汽車ごっこ (小説)
四人の子は、空き地につどってから、父と母の悪口をいった。それから、自分たちは、かならず、父と母より、すばらしい教育をすると、誓いあった。四人は、八歳の小学二年生である。しかし、切なく笑えるほど、四人は垢ぬけていた。それは、たぶん、四人のあいだで疑問をもちより、議論につばをはきあい、世のたいていの嘘をあばききったからだった。
四人の子は、三軒ずつが向かいあう区画で、四隅の家に分かれて住んでいた。区画のまんなかは、北側が空き地であり、南側が空き家であった。鎌倉市の小学校を、四人でそろって登下校していた。すると、空き地につどうことは、放課後はおろか、休日のなぐさみにもなっていた。
四人の子の名は、ケンタ、アツシ、ナナミ、モエであった。四人とも発育がぬきんでてよかった。とりわけ、アツシとモエの両人は、男と女のしるしが熟れつつあった。ケンタとナナミは、やや中性気味の顔だちだが、顔面骨は大人びていた。
だが、四人はたしかに八歳児であった。空き地のあそびは、子どものそれとかわらなかった。四人の子は、ひんぱんに、汽車ごっこにあけくれていた。
子の父と母は、二階の格子窓より、空き地をながめやった。「シュポシュポ」と口ずさみ、タテ一列になって走りまわる四人の子は、あんまりかわいいので、日ごろ、生意気に吐かれる悪口を忘れ、頬をゆるめられた。
◯
二〇〇五年の冬至である。四人の子は、空き地につどった。聞き耳をそばたてるとわかるが、いささか八歳と信じがたい、肉牛のようなくぐもった声を使っていた。つまるところ、八歳のイメージを強めると、四人の子は、実在しえないような錯覚にとりつかれた。しかし、四人の子はたしかに空き地に座っており、その声は聞こえるのである。四人の子は、すぐそこに居るのである。
冬至は、何のシンボルか? ケンタが呈した論題に、四人は知恵をしぼりあっていた。『易経』だの、二十四節気だの、こむずかしいことばをならびたててから、桃の小枝で土をがしがしこすった。
「くらやみのおとろえる過渡期」
けったいな字を彫りつけたものだ。四人の子は、どこか、すがすがしい顔をしていた。冬至の天へ、ふっと笑いかけている。父と母のクリスマスプレゼントより、この天こそ、四人の求める贈りものだと確認しあえた。
それから、魔法壜につめた葉茶をそそぎあった。モエの母から借りた火鉢にあたり、かじかんだ指さきを四人でほぐしあった。
四人は、何度もつどうほど、このつどいがどのように始まり、どのように終わるかがわかってきていた。ナナミが、コートのポケットをいじくることが、おしゃべりをやめる合図だった。ナナミのポケットより古びた縄がだされると、四人はうなずきあった。
縄には草の糸がひしめいていた。縄をぐしゃりと曲げると、草の束がおおきくもりあがり、そのひきしまった曲面が、油をぬったように照っていた。縄をピンと張ると、なにか、魚鱗のごとき光りがちってみえた。
蛇にみえた。ナナミの蛇が、ナナミのポケットから現れ、四人のまえで身をよじったあと、のびをしてみえた。してみるに、ナナミは縄の一端をつかみ、反対側の端にまきつけた。両端をかたくゆわえた。まるで、ある蛇が、みずからの尾を、みずからの口に噛みしめ、古代文様、ウロボロスを演じるように。
四人の子は、蛇のような縄をかぶった。タテ一列になる。先頭のモエが縄をにぎれば、うしろの三人は腰骨に縄をひっかけた。縄をつかむように、まえのひとの腰を、てのひらでおさえた。最後尾のケンタは身をのけぞり、その反動で首にかかった笛をうかせると、パクッと笛をくわえた。
「いきまあす!」
先頭のモエが叫ぶと、ケンタは笛をふきあげる。二番目のアツシは「シュポシュポ」とリズミカルに口ずさみ、三番目のナナミは凛としている。
きてれつな四人の子は、空き地を駈けだしている。
運転手のモエは、この汽車に何かの具体をあてていた。今回は《カップル》であった。すると、汽車は《カップル》であり、四人でひと組の《カップル》を演じないといけなかった。モエは、次の駅を、《セックスレス駅》だと告げた。アツシはふきだした。このとき、二番目と三番目のひとが、《カップル》役にならねばならないが、停車後に駅名に沿うかたちで《カップル》を演じないといけなかった。つまり、アツシとナナミは、《カップル》役になり、《セックスレス駅》でセックスレスについて演じねばならないのだ。
ナナミはモエに怖い眼をおくった。
「停まりまあす!」
車掌のケンタは、笛を二回短くふいた。これで停車する時間は、二分に決められた。車掌は、ふたりの演じる時間を、一分―十分以内に決める権利があった。
アツシは汽車のブレーキ音を口まねした。アツシとナナミは、縄を下からくぐり、《カップル》として顔をつきあわせた。
「……ダイキはさ、関係に何を求めるの?」
口をひらいたのは、ナナミだった。「おお、マイ」アツシは笑っておどけた。これで《カップル》に、ダイキ、マイ、ふたつの呼び名がふされた。
「急にどうしたのさ」
「ダイキは、セックスしなくて平気?」
「ハハハハ。こいつは、度胸があるぜ。おれはそんなこと、どっちだっていいよ。おたがいが和めるなら、それでよくないか」
「大人なのね」
「さあね。大人なんて、きれいごとを云ってるだけかもしれない」
「そうね。その逆で、子どもは、夢を云いたがるのね。つまり、わたしね、あなたの子どもがほしいの」
「どえらいこと、云うじゃねえか」
「いや?」
「いやなもんか。うん、マイ、わかったよ。おれはものわかりがよすぎる男なのだ。子の教育ってのは、難しいわけだがな。子を産もうか。おれたちなら、できるだろうぜ」
「……ええ」
二分も経たないうちに、ふたりは苦笑で顎をひきつらせた。モエはほくそ笑んでいた。ケンタはものうげな眼で、ナナミをみていた。ふたりが冗談をふっかけ、肘を小突きあっていると、ケンタは笛をふきあげた。
アツシはモエから縄をうけとった。アツシが先頭の運転手にかわった。ひとりずつ前にずれるのである。最後尾になったモエが笛をくわえた。
「いきまあす!」
アツシが天に叫ぶと、モエは笛をあかるくふきあげた。二番目のナナミが「シュポー! シュポー!」と歌うように云うと、三番目のケンタはナナミの元気のよさにもじもじしていた。
《セックスレス駅》をぬけでた汽車は、空き地の枯れすすきをふみしめた。冷えきった空気が、四人の耳朶(じだ)を叩いていった。アツシのあやつる汽車は速かった。アツシは、次の駅を、《マタニティブルー駅》だと告げた。アツシの母は、鉄琴の演奏家であり、心のたしかな明るい女である。しかし、今年四人目の子を産むと、しばらく涙もろかったのである。
「停まりまあす!」
車掌のモエは、笛を四回短くふいた。《マタニティブルー駅》に、四分、停車することになった。ケンタは喉仏のうかぶほど、天を仰いでいた。四分をどのように展開させるか、ことばを組んでいるのか。
停車した汽車より、ナナミとケンタは降りた。おなじように向かいあうと、とつぜん、ナナミは大粒の涙をながした。ほんものの涙である。
「どうしたのさ」
ケンタは、ろうばいした。ナナミの両肩にふれようと、両手をのばした。
「ダイキ、赤ちゃんの調子はどう?」
「……ああ、マイ、すやすや、眠っているぜ。目やにをいっぱいつけて、かすかに笑っているよ。それより、マイ、どうしたんだ。涙がとまらないのか」
「ええ。ごめんなさい。なんだか、とってもかなしいの」
「なにが?」
「お乳がでないこと」
「ああ、気に揉むことないだろ。ひとそれぞれじゃないか」
「抱きしめて」
「ああ」
ケンタは、ふるえる腕で、ナナミを抱いた。
「おれは、正直、赤ちゃんが産まれてから、はじめて父親になった気分だよ。身が引きしまるね。悪い子に育ったらどうする。こわくて仕方ないな」
「ネガティブにならないで。だいじょうぶよ」
「ちぇっ。おれたちの心労もしらず、赤ちゃんは、のんきに笑ってら。でも、おれたちも赤ん坊のころは、同じだったんだよな」
「そうよ。これから、私たちが世話する番ね」
「こんなことが、脈々とつづいてきたとおもうと、おそれいるね」
「人類は、偉大よ。私、人間は嫌いだけど、人類は好き。人類は大好きなの。ああ、いやねえ。自分のことばで、泣いちゃうなんて」
ふたりはほとんど泣きあうような愁嘆場をみせた。モエは、ケンタの顔をみつめやり、三十秒早めに笛をふきあげた。
手順通りにずれた四人は、また、汽車となり、空き地を走りだした。ナナミは、演技がおわったのに、まだ、泣いていた。彼女のこめかみを流れる涙が、ケンタの胸にかかったりした。ナナミの涙をいぶかることもなく、ほかの三人は、それぞれになにかを哀しんでいた。四人は、おおきなところで、ひびきあっていた。
ナナミは、次の駅を《娘の自殺未遂駅》と告げた。うしろの三人に戦慄がはしった。ナナミは母子家庭に育っているが、劇団員の母はなかなか家に帰らなかった。そんな折、ナナミの姉は大学でいやなことがおき、この冬、練炭自殺をはかったのである。姉は障害もなくたすかった。母は面倒をふやした姉を叱りつけ、スリッパでひっ叩き、むしろ、つらくあたりはじめた。姉は、母の暴力に、落ち窪んだ眼をかすかに燃やし、家をとびだしてしまった。
「停まりまあす!」
ナナミは姉を忘れるように、思いきり叫んだ。アツシは、おそるおそる、笛を三回ふいた。陰惨な駅名であるが、三分間、演ぜられることになった。
《娘の自殺未遂駅》にて、ケンタとモエが向かいあえば、
「……あの子をわかってやれなかった」
モエは目をすぼめて、憔悴の顔をつくった。
「……でも、わかってやれない面もある」
「ええ。あの子の痛みには、よりそえない。自分の非力がいやになる」
モエは、顔を両手でおおった。ケンタは、モエの背をさすった。
「目を覚ましたら、話を聞こう。育て親ができることは、叱ることでも教えることでもない。みとめてやることなんだ」
「そうね。あの子のいのちを、そっとみとめてやれたら、どんなにいいでしょう」
「傷は癒えない。それでも、生きてみようとはおもえるものさ」
「……ダイキ、大学の方に連絡はした?」
「ああ、息をふきかえしたって云ったら、むこうも、ふかいところから息をついてたよ」
「大学の体面もあるものね」
「でも、あれは、あのひとの息だったさ。事務員のこころが、息をつかせていた」
モエは、ケンタの顔をみあげた。
「死ななくてよかった。そう、どの他人にも、おもえるもんかな」
「いい人だったら、そうおもえるのよ」
「そういうもんか。しかしほんとうに、死ななくて、よかったよ」
「あの子、目を覚めしたら、なんて云うかしら」
「死にたかったのに、かもしれない。おれたちに逆上するかもしれないな」
「そうしたら、受け容れましょう。あの子のすきな、かぼちゃスウプをのませて。それから、家で、ゆず湯につかってもらいましょ」
「ゆず湯はいいな。あの黄いろの実が、くるくる回っていると、ふしぎと笑えてくる」
「……ええ」
モエはうつろな面もちでうなずいた。ケンタは、ふるえる唇を、必死にこらえるように、歯でかみしめていた。モエは、ケンタの胸に、しなだれかかった。ケンタは、そんなモエに、くたびれた眼をそそいだ。
アツシは笛をふきあげた。
汽車は、また、四人で編成された。《カップル》のどうしようもない空漠につきうごかされながら、汽車は空き地を疾駆した。先頭はケンタであった。なかなか次の駅名を告げなかった。四人は、空き地をなんべんも回ることになった。たがいの体熱を感じながら回るほど、われを忘れてしまった。
われをうしなった四人は、《カップル》をかたどったダイキとマイにとかしこまれていく気になった。
するうち、四人のとかしこまれたダイキとマイは、みずみずしい体でもって、空き地に立つことになった。あたりは、夕やみの帳(とばり)が降り、汚れた橙いろがながれていた。ふたりは夕やみに負けない炯眼(けいがん)でほほえみあった。それから、ふたりは時を惜しむように抱きしめあった。男女のものをくみあわせた、わかちがたい恰好をとると、炯眼をつむった。寝息をたてはじめた。ふたりのこころは、一個のなまなましい生命におちつくのだった。その一個の生命体から、まろびでたものは、ちいさな手鏡だった。白く光る円のようなそれを覗くと、生きる理由のない、虚ろな自分がみえてしまう。
四人の意識は、ふっと、もどった。冬至の暮れ方に、四人は駈けていた。四人とも、胸から首すじが汗ばんでいた。ひびきあうよゆうをうしなった。四人は、相手の腰をにぎり、相手に腰をさわらせることすら、ゆるせないような、むなしいような、複雑な苛立ちをおぼえた。四人を不安にさせるものは、ひとえに、今にぎっている縄であった。四人を無意味につないでいる、古びた縄であった。してみるに、ケンタは縄をふりあげようとした。しかし、ナナミがとっさに縄をにぎりしめた。全腕力でもって、はさなかった。いっとき、ケンタの頭上にあがった縄は、また、放物線のかたちで降りかかり、ケンタを縄のうちに入れてしまった。四人は立ち止まった。縄をにぎったきり、はあはあと肩甲骨が肺に沈むような呼吸をやった。
四人はどこかしら、つらいものがあった。四人は、自分たちの生きる理由をみつけられなかった。いずれ、自分たちがまったく消えることを感じとった。あるいは、自分の記憶が崩れさってしまえば、自分は生きながらにして死んでしまう、そんなひとのもろさにあえいだ。あるいは、たとえなにかに尽くしても、そのなにかは必ず消えてしまうわびしさにうたれた。あるいは、この生は、過去にも、未来にも、無限にくりかえされたものであるような、今の無意味さにしらけた。
四人はこういう空白が、ひとの死を誘うとわかった。だが、この空白は、埋めようとしても、埋められないほど、たしかな真理におもわれた。四人は、おぞけに身ぶるいした。真理を知ることは、死に至ることなのだろうか。四人は、たいへんな地獄におとずれたような気分に、哀泣してしまった。
だが、しばらくすると、涙はおちついてきた。四人の温かみが、先の寒気をどこかにやってしまった。相手の鼓動を感じるほど、ふしぎと幸せな気分になれた。生きていてよかったともおもえた。
四人はつらいものを抱えていたが、周りを見回すよゆうができた。すると、空き地をかこむ家の明かり、竹の葉のそよぎ、汐風のにおい、星月夜などが、四人の周りを渦まくように感じとられた。
四人は足で大地をふんでいた。しかも、首を反れば、冬銀河をみあげられた。四人はそのすみとおった天につつまれていた。天にすくわれていた。するうち、四人は自分の家をながめられた。四人のいびつな家庭を透かしみることができた。
空き地の西は、モエの家だった。モエの父は民窯の収集家をやっているが、夜な夜な愛人の邸宅にでかけていた。それゆえ、陶芸家の母はかなしい自慰をしていた。夫婦が喧嘩をすると、子どもはとばっちりをくらった。そのときは、中学生の兄が、モエをかばってくれた。モエはよく自室にすわり、小説をめくっていた。それで、ときどき、かあてんのめくれる網戸をひらき、ベランダに足うらをおいた。壁にかくれるようにして、空き地の東にあるケンタの家をそっとながめた。
そのケンタの家は父子家庭だった。父は近代文学の学者である。かびくさい書架にかこまれながら、レトルト食品をつっついていた。ケンタは、本をぬきとったとき、書架の隅っこに、錆びついた小箱をみつけた。それをひらくと、土気いろの笛があった。その笛に、真鍮のくすんだ板がまきつけてあり、板にケンタの祖父の名をみとめた。この笛は、ケンタの祖父が、戦時中につかっていた呼笛であった。ケンタはこの笛をもちだし、汽車ごっこの笛にかえた。
ケンタの向かい側はアツシの家だが、アツシは三人の妹にあそばれる、世話焼きの兄だった。家父きどりの父をひどくきらった。母は、そのぶん、アツシを頼っていた。だが、かえってアツシは一家の信頼を浴びてしまうと息苦しかった。なにより、稼ぎ頭の父が、ひとりでしょんぼりと茶をすすっていると、アツシは得も云われぬ思いになった。父のおとうさんが家父きどりだったのである。父はそれをまねただけだった。
アツシは、空き地にマッチをもってくる。父が煙草に火をともす時のように、マッチを側薬にこすると、アツシの赤く照らされた眼に、喜びの光りがとおる。その火は、モエのもってきた火鉢におかれる。
それで、アツシの二軒となりに、ナナミの家がある。モエの家の向かい側である。ナナミは、母とふたり暮らしである。母がたまに帰ってきても、会話はほとんどしない。ナナミはひとりでいるとき、母の衣装棚をあさった。衣装から登場人物を空想して、お芝居をつくっていたのだ。しかし、あるとき、衣装をひっぱりだしていると、麻縄がおちてきた。唐突に。やぶ蛇のように。ナナミにつめたいものが流れた。縄はえらく古びていた。その縄がたどってきた時間が、草の糸の一本ごとに凝縮してみえた。母は、劇団員として売れずに苦労したと聞いたことがある。ナナミはふっとつめたいものが、氷のように凝結する気になった。若いころの母が、死ぬために買った麻縄という感じがしてきた。すると、だんだん、妄想はふくれあがってきた。なら、そうか。父が失踪したとき、母はこの麻縄をふれたかもしれなかった。あるいは、姉が練炭自殺をはかったとき、この縄にふれたかもしれなかった。あるいは、今も時折、ふれているのかもしれなかった。この縄は、母親が死にたいときに死ぬための備えなんだ。ナナミは、どんなにひどい母でも、死んでほしくはないとうつむいた。ナナミはぽたぽたと熱涙をたらした。麻縄をくすねてしまった。それで汽車ごっこの縄にかえた。ひとを殺す縄を、四人をつなげる存在にかえたのだ。
ケンタは、暗くなった天を仰いだ。次の駅を《強く生きてゆく我らの駅》とひくく告げた。ケンタのうしろに三人はひしとつかまりあった。ケンタの眼は、空き地をみていない。南側の空き家にそそがれている。四人は、きわめてしずかな足どりで空き家に進行した。二番目のモエは「シュポシュポ」云わない。最後尾のナナミは笛を吹かない。四人は燃えるような眼のまま、空き家の玄関にいたった。ケンタが腐った木の扉をひざでけやぶる。その拍子に、四人を縛っていた縄はひきちぎれてしまった。それでも四人は、つながっていた。ケンタは最後尾のナナミに近寄ると、骨盤をかたくにぎった。ふたりは火のような眼でみつめあった。四人で円になりながら、がらんどうの家を踏みしめた。
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画像:マルク・シャガール『燃ゆる柴の前のモーセ』, Marc Chagall "Moïse devant le buisson ardent" (1960-66)
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