1036/1096 愛を見える化してみたら、宇宙になった
吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1036日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です
1036日目。もうね、時間がないのよね。だからもうとにかく、今の気分をここに考えもしないでゲロって(昭和?)みようと思います。
あと60日となってしまって、もう明日からは残り50日台なわけですが、まな板の上の鯉感がこれまで以上に強くなってまいりました。書いてたら、終わっちゃいますね…当たり前なのですが…
実はもう最近は、終わりがくることを受け入れるのがきつくて、それを思うと心臓に負担がかかるレベルとなっている。寿命がちょっと縮まるんじゃないかと思ってしまう。
いや、終わるのか、、マジか、、、マジかって書こうとしたのに間近って変換すんのやめてって。。。ああーーこっれは、、
めっっっちゃ寂しい…想定外だよ、どうしよう…
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もう今日は書きたいことをバーっと書いて、買い出しやら検査の結果受け取りやらなんやらかんやらをしなくてはならない。そのため、ただ得意な話題をダーッと書くのだ、ダーッと!!
世の中では、愛というものは「可愛がること」「同情」「いつくしみ」「自己犠牲」「恋い慕うこと」などという意味でとらえられていまよね。愛しく思う対象を、大切にしようとすること、と言えると思います。
愛の定義は人それぞれですが、それは愛しく思う対象を大切にすると考えたときに、その人の求めるもの、足りないと感じるもの、倫理観などがそこに反映されるからだと思います。
わたしは「愛」という言葉をそのような情緒的な意味合いで使うのも好きですが、でもそれだけに限定すると、ちょっと違和感を覚えます。
わたしは「愛」というものを、宇宙だととらえています。なぜかというと、宇宙を構成するすべてのものは「無限の自由」によって創造されているため、宇宙は愛でできていると言えてしまうからです。
なぜ宇宙を構成するすべてのものが、無限の自由によって創造されているといえるのでしょうか。それは、”人の意識が宇宙を創っているから”です。ひとりひとりの人の意識になにが現れようとも、それをまったく否定せずに創造する。これは無限の自由のなせる業(わざ)と言える、ということです。
目薬?いいよ、創ろう。
キン消し?いいよ、創ろう。
テキ屋の兄ちゃん?いいよ、創ろう。
というように、宇宙はなんでもジャッジなしに創ります。宇宙からはYESしか返ってきません。宇宙は無限の自由です。どんなものにも対応可です。変幻自在です。完全にイノセントな好奇心に、完全な許可が降りている。どんな創造もが許され、実現される。この完全なる許可と創造性を「愛」と呼ぶ、ということですね。言い方を変えてみると、宇宙は愛そのものだということです。この宇宙は、壮大な愛の現れです。
宇宙に愛がある、ということではありません。
”宇宙そのものが愛”だということです。
”愛が宇宙”ということです。
愛を見える化してみたら、宇宙になった。
ということですね。物質・非物質のすべて、我々も含めた生物・非生物のすべてが、愛を素材にして作られた、愛の現れ、愛の表現、無限の自由の客観化です。
※ここでの”客観化”というのは理解を促すための表現だと思ってください。さらにわかりやすくするために、客観化するほうを「見られる側」、客観視するほうを「見る側」と表現してみましょう。
「見られる側」になるというのは、当然それを「見る側」があって成り立つことですね。でもそう言うと、見られる側と、見る側が分離しているようなイメージです。
でもこの場合は、見られる側が宇宙なので、見る側も宇宙です。これは当然ですね。宇宙とは”すべて”のことであり、宇宙には宇宙自身しかないのですから。これが、秘行の上級コースのタイトルが「宇宙が宇宙を観る」となっている理由でもあります。
ーーーーここから下の点線まではマニアックな人向けーーーーー
客観化するということは、それを客観視する存在自体が同時に創られるということです。なにかを「観察されるもの」と定義するとき、そこには同時に「観察するもの」の概念がセットで生まれるからです。
でなければ、観察するという現象が起こり得ませんね。
意識というのは、なにかを観察してはじめて「自分は意識だ」と認識できます。意識は、観察をせずにどうやって自分を「意識だ」と認識できるでしょうか。観察している!と気がつくためには、観察される客体が必要なのです。
言い換えてみると、観察眼があるということは、もうその時点で観察されるものもあるということです。意識があって「自分は意識だ」と認識しているる以上、そこには観察する側とされる側が同時に存在します。主体と客体があってこそ、意識が存在し得るということになりますね。
意識が存在しないと宇宙もないので、宇宙がある以上は、主体と客体があるということなのです。宇宙があるということは、観察が起こっているということ。
観察が起こるということは、体験が起こるということ。体験を起こすには、分離という”体験のもと”が必要です。
完璧で完全な愛は、ものを思わないのです。自分を認識しません。だから、存在しないのと同じです。なぜなら、分離しない以上、観察が起こらないからです。観察したりされたりするには分離していることが条件だからですね。
つまり、
「愛」の状態であるとき、分離がなく観察も起こらず自分を認識しません。「愛」を実践するとき、分離が起こり自分を認識し観察が起こります。
「愛」の状態であるときは、なにもかもが完全に一体で、まったく寂しくありません。だって、自分と相手がいる、という世界ではないからですね。となると、自分が居る、と認識することさえできません。この愛の状態を、”ロミオジュリエットの状態”、と喩えてみましょうか。
この”ロミオジュリエット”を二体に分離させ、ロミオとジュリエットにしてみる。そのときロミオは、”ロミオジュリエット”のジュリエット部を観察します。ジュリエットは、ロミオジュリエットのロミオ部を観察します。
それで、うわ~お前!自分だったものだ!自分だったものが、自分じゃなくなっとる!分かれとる!しかもあっちはあっちで観察眼持ってこっち見とる!となる。そして、ああロミオなぜあなたはロミオなの。ああジュリエット君はなぜジュリエットなんだ。バラバラになると自分の半身の様子をそれぞれに観察できるけど、相手の感覚を永遠に知られないよ、だって分かれてるんだもん、うわむっっっちゃ寂しいわ~~~となる。
”ロミオジュリエット”が二体に分離して、自作自演をしてまで観察や体験をしているということですね。なぜなら、自分を認識して、物事を起こして、観察して、味わってみたかったから。より正確に言えば、愛というのは完全に自由なため「自己を認識しない」という限定に収まらないからです。「自己を認識するために分離する」という可能性も、自由に実践されるということですね。
愛とは、超究極超絶な身勝手のことなのです。文字通り、宇宙一身勝手なのが、愛ということね。
ーーーーマニアック向けここまでーーーーー
別の記事にも使った表現ですが、『宇宙』とは
原材料:愛100%
なのですが、この「愛」というのは、他に表現方法があると思うのです。宇宙そのものでもあるので、「宇宙」ということもできます。「神」とか「創造主」ということもできますね。
ここでちょっと確認しておきたいのが、たとえば飴があるとして、その飴は2つに割っても飴、どんなに小さく割っても飴、飴はどこまで割っても飴ですよね。
これと同じように、宇宙は愛で、宇宙の中のどんなものも愛です。埃もダムも毒草もチェロも電信柱も愛です。
「神」で言ってみると、宇宙は神で、宇宙の中のどんなものも神です。ホコリもダムも毒草もチェロも電信柱も神です。
「宇宙」で言うこともできます。宇宙は宇宙なので、宇宙の中のどんなものも宇宙です。ホコリもダムも毒草もチェロも電信柱も宇宙です。
飴全体も飴、割った飴も飴、というのと同じです。
あなたは宇宙のかけらであり、宇宙なのです。
愛という自由の遊び。
神さまのコスプレなのです。
だってぜんぶ宇宙なんだから、エロ本も宇宙じゃん、かぼちゃの種も宇宙じゃん。ということですね。宇宙でないものなど、どこにもない。
すべてはひとつであり、ひとつはすべてである。という真理を知識として知っている人も多いと思いますが、これはその解釈を助けるわかりやすい概念だと思います。
『すべて』という概念とは、とても面白いものです。
なにしろ、”すべて”なので、その外がない。
”すべて”なので、他の可能性がない。
なにか新たな可能性を見つけても、
それが”すべて”に含まれてしまうからですね。
”すべて”を使って、思いを自在に操って思索の旅に出てみると、たくさんの気づきに出会えます。そしてその気付きの点たちが線を結んでひとつの形になるとき、超弩級の雷が落ちたみたいな衝撃の覚醒が起こったりするのですね。”すべて”という概念を、ぜひにも頭の遊具にしてみてください。
というわけで、今日は忙しいため、好きな話題を切りの良いところまで書いてみました。宇宙の真理に興味のある人の、理解へのよきアプローチとなりますように。
それではまた、明日ね!!