした。
朝から晩まで人がきて、ずっと、台所に立ちっぱなしです。
維新の後の頃の写真や刀の柄が二階の、
昔父の部屋だったところに仕舞い込んでいて
親族が集まると引っ張り出しては、
礼服に勲章をつけてサーベルを下げた
”ひいひいお爺ちゃん”の写真を見せられて
「武士は食わねど高楊枝」と教えられました。
プライドの高い親族ばかり、
子供ながらに
「なんで今じゃないんだろう。その頃生まれたらよかったのに」
と思っていました。
今思えばそんな頃に生まれてたらとんでもないことです。
父が生まれた頃は、お金がなくて、
とても苦労したそうです。
お金はないけど祖母の畑仕事の傍で、
おじいちゃんは鼈甲のタイ留めをして
スーツで畑の畔に腰掛けてタバコを吸っていた、
というのが、父と父の妹たちの定例の爆笑話でした。
お金がないのに毎日お酒を飲んでは、人を連れてきて、
やれおもてなししろ、酒を買ってこい、
つまみはないのか、魚をだせ
と人の良いことを言うので祖母がいつも怒っていたそうです。
父もおもてなしが大好きでした。
子煩悩で、人の喜ぶために一所懸命尽くす人でした。
祖父の話をする時、父はいつも嬉しそうで、
おじいちゃんの影響だと子供でもすぐにわかりました。
父がまだ小学生くらいの子供の頃、
捕まえたウサギがあまりに可愛くて、
でも飼いたいと言えず、
誰にも内緒で床下で飼っていたところ、
ある日学校から帰ったらキツネに
殺されてしまっていたそうです。
普段は子煩悩で優しいおじいちゃんが怒ると怖くて、
「なぜお前はそんな殺生をした、お前のせいでウサギが死んだ」
と叱られて、
膝に竹を挟んで正座で柱に括り付けられたそうです。
父は、絶対に生き物を飼うな、かわいそうだから、と
私たちにペットを与えてはくれませんでした。
おじいちゃんは私が生まれる数年前に他界していて、
会うことができなかったけれど、
たくさん話を聞かされて、
今もおじいちゃんはお父さんと一緒に
私を守ってくれてると感じることが多くあります。
祖母はとても激しい人で、厳しかった。
墓参りに私を連れて車で出る父に
いつも大きな声で、きつく、
「のぶひろっ!先に挨拶に行かんかったら義が通らんぞ、義を通せよ!!」
と言います。女性ですw
「あんたたちゃー、よう徳を積みよ」
と言うのが祖母の口癖でした。
毎日畳に雑巾がけをして、
お手洗いを素手で磨き、障子を叩きます。
糠床を解いて、それからワイドショーをみていました。
そしてお昼近くなると
近所にお買い物に行くからと留守番をしました。
祖母がお昼寝をする時に、
「みっちゃんここにおいで」と言われる以外は
身の置き所がわかりませんでした。
でも「おいで」と言われて側で
お昼寝をする時にそっとおばあちゃんのお顔を
じーっとみてみたのを思い出しました。
保育園に初めて行った日、とても不安で、
園の近くに白い大きな犬がいたのを覚えていますが、
それ以外は記憶になく、
多分祖母に連れられて行ったのではないかと思います。
祖母は厳しい人でした。
私のことはどう思っていたのか今もわかりません。
いつも「なしあんたはそげ可愛くないかえ」
と言われていました。
「なしそげ鼻が低いかえ」と摘まれていました。
いつも弟だけ連れていなくなりました。
私はただ待つしかありませんでした。
それでも私が好きな食べ物は作ってくれていました。
炊き込みご飯、
グリンピースご飯(しょっぱいご飯なら食べたから)
自然薯トロロ、里芋、竹の子、焼きナス、お豆腐屋さんの餃子、
ブリの琉球。
以上。w
今思うと
私はとても好き嫌いが多かったんだと思います。
酒飲みになると言われてましたw
祖母の人生も一人の女性として思うと
苦労しかなかったと思います。
父の3つ下の次男は3歳の時に高熱で亡くなりました。
愛する子供を失うのはどんな体験だったのか、
その子の名前は出すけれど、
その時のことを祖母の口から聞いたことは
一度もありませんでした。
その後三人の娘を持ちますが、祖父の癌で
家計は父が18歳から大阪に出て働いて、
医療費と生活費と妹たちが学校に行くお金を工面したのでした。
父はとても優しくて厳しかったですが、
愛を知っている人だったと思います。
「みっちゃん、人には優しくしよ、優しくせんとだめで」
3歳くらいの頃でしたか、
そう言われていたのをつい昨日、思い出しました。
お師匠様が最近仰ったのですが、その時には思い出しませんでした、
人に優しくできない自分を責めてばかりいたからかもしれません。
そしてその時にふと、フラッシュバックしました。
「お父さんが早く死んだら
あんたがお母さんとしんちゃんを守らんといけんよ」
父と一緒に山道を車で登る途中、
いつも私は車酔いしてぐったりしていましたが
父はそう言って前だけ見ていました。
運転しているからか、何か遠くを見ているのか。
いつの頃からか私は
そのように刷り込んでしまったのだと思います。
父は祖母の葬儀の時に、
私に葬儀の出し方をよく見ておきなさいと言いました。
その時になんの不満も不安も感じなかったのは
そのせいかと思いました。
そして父の葬儀もとても晴れやかに
見送ることができました。
取り乱すこともなく。
そもそももう小さい時から私、
何かだいぶズレてたんだと思いますw
ちなみに、父にとって私は男の子である予定だったらしく
「男やったらリュウジやった」と言われて驚愕でしたw
教えてくれたけどもう漢字は覚えてませんw
14時間の難産の末に
女の子の名前を用意してなかったらしく、
女の子の名前をつける努力をせずにw
父が慕っていた母方の祖父が
私の名前を付けてくれました。「美智子」。
でも母が役所に届ける時に
なんとなく雰囲気で「美知子」に変えたそうです。
今でも「なんでやろうなwww」と笑っている母に爆笑です。
誕生日も予定より1日ズレて、性別も的外れw
名前は流れに流されて今の名前
でも
全てとてもうまくいっている気がします。
宿命を知って、
目に見えないものの力に支えられて
生まれてきたような気がします。
子供の頃、法要には御院家さんがいらっしゃって、
小さな私と赤ちゃんの弟を膝に乗せて、
釈迦のおをよくしてくれていました。
お経の意味もお話されたりしていました。
三部経と言って、
とても長いので途中でお茶タイム(お説法)があるのです。
家は真宗御東ですが
300年近く前に元は御西だったのを
ご先祖様が荒い人で、
寄付金のことで大喧嘩して
お東に乗り換えたという文献が残ってますw
この300年近く代々お世話になっているお寺は
”徳大寺”
と言って、ここも何百年も、
それはそれは美しい木造の大きな龍の欄間が迎えてくれて、
歴史に舐めされた黒い木の床は
ツルツルと心地よくてひんやりして、
空気も澄んでいてとても心地よい場所でした。
祖父の代も皆絶えて、
父は私に歴史を継がせたかったのでしょうが、
「継がせたところでお墓しかないのう、
普通の女の子として育ててやったらよかった」
と病床で嘆くので父娘二人きりで36年を振り返って爆笑でした。
仏間には「功徳」と書いた書があって(笑)
今思えば、どんだけ徳を積まないといけない
家系だったかと失笑です。
ご先祖様たちは私に最後の頼みの綱を持たせて
今世に送り出したことでしょうwww
お祭り騒ぎです。
つい先日までは、
私は家系の償いをするために
この命を授かったと本気で思っていました。
全く世界が違うんです。見える景色が違う。
でも、今日は、破壊と創造。
漂白の三週間。
なんでこんなに長くこんな身内のことを書いたかというと、
この私のコンニチまでを
作り続けてきた過去の記憶たちを
全部、全部、箱に入れて、
大事にお弔いして、
因縁はお水に流すように、時間の流れに委ねて、
ご縁だけは、今世感謝して、
これから本当の自分自身に出会うために
私を縛り付けていたものに別れを告げたからでした。
愛する私の家族の思い出、
それは消えることはないけど、
もう一つのパラレルがあって、
家系の償いとして生きるか、
一同総出の一大イベントととして生きるかw
それとも、それはそれとして
本当の私自身に出会う旅路を歩き始めるか
人生は自由に今、選び直すことができるから
勝手に背負ってきた重荷を置いて
昨日、一人お山に行ってきました。
まだ気が付いていない自分を探しに
向き合う時間にしたかった。
天中殺日にご縁に導かれて
大阪箕面市の
勝尾寺
に行ってきました。
こんなゆったりとした時間を与えていただいたので、
何かすごく大切なことに出会えるかも、と
自分から何かを変えられるかもしれない
期待をしました。
もしかしたら北方玉堂星が開くかもしれない、と
自分の未来にとても期待をしていきました。(超エゴ笑)
2021.7.13
辛丑
乙未
壬戌
あら、今日は私のハッピーデイだった。
どうりで、素敵な景色に巡り逢えました。
(長いからね、読んでくれる人も大変だ!
かれこれ7時間、ちょっとヘロヘロですw)
美知子
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