1025/1096【完全に同じ重要度】優しくする人と、優しくされる人
吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1025日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です
1025日目。7月もあっという間に半ばになってしまった。毎日投稿の残り日数も、2ヶ月と10日ほど。もうそろそろ2ヶ月を切ってしまうことを思うだけで、ショックに近い感覚。嬉しいことだけれども、終わるというよりも、失くすというショックに近い。
わ~どうしよう、こんなに辛さを伴いそうな予感がするとは…これは喩えるなら、愛する毎日投稿さんとの円満離婚というか、死に別れのような感じ…未亡人になるような気持ち…?!
もうここまできたら、必ずや最後まで添い遂げようと思います。
いや~気持ちがついていかん。最後の日、どう感じるのだろう。
ああ、嘘みたいで変な気分。読者さんに泣きつきたいよゥ…泣
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世界には優しい人がたくさんいます。また、世界には傷ついた人もたくさんいます。わたしたちは他者に優しくする機会がたくさんあります。人が人に優しくして、助け助けられるのは、素敵なことだと思います。
優しい人が誰かに優しくするとき、そこには常に、優しさを必要としている人がいます。優しい人が優しさを発揮するのには、優しくされる必要のある人が必要なのです。それで初めて成り立つことなのですね。わたしは、いつもこのことを思います。
わたしたち地球人がもしもチームで一緒にさまざまな経験を創り出しているだとすると、人が誰かに優しくして、優しくされた人が助けられるという経験を創り出したいときに必要なのは、優しくする人と、優しくされたい人ですね。優しくされたい人は、傷ついているのが条件です。となると、その人が傷つくような状況も必要です。
誰かが傷つかなくてはいけないので、その人を傷つける現象も必要になってきます。嫌なことを言う人や、事故や、災害や、苦労などが必要になってくると言えてしまいます。わたしたちの人情としてはそんなふうに考えるのが難しいのですが、理論上では、これらのぜんぶが揃わないと「人が人に優しくする」という現象が成り立たないと言えてしまうのですね。
なにもない宇宙に、「人が人を優しさで助ける」という現象を起こしたいとすると、必要な素材はなんでしょうか。そう、それは「優しい人」だけではないのですね。「優しい人役」「傷つけられる人役」「傷つける人役」などの役回りを負う人が必要です。
「人が人を優しさで助ける」という現象を起こすのを目的として考えてみたとき、「優しくする人」と「傷ついている人」と「傷をつけた人」の重要度は、どれもおなじだということができますね。どのピースが欠けても、「人が人を優しさで助ける」という素敵な現象を起こせなくなってしまいます。
これを前提として、無限に自由な宇宙にわざわざ現象が起こっていることを考えてみましょう。宇宙にはいろいろな現象があるけれども、たとえば「光」は「闇」とセットだし、「光ること」は「光らないこと」とセットですね。どうしてかというと「光」しかないのだとすると「闇」という発想がないからです。なにかを「光っている」と認識するためには「光っていない」という対極の概念を知っている必要があります。
光だけの世界にいたら、わたしたちはものを見ることができません。当然、「光っている」と思えないのです。世界に初めから女しかいなければ、わたしたちは自分を「女だ」とは思えません。男の概念がないので、性別を意識することが不可能です。他にも、たとえばわたしたちに目がなくて、目が見えるという概念のない世界にいるとしたら、その状態を「目が見えない」のだと思うこともできません。その発想が、浮かびようがないのですね。
光るということが起こるためには、光らないことが必要です。さて、それでは、光が存在するのはなぜでしょう。それはもちろん、光るためだと言っていいですね。
光るという現象を起こすためには、光と闇との両方が必要です。光があるということは、闇があるということ。光と闇は同時に存在し、意識がそれらを認識する目的は「光る」という現象の体験です。
「傷」は「癒やし」と、「傷つけること」は「傷つけられること」と、「傷つけられること」は「優しくすること」とセットの概念で、わたしたちがそれを認識する目的は、「傷」と「癒やし」に関するさまざまな体験です。
もちろん、傷つけられる人がいるべきだと言っているのではありません。そこを混ぜて考えないでください。わたしたち人間の感情レベルでの話をするなら、誰にも傷ついてほしくなどないし、傷つける人が傷つけるためだけに、傷つけられる人が傷つけられるためだけに生まれてきたのだとは思いません。みな優しい世界で、優しさを愛して生きたいのは当然のことです。
(※そして優しくするという現象を起こすのに、本当は傷ついた人は必要ないのですね。シンプルに優しさを体現するだけでよければ、傷ついていない人に優しくすればいいのです。でもわたしたちは、その前に”傷つく”ということについて知らなくては、優しさの価値を知り得ないのです。だからわたしたち人類の意識は、傷つくことを経験しなくてはならなかったのですね。ただお互いに無条件に優しくするという現象を起こすためには、まずその前に傷つく経験を経なくてはならなかったのです。究極点を考えてみると、まず「優しくする」のセットとなるのが「傷つく」ではなく、ただの「優しくされる」になります。そこにはもう優しい人しかいません。このように、優しくしあうだけの世界になったらどうなるでしょう。この場合、理論上では「優しい」「優しくない」という二極がなくなります。このときなんと「優しい」という概念が落ちるのです。優しさしかない世界では、優しさの概念がないのです。優しさしかない世界には「優しい人」はいないのです。なぜなら「優しい人」という概念は「優しくない人」とセットだからです)
けれどもその感情での観点とは別に、純粋に宇宙の現象として考えてみたときには、わたしたちが「人が人を優しさで助ける」ことを愛するあいだは、それと同時に傷つく役回りを負う人を必要としているということになるのです。この観点は諸刃の刃です。
このことを、「ならば、傷つく役回りを負っている人は、それが欲しくて生まれてきたのだから傷つけばいい」と考えてしまうと、感情を持って現実世界を生きるわたしたちの感覚と、あまりにミスマッチです。
ではどう考えると良いのでしょう。わたしは、「傷つく役回りを負っている人に対して、優しい人に対するのと同じだけのリスペクトを持つべきだ」と考えるのが好きです。傷つく人は、弱くて駄目な人なのではない。そんな扱いをしてはならない。大変な役を担ってくれているのだから。優しさを必要とする人は、優しくする人と同じだけ重要なのです。ですから、優しくする人は「傷ついた人のおかげで優しくするという体験をさせてもらっている」と考えたほうがいいのですね。
傷ついている人が助けられたときに「ありがとう」と言うだけでなく、助けた側もおなじように助けさせてもらったことに「ありがとう」と言うと、宇宙の創造のバランスが取れてくるのです。
この観点では、傷ついている人、優しさのある人、この両方を同じ重要度だと考えることができます。優しさが尊いのであれば、それと同じだけ、人が傷つく性質というのは尊いということができます。わたしたちの誰しもに優しさが宿っていますが、それはわたしたちが誰しも傷つき得るということです。傷つく人は、優しいのです。優しい人は、傷を知っているのですね。
セットで一組であるもののあいだに、上下や、優劣を見いださなくて良いとのではないでしょうか。たとえば、「強い人」と「弱い人」もおなじです。「強い人」の概念は「弱い人」の概念と互いに支え合って存在していますね。強さに差があってはじめて、強い人が存在できるからです。弱い人のおかげで強い人がいられるし、強い人がいるおかげで弱い人がいられます。ならば、それらの重要度は完全に同じなのです。こう考えてみると、「強い人役」の人だけが尊敬されるだけでなく、それを存在させている「弱い人役」の人も、大切に尊重されてしかるべきなのですね。
結婚しない人がいてこそ、結婚する人がいる。
結婚する人がいてこそ、結婚しない人がいる。
子どもを産む人がいてこそ、子供を産まない人がいる。
子どもを産まない人がいてこそ、子供を産む人がいる。
働く人がいてこそ、働かない人がいる。
働かない人がいてこそ、働く人がいる。
なんでもこうして、セットです。一緒にやっているのです。そう思ったら、どちらが正しいとか優れているとか言うことで争うのは、ちょっとバカバカしいことになってきてしまいますよね。こうして、どんな概念もセットであって、いっぽうの概念だけで存在できないことを理解し、さすればそれらの重要度が完全に同じであることを理解するというのは、争いのない平和な世界の実現につながる学びだことだということができます。
わたしたちがこの観点に目覚めていることを、わたしは素敵だと思います。
今日はそんなアイデアのシェアでございました。
それではまた、明日ね。