名取 道治 Michihari NATORI
短編小説6編 『快刀乱麻』 『汽車ごっこ』 『蛙は風になる』 『珍客』 『岩なれども母なり』 『絵具と血』
生きづらい現代を深く認めよ。
詩をのせていきます。
随筆をのせていきます。
昨今の世は、不安の時代である。この不安は、ネット社会を反映した、現代人の動揺ではないか。ネット社会は「ふつうが何か」を可視化した。さらに、ふつうの人生にはどんな修羅場があるかを可視化した。 ちょっと見えるから、不安がるのである。ふつうと違うことも、近未来の修羅場も、ネットをひらけば直ぐにわかるから、自分がふつうなのか、修羅場でずっこけないか、後ろ向きな想像をたくましくして、胸のつぶれるような寒気に浸れてしまう。 かと言って、ネット批判に帰してしまっては芸がない。小林秀雄
空き缶は、ごみ箱にはいっても、持ち前の上機嫌を失わず、新入りのうちに悲しみに深くひしがれたやつがいるなら、「へっ、ごみ箱がどーしたよ。世のなか、突然、死ぬのもいるんだぜ? おれたちゃ、ちょっぴり、めぐまれてんのさ。最期にこうして種族を問わず集まってよ、自分の生きざまを語りあえるんだ。ゆたかな死に際じゃねえかよ! シケた面しねえで、こっち来いよ。いのちの最期まで語り明かそうぜ!」うすっぺらい体を光らせて笑い転げ、素っとん狂な叫び声を張る。 たいていのやつは、空き缶の悟ったよ
ふたつの紙コップがたおれた。片方は右の机で、もう片方は左の机である。ふたつの水は、ふたつの机のあいだで波を合わせる。机の側面はなだらかな山であり、ふたつの机を合わせると砂時計のかたちである。だから、ふたつの水は砂時計のような溝に交じり合って吸い込まれていく。吸い込まれた水は机のうらに水の膜を拡げていき、あふれかえった水から糸が垂れていき、先端の水滴を切り離していく。水滴がゴムタイルの床に次々と落ちて、埃まみれの水たまりが、緩慢に、非情に、拡張している。机の上に目を戻すと、机
なやましい一瞬の肉感的な惨虐な感覚が 私のからだに沁み亙った 室生犀星 かつて愛した女の元に来て おのれの犯した罪の在り処を知ることだ ずっとかすかにつらい世で 愛しさだけが澄み切っている ロマンスは平等なのだ 天も地もない、共鳴の地平線である くつくつと笑いが漏れるのは 若さの浪費を已めることのない 私自身の弱さゆえか 否か ? 天は采配を振るう 運命の只中におのれの道を築くことだ 社会に犯される毎日を罪を犯してやり過ごす
誰が誰だか分からない人混みに揉まれたい。 美大を中退して広告企業の企画部に勤める男は、痩せ細った身を抱いて目をつむった。ネットに住所を貼り、「誰でも可」と人間を募った。彼は四万人のフォロワーを抱えるツイッタラーであった。小一時間ほどで2DKの安アパートに床板が跳ねるほどの人間が集まった。誰しも行き場がなかったのである。 元カノの居た部屋のレコードを誰かがいじり、QUEENの"We Are The Champion"が掛かると、皆で肩を組んで大合唱をした。男は内心消えもいり
母のいない私からすると、日本庭園の橋の手前にある、丸まった人のような花崗岩に、母というものが見えていた。この家を取り仕切る父の母、つまり、私の祖母に、服従を見せるような気弱さが、花崗岩の模様の震えに表れているとさえ思っていた。 私には、この花崗岩が、母に思えてならない。そんなことは、おおよそ、馬鹿げたことである。だが、私は、子供のころより、小川の流れる日本庭園で遊ぶとき、庭園はだだっ広いにもかかわらず、決まってこの花崗岩に立ち止まり、黙って岩の横に腰掛けながら、西の山に日
わたしたちは、地上に降りると、東京のはげしい日照りを浴びる。その日は、太陽から降りて来た自然光というより、ビルをつらねる電気街に乱反射した、上からも、下からも、横からも、斜めからも来る、人工の光りに感じられる。 そんな光りにひたされた道をいくほど、るしあの目の放っていた、生命の光りの粒が、わたしの目の裏でよみがえる。もう、記憶の中の彼女は、おぼろである。かろうじて、その目の光りの粒だけが、記憶の内でたしかな輪郭を獲得している。わたしは、彼女の目の形状をも忘れている。ひとき
君よ。アニメを観るか。観なくたって何ということはないさ。メイドカフェに行ったことがあるか。行かなくたって何ということはないさ。 しかし、アニメやメイドカフェが、オタクという名の、陰キャラの、コミュ障の、メガネ率の高い、鼻息の荒い、独りぼっちの人間たちのものであると思うなら、この『秋葉原』と題するメイドカフェ探訪記が、君に新しい視点をさずけるだろう! 当たりまえであるが、何ごともイメージで切り捨てるのはよろしくない。アニメやメイドカフェに救われている人間がいることを忘れて
私の今日の仕事は、官房長官会見を聴くことである。官房長官が何を言ったのか、記者からどんな質問があったのか、記録するのである。 「各位 本日午後の官房長官会見の概要は以下のとおり……」とEメールで関係者に記録をまくのである。 私は真剣な顔つきである。暖房の効かない肌寒い職場で、ささくれた指さきを揉んでいる。私は両耳にイヤホンをしている。スマホで官房長官会見のライブ配信をみつめているのだ。うなだれた日本国旗と誰もいない壇上がさびしく映っている。官房長官は臨時閣議に出席しており
わかりやすさを求める傾向は理解できるが、その状況を肯定できない。 わかりやすさを求めたとて、この世はわかりにくい。なぜ火があり、水があり、風があり、土があるのか。自然はふくざつ怪奇である。わかりやすさは、人間のための虚構だ。わかりやすさを求めることは、虚構を求めることだ。わかりやすさに縋りすぎることは、わかりにくい自然から離れて、わかりやすい虚構に溺れることではないか。 例えば、石を拾ったとする。どんな石を拾ったの? 友だちに聞かれたとする。石をよくよく眺める。石は石で
はっきり云って、Noteに小説を載せるほど身はすり切れる。 無料公開の作品に、命は擲てないだろう。てきとうに。てきとうに。そうおもうほど、創る力は腐ってしまう。命の火をかきたてながら、創ることが肝なのに、冷気に命を漬けて、火を葬っている。 しかし、Noteで試みたことは、現代への道を築くことであった。 私は4編『快刀乱麻』『汽車ごっこ』『蛙は風になる』『珍客』を載せた。けっこう駄作だと思う。自分のなかで窮めて良くない時期に書いた作品である。だが、自分の位置付けとし
「大きく云えば、戦争、災害、小さく云えば、事件、病気、人間生きてりゃ、それなりの理不尽にぶちあたるさ。葉が枯れるように、空が陰るように、血が黒ずむように、風が凪ぐように、乾いた濁った張りつめた静寂に、ぜんぶが呑まれちまうさ。それでそいつはたまらなく苦い味なんだ。なんで苦い味を舐めながら生きにゃならんか、苦悩が始まってしまうんだ。つまり、(語り手は、手を右から左に動かす。)理不尽→苦悩の図式があるのさ。これはな、たいていのやつが通らされる、既定路線なんだよ。むろん、理不尽を知ら
幸福というものはたわいなくっていいものだ ――草野心平 暮れ方に、山の音。 蛙はうすめをひらき、風にたなびく水田をうつし、 「……おれは風かもしれない。ちょっと、周りを揺すって、それでおしまい……。なあんの意味もない。そうさ、そうさ、おれは風だ。ああ、おれは風なんだ」 ふわあっと、蛙は大きな口をあけました。緑いろの顔に、青いろの隈。すいみん不足でした。きのう、月にみとれていたのです。蛙は涙をしぼりながら、目をつむりました。蛙がウトウトしているうち、影の傘が降ってき
僕を追う側にする君は 眼を合わしちゃくれないが 君を追われる側にした僕は 眼が合わないとせつなくて もし 眼が合えば 僕と君だけ もろくくずれる ひとみの奥に 追うも追われるも融けちゃえと おんなじ鼓動をうつ心臓になる ひとつになれた名残をなでて にっちもさっちもいかぬ 明け方の道を駈けてしまえ! しかし、手を離したら、また、 追うと追われると構えた眼玉で たがいがずれあう恋のかけ引き
何かを信じれば、何かの矛盾をきたす。 信じることの哀しい副作用である。 たとえば、一人一人を尊重することが大切だと信じる者も、急用ができれば、人混みは肌色の迷宮にみえ、一人一人は肌色の壁にみえ、壁の間をすりぬける感覚で、人混みをかき分ける。人混みの隙間がないほど、周りの壁を押しのけることになる。壁はよくしなって、その者に道を与えるだろう。さて、この段になり、この者の信条、他者を尊重することと矛盾して、他者を《物》として扱ってしまっている。 壁の冷たい印象。 記憶を辿
四人の子は、空き地につどってから、父と母の悪口をいった。それから、自分たちは、かならず、父と母より、すばらしい教育をすると、誓いあった。四人は、八歳の小学二年生である。しかし、切なく笑えるほど、四人は垢ぬけていた。それは、たぶん、四人のあいだで疑問をもちより、議論につばをはきあい、世のたいていの嘘をあばききったからだった。 四人の子は、三軒ずつが向かいあう区画で、四隅の家に分かれて住んでいた。区画のまんなかは、北側が空き地であり、南側が空き家であった。鎌倉市の小学校を、四