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834/1096 わかってると思うけど、ぜんぶ大丈夫だから。
吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で834日。
(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)
834日目。イタリアでは今日のベファーナの日をもって、クリスマスが終わる。今年のクリスマス期間はなんだか、なにというわけでもなく楽しかった。平和って、落ち着くとか安心とかそういうことだと思っていたけれど、それは思い込みだと思った。平和なのが、面白かった。
夫が冬休みでいつもよりずっと家におり、彼を他人だと思えば思うほど静かにほくそ笑む面白みがあった。「ここにお住まいなんですね」などと思ってしまうのだ。われらは個々に個別に別個に勝手に、同じ家に住んでいると思うと面白い。どこか修学旅行、どこかキャンプ、どこかリトリート。なんの因果でこの人物はここにいるのだろう。わたしは、つまりは仲間なのだと思った。他人だと思えば思うほど、チームだということが浮き彫りになる。
日常というのは、慣れてしまってからが面白い。見慣れて慣れ親しんでしまったものというのは、完全にフレッシュなものとして出会い直すというチャレンジの対象だ。そうすると、平凡な日常が遊び場そのもの。心のアスレチックのようになる。
毎日投稿を書くという行為自体もわたしにとって慣れ親しんだものになっているから、いつも死んで今生き返ったような気持ちで向かう。あるいは最後に一度ブログを書くことができたらと考える。そのとたん、この慣れ親しんだ行為が永遠に当たり前にやれそうなことではなくなる。新鮮な行為に思える。かつ、別れがたい気持ちになる。
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みなさんは、自分の行為を眺めることがあるでしょうか。わたしはとても頻繁に眺めます。今も、「こうして書いているということは、壇珠氏は今日もブログを書く運命にあるんだな。へえ、そうかあ…」と思います。
自意識から解放されて過ごすのは気分が良いものです。空を飛ばなくても、空を飛んでいるかのように解放的。そのためにできることのうちのひとつが、自分を傍観することです。
自分に起こることを、完全に傍観してみようとすると面白い。
自分が決めて動いていると思うと、その傍観力がしゅんとしぼんでしまいます。そこを覆す鍵は「決める行為も、決めた内容も、ぜんぶ傍観する」ということ。へえ、この人はそっちを選ぶ運命にあるんだな。と思えばいいのですね。
それで、その傍観している方の自分は常に冷静沈着なのですが、観られている方の自分って、いっっっっろいろ思うんですよね。
いかんせん、傍観しているほうの感覚も自分である以上知ってはいるものだから、傍観した側の感覚にあれこれと感想を持つのです。傍観するほうの側を、わたしはもうずっと以前から『冷静なあいつ』と呼んでいます。
今日はその冷静なあいつ、つまりハイヤーセルフ(以下ハイヤー壇珠)と、この自分の顕在意識(以下エゴ壇珠)のほうとの思いについて会話(ただの感覚を言葉の抽象度で表現しているので、ある程度”脚本化”しているようなところがありますが)書いてみたいと思います。
ハイヤー壇珠「今日も書いているな。御苦労なことだ。お前って相変わらずしつこいよな。これは勤勉さを見出す作業と言うよりも、ただあんたの粘着質なところを利用しているだけなんじゃないの。まあどちらでもいいけれど。書くのはいいことだと思うよ。どうせ好みの世界だからさ、頑張りな」
エゴ壇珠「うわ、そうだな、これってただ自分がしつこいから今日まで書いてこられただけなのかな。毎日のルーティンを淡々とこなすことに憧れて始めたというのに、ただしつこいだけなんか?!」
ハイヤー壇珠「それでいいよ。それで無問題だよ。どっちだっていいじゃんかよ。どこにも問題なんかないじゃん。好きだよな、悩むの」
エゴ壇珠「はあ、またくだらんことであーのこーの思っちゃったよ。ハア、自分はなんてダメなんだ、なぜにこんなにも弱いのだろう、なんと愚かなんだろう、毎瞬バカだよ、常に常にさ…」
ハイヤー壇珠「もういいよ。無駄なこと考えないで進めよ。今日も書きたいんだから書けばいい。人は、よほどの状況じゃない限り、やっていることは好きでやっているんだよ。なにかを”好きでやってるんじゃない”なんて言う人がいるけれど、あんなの丸々嘘なんだよ。なにもメリットがないこと、なにか動機のないことは、人はやらないものなんだよ。何か得られるからやってるんだ。だからなんでもやれ。ただ自分でそれを選んでいると知っていればいい。納得さえしていればいい。やることの内容なんて、もしそこに本当の納得と良心の充足とがあれば、ゴキブリを追いかけるのだって人を助けるのだっていいだろ。そこに価値の差なんかないんだよ。なぁそれよりも考えろよ、死ぬんだから、今日は返ってこないんだから、そのこと真剣に考えて、くだらない物差しなんか捨てて、そこだけ測れよ。もしお前が、ゴキブリを追いかけるのよりも人を助けたほうがどう考えてもいいことをした気になるのであれば、それをしろよ、お前のためにそれをしろよ。自分が馬鹿かどうかなんて、どうでもいいだろ。それについて悩むのを馬鹿と言うんだよ。そこに悩まないことを賢さと言うんだよ」
エゴ壇珠「そうだな、ぐちゃぐちゃ考えていても仕方がないから、放っておこう。自分がこうしてネチネチ考えることなんて、バカなんことばかりなんだよな。今日も読みに来てくれた人の幸せを思いながらなにか書いて、心の中を一片の悔いのないようにしよう、そうしよう。いつだって、冷静な自分の言うことを聞いておいたほうが幸せなんだ…」
ハイヤー壇珠「脇目も触れずに書け。集中しろ。死ね、死んでいろ、生きている幻想に囚われすぎるな、生きることがつまらなくなるだろ。お前のものなどそこにはひとつもないのに、何にでも執着して人生を狭く醜く見せるだろ。覚えて居続けろ、映画が楽しめるのは、映画に没頭できるからだ。映画に没頭できるのは、それがスクリーンの中のことで、お前が映画の外にいるからだ。その余裕があって初めて映画は楽しめるんだろ。人生を本当に楽しみたければ、人生に没頭しろ。人生に没頭するには、人生の外にいろよ。その肉体がなくなったお前でいろ。すべてが幻想なら、ちょうど映画みたいに楽しめるだろ。だから自分のことを自分のものだとなんか思うなよ。目を覚ませ。あ、それと結局大丈夫だから。わかってると思うけど、ぜんぶ大丈夫だから。好きにして」
エゴ壇珠「わぁ、そうだね。幻なのにすごいリアリティだな、この世界は…今だけの楽しみだね。信じられないけれども今だけなんだね。死んだら寂しいよ。一生懸命生きなくちゃな。さてさて、今日もがんばるぞ」
ハイヤー壇珠「幸せこそが自然だな」
なんかこうして文章にしてみるとハイヤー壇珠さんがえらく冷たい人に見えますが、いつもわたしにいちばん必要なことを、ただ惜しみなく伝えてくれます。わたしたちはみんな、どんなことにも奥では答えを知っています。
彼氏と別れるべきですか?答え、知ってるじゃん。
夫に本当の思いを言ってもいいと思いますか?答え、知ってるじゃん。
過去を許したほうがいいと思いますか?答え、知ってるじゃん。
転職してみたいのですがリスクを考えると怖いんです、どうすればいいですか。答え、知ってるじゃん。知ってることわかってて、そこにちょっと目をつぶって訊いているのだともわかっているじゃん。そうでしょう。
どっちも正解なんだから、正解がなくてごめんねだけど、どっちだっていいのです。地球人ってこんなにすげえ生物です。神の化身だと忘れているだけで、本当はなにもかもわかっている。ただ自分と会話したらいいだけです。
わからないことがあれば、それはわからなくていいというだけです。なにが分かる必要があることで、なにが分かる必要のないことなのかも知っていて、分からないのなら必要のないことなのです。霊が見えないのなら、霊が見えなくていい。数学がダメなら、数学がダメでいい。ここまで完璧なんですね。人は完璧なんです。その人に必要なものはみんな持っている。
だからあなたが持っている自分への不信感、それは100%幻です。本当よ。自分に聞いてみて。ほら、心の奥が言っているでしょう、そのとおりだと。それを知っていて、そこから一生懸命目をそらそうとして認めずにいようとするのはわたしたちのエゴだけです。
怖いとき、哀しいとき、寂しいときに他の人の存在があるのは素敵なことだけれども、自分を置いてけぼりにしないで。「自分の愛だけじゃ足りない」などと言って外ばかり見て、自分を仲間外れにしてしまわないで。自分とのコミュニケーションを大切にしてください。誰よりもあなたを思い、いつだっていちばんの答えを送ってくれて、病めるときも貧しいときにも一生そばにいて、一生涯あなたの幸せを願ってくれて、あなたと一心同体でいてくれる存在は、自分を置いて他にひとりも見つかりません。
神さまに答え合わせをしたいとき、自分に訊けばいい。
そうするうちに神さまが本当に現れてくれる。
ああ、自分が”それ”だったのだと思う。
どうしても自信がなかったら、神さまがこの「選べる機能」自体を自分に委ねたのだと思えばいい。神さまは先にあなたを信頼して人間一体を任せてくれているのです。そしていつだってあなたに話しかけている。
「神さまに願い事をしても返事もくれない」と文句を言う人がいますが、ずっと話しかけてくれているのを無視するのはわたしたちのほうなのですね。
そうやってこれまで無視してきてしまった人は、今すぐにハイヤーセルフとのコミュニケーションを取りたいと思っても、感覚がつかめなくて難しいということもあると思います。
もしもそうなら、冒頭に書いたように、まずは自分を傍観してみて。自分のことながら、「この人今歩いてるな。ドアを開けたな。緊張してるな…」というように。
そんなふうに観察しているうちに、「自分ってまた今、緊張しなくていいのに無駄に緊張してるわ。そうわかっててもどうにもならんのだけどね」などと、自分が冷静に自分を知っているのを知覚するかもしれない。その冷静なあなたの感覚を拾い始めればいいのです。
ねぇここで許しなよ。
ここで去りなよ。
ここですがりつかないで行こう。
ここで笑っていいんだよ。
恥ずかしがらないで、ここで話しかけよう。
大丈夫だよ、心配し過ぎだよ…
ずっと届いていたその冷静な判断、冷静な感想、感覚。それを無視せず、そこに従ってみる。わたしはそれを、神さまの手をとって一緒に歩くことと同義だと思っています。その先に、出会いたかった自分がいる。望んでも展開しなかった運命が動き出す。知らなかった可能性が開く。
その冷静なアドバイスは、あなたにしか感じ取ることができないのです。占いにも親友にもパートナーにも親にもわからないこと。神さまは遠い存在だとか、どこにいるの?などと思わなくていい。自分に影のようにくっついて歩いている、親友よりも身近な存在だ。孤独は悲しいことなんかじゃない。さあこうなったら、自分の手を取ってたちあがって、本当に一緒に歩かなくちゃ…!
そうしてみると、他の人もそうだったのだと改めてわかります。みんな、その人にしかわからないことがあって、みんな独り。この真実に突然出会います。角を曲がったら、ちょうどそこにいた「人は孤独である」という真実さんとぶつかっちゃって、「す、す、すみません!よく見ていなかったもので!」と謝ることになります。するとあちらは言うのです、「あら、わたしいつもここにいたのに」と。
他者が独りだと改めて認め直すと、他者への思いも変化していきます。みんな独りだなんてさ。神さまついてるから大丈夫だけど、気づかない間と忘れてる間は心もとないよな。だったら俺たちもっと優しくしあっていいよな。みたいな気持ちになる。自分を傍観することは、神さまと一緒だと気づくこと、孤独だと認めること、他者を改めて憐れむことにつながっています。自分に優しくなると、いいこといっぱいです。ただただハイヤーセルフの声が聴けるようになりたいと考える人もいますが、それはなんのためなのかを考えてみて。そして、まずは自分に優しくするつもりで、自分を傍観してみませんか。
というわけで今日は、自分を傍観できるようになると、自分の冷静な感覚を拾えるよ、自分に優しくなるよ、生きるのが幸せな感覚になるよ、すると人に優しくなっちゃうよ。という観点のシェアでございました。冷静なあいつを見つけてみて!(笑)
それではまた、明日ね!
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