47/1096 日常生活で「勘」を鍛える
吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。
3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で47日。
(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。
そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)
47日目の今日は、なんと午前2時のスタートとなってしまった。というのも、仕事をしていてついつい夢中になってしまって、時間が経っている事に気づいていなかったのだ!
しかし考えてもみれば、以前のわたしにとっては、まさにこういうシチュエーションこそが、なにかに挫折するときだった。あ!どうしよう、あれをやらなくては・・・でももう遅いし、疲れていて無理だ・・仕方ない、明日にしよう明日!・・・などと考えて。そして、その明日が来ると、前日よりももっと簡単に、ダメだ~明日明日!一日ぐらいズレたって同じさ・・!などと思ってしまう。最初の裏切りが一番難しくて、そのあとはだんだん簡単になってしまうのだ。最初の浮気が一番難しいのと同じだ。(笑)
しかし、今の自分にはそれは考えられないことだ。そんなふうに自分を裏切る訳にはいかない。麻痺するとわかりにくくなるが、実はけっこう傷つくものなのだ。とても許せるものか!
たった47日目だけれど、自分がこんなにも変化しているのが嬉しい。喜ばしくて、なんだかちょっとめでたいような感じがして、新しい自分と目が合うと照れてしまうほどだ。あっ、わたし、意外と物事続けられるほうなんです、、みたいな自己紹介ができるなんて、お、お前誰だよ(//∇//)と思ってしまう。
だからきっと、自分で「ダメだな・・」と思えることは、人生の喜びを得るための種なのだと思う。そんなダメな自分でもいいじゃないか!と思ってその自己受容の喜びで背中に羽を生やすこともできるし、ダメじゃない!やってみようじゃないか!と克服して楽しむこともできるし、いろいろ使い道があるのだと思う。だからわたしは、ブロックを外してその苦手意識を消して、湧いてくる感情を消して・・・というタイプの方法よりも、せっかくだからダメなところを利用して、ちゃっかり現実世界でいい思いをしちゃおうとする方が好きだ。
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今日は突然だが、「勘」について書いてみようと思う!
これは、以前一生懸命に書いたにも関わらず、さあアップしようと思ったところで手違いで消去してしまった話題だ・・あの日はとてもじゃないが同じことについて書き直すことができなくて諦めたのだが、今日になって急に、もう一度書こうという気になった。
わたしは子供の頃から、きっと多くの人がそうであるように、勘の鋭いということに対しての憧れがあった。
勘が鋭い、とひと言言っても、人により先行するイメージはさまざまだと思う。
例えば、「ハッ・・・今夜奥さんに陣痛が来る・・!」とわかるとか、誰かを見て「この方は今後、大物になるぞ!」とわかるなど、予知的な霊感があるというイメージ。
それから、結果を見る前に「!!わたしは試験に合格した!!」とわかるとか、「あれ・・今曾祖父さんが昇天した気が・・虫の知らせか・!?」とわかるなど、千里眼が備わっているというイメージもある。
他に、格闘技をやっていて、今だ!という時にクリティカルヒットになるパンチを放てるとか、雲や風を見てどこに魚がいるのかを読んで漁の当たりを引けるとか、柱の木材に鉋(かんな)をかけていて、ここだ!というところで止めて完全な平面にできるとか、そういった職人の勘が働く、というイメージもある。
わたしが持っていたのは、最後の職人的な勘のイメージであった。やっぱりなによりカッコいいと思う。あのイーサン・ハントだって、この勘が恐ろしく鋭いから、インポッシブルなミッションをやってのけてしまうのだから!
この憧れがいつまでも消えないために「勘」を少しでも鍛えていたいという気持ちがあって、わたしは日常的にそれ磨くために、ちょっとした修行を生活に取り入れている。
冗談抜きで、これを鍛えていることで、いざというときにどうするべきかがわかるようになると思っている。大事な選択を迫られたときだけでなく、普段からスッと危機を避けたり、逆に必要なことにパッと飛びついたり、なにかを決起した時にすぐにやることがわかったり、など。勘が鋭いということで悪いことなどないどころか、良いことづくめのような気がする。
そしてこれは意外にもダイエットにも通じる話なのだが、まあ、とは言ってもわたしは大したことはやっていなくて、日常生活のいろいろなことを自分の勘だけに頼ってやってみる、というだけのことだ。
まず料理をするにも、タイマー、大さじ小さじなどの計量スプーン、キッチン用量り、などを一切使わない。
例えばパスタを茹でるときはまずお湯を沸かすが、何も考えないで何度も沸いたかどうかを見に行くのではなく、なにかをしながら頭の片隅にそれを置いておき、今だ!と思う瞬間に見に行こうという気持ちで待つ。
そして、ハッ!と感じた時に見に行くようにする。それから、パスタを茹で始めてもタイマーなど仕掛けないし、茹だったかどうかを確かめるために一本食べてみたりもしない。
今だ!!という時に、火を止めて、ザルにあげてしまう。
これにより、主に体内時計が鋭くなるのだと勝手に思っている。
そして何よりもいいのは、タイマーを仕掛けてしまうと気持ちがのびてしまうが、それを引き締めておけるのと、自分の勘など緩みきっちゃって、てんでダメだから、という感覚を積もらせずに済むということだと思う。
こんな小さなことだけれど、やってみるとはじめはソワソワするものだ。しかし人間はすごい生き物で、慣れればまずもって外すことはなくなる。
気温やお湯の量などにも左右されることなのだが、頭で考えてはならない。ハッ!!という5次元の感覚を掴まなくてはならない。そしてわたしはいつも、ぷりっぷりのアルデンテで茹であげることができるのだ。
(しかしこれがまた、今日は失敗できないぞ、というときには非常に乱れやすくなる。雑念が敵だ)
調味料の量なども、計るということをせずに、すべて指先の勘に頼っているし、洗濯をするときもそうだ。目を閉じて、液体洗剤を洗剤入れに流し込み、今だ!というときに止める。目を開けて確かめる。これも、いつも同じラインで止められるように修行している。
模様替えのときにも、スケールで家具の幅と壁の長さを測ってから動かしたりはしない。別の家具がそこにあれば、スーッと動かして、ここや!というところで止めて、もうそこに運んでしまう。
そして、ピタリと寸分の狂いもなく配置できたときの喜びよ!これは、誰を喜ばせるためでもない、どこかに認めてもらうためでもない、まったく外側に向かわない、ただの個人的な、完全に内的な喜びだ。
しかしこれは、自分の直観への信頼が生まれ、その面白さを知ることのできる良い習慣だと思う。粉雪のように積もる自信につながることであり、人類の神秘に触れることのできるエンターテイメントでもある。自分を通して、人間ってすごい生物なんだな、と素直に思えるだけでも心躍る経験だと思うのだ。
なんだか、たかがタイマー無しでパスタを茹でたり、目を閉じて洗剤を入れたり、長さを測らないで家具を動かしたり、など、しょーもないようなことに壮大な役割を与えている感があるが、わたしはこれを何年も本気で続けていて、今となっては習慣と化している。この習慣によって、人間に元々備わっている感覚を大事にしている気がして好きなのだ。
時間や物の量や長さなどをはかるとき、それらを正確に確かめるためのものに頼ってしまうと、その瞬間に心は緩む。ひたすら楽だ。
わたしは、場合によってはこの緩みは身体の過剰な緩みを助けることがあるような気がしている。反対に、この人間本来の勘をちゃんと活性化することで、心にも、ひいては身にも、良い引き締め効果があるように思うのだ。
試しになにか似たようなことをやってみると、非常にそわそわし、自分の中にピンと張るものがあることに気がつくと思う。
気になったお方は、どうぞ試してみてほしい!
それによって培われた勘は、自分の人生の選択に迷ったとき、あなたにピンとくる光として助け舟を出してくれるかも、しれない。
今日はこんなところで、また、明日ー!