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893/1096 過去はロクでもなくていい
吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で893日。
※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。
893日目。晴れ晴れとした、きっぱりとした、異常に強い集中にも怠さにも包まれていない、今日やることをやろう!という、やる気に過不足のないまっとうな感じにある日だ。喩えるなら、煉獄杏寿郎的な気分だ。
昨日パソコンに澱のように溜まっていた余計なデータをかなり消して、昨夜はスコーン!と落ちるように眠って、今朝はパカッ!と目が開いた。こういう日ってめったにない気がする。一歩間違えば、上半身裸で朝日のもとで高らかに笑いながら乾布摩擦をしてしまいそうだ。
さあさあ、良い気分のままで執筆をしよう、そうしよう!
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893日目といえば、…ヤクザの日…!!いや、だからといってどうというわけでもないのだけれど、今日はあれこれと偶然が重なって、たまたまヤクザが題材となっている漫画を読み始めた日だった。面白い偶然。
ヤクザと言えば、わたしが子どもの頃、家に怖いお兄さんや怖いおじさんが来て、家中が酒臭くなる日がしょっちゅうあった。親類には暴力団関係の人が幾人もいて、父の会社にも見るからに近所にいないタイプのお兄さんが出入りしていた。その中の誰かが急に遊びに来なくなって最近どうしたのかと利くと「ブタ箱に入ってるからね」と父が笑って言うような家だった。子どもはなんでも受け入れるから、特に驚きもせずに、そうか~あの人刑務所にいるんだな~と思ったりしたものだった。
父は足の親指の爪の真ん中に釘を打たれて靴の中にたくさん血を溜めた状態で笑顔で帰ってきたりする人だったし、中学に入っても、家のそばで突然M字剃り込みのパンチパーマのお兄さんが走り寄ってきて、社長の娘さんですか!社長にはいつも世話になってます!ありがとうございます!とひたすらに頭を下げられたりすることがあったり、父の兄弟や従兄弟には全身入れ墨の者や殺しで刑務所に入ってしまうものなどがいて、我が家はつまりはちょっと、カタギの家ではない風、だった。
だからなのかなんなのか、こうして漫画を通して、裏の世界に生きる人間たちのどうしようもなく残酷で罪深いところに思いを馳せても、軽蔑を抱ききれない自分がいる。もちろん、理性では辛いし蔑みを感じるのだけれども、どうしても、おかしな懐かしさを覚えてしまう。
子どもの前で平気で下ネタと薬物と誰が指を落としただの誰が殺られただのという空恐ろしい話を酒の肴にしていた大人たちの、懐かしい匂い、空気感がありありと思い出される。わたしは小さかったから、そこにただ無条件に親しみを持った。わたしにとって、男やお父さんというものはこういうものなのだという認識だったし、家庭や親というものへの印象もそれと同じだった。
だから、世の中にかっこよくスーツやネクタイという出で立ちで会社で仕事をする”サラリーマン”なるものがいると知ったときに、”ヤッターマン”とか”デビルマン”みたいなカッコいいものなのだろうと考え、自分の家をガラの悪い人たちが出入りする、田舎者の集まりなのだと恥ずかしくなったものだった…
けれどもわたしは、あんなふうに育って良かったと思う。今の自分が今のようであるのは、あの幼少期があってのことだから、仕方ないとも言えるのだし…わたしは自分が好きでも嫌いでもないけれど、自分として生きることが好きだから、幼少期のことをありがたいと思う。
子どもには、暴力の話なんか聴かせちゃいけない。ブタ箱なんていう言い方を教えちゃいけない。シャブ中がどうだとか警察がグルだとか、身内の警官殺しの報道が嘘だったとか、殺されたのは口封じだったとかいうような恐ろしい話を、小さな子どもに聴かせちゃいけない。当たり前の正論なのだけれど、でもわたしは自分のロクでもない育ちを、あれで良かったと思う。
そんな環境にあって、親の仲も悪くて、家の中がいつも険悪で、母からいつも「お前が生まれなければよかった」と泣かれていて、学校ではいじめられっ子で、育ちも悪くて倫理観も低かったし、常識知らずで社会不適合で捨て身がちの馬鹿になっ(ちまっ)た。だから生きてくるのはなかなかにヒヤヒヤとする経験だったけれども、けれどもわたしはそれで完全によかったと思う。負け惜しみで、ではなくてね。あの過去に対してなんの弁護もできないし、本当にロクでもないと思うのだけれど、100%あれでよかった。
なぜって、「過去がああでなくては、今の自分がいないから」である…!!
今の自分を気に入っているのだから、そう考えたら、それを作った過去はまさに、丸ごとそのままであってくれなくてはならない。今が幸せである以上、そこはどうしようもないからである。
だから、もしも魔法で過去に戻って、家には怖い人達が出入りしていなくて、下品な話も聴かされなくて、親の仲も良くて、円満な家庭に育つように環境を変えられるのだとしても、わたしはそれをしたいと思わない。なぜって、今の自分が消えてしまうからだ。それは困る。違う自分になってしまったら、今のわたしがこの世から消えてしまう。それを望むということは、この今の自分の抹殺を望むのと同じではないか。だから、そう考えたら過去を変えたいだなんて、バカみたいな話じゃないのか。
過去を恨み、後悔をもち、違った過去なら良かったと考えることは、今の自分をも否定していることになる。わたしたちが自分の過去を恨めしく思うとき、結局は今の自分を否定しているのだもの。
自分の『今』さえ気に入っていれば、人はどんな過去だって愛することができる。過去への執着を、手放すことができる。その過去がそっくりそのままでなければ、今のお気に入りの『今』にはならないのだから。今を気に入っていたら、過去を変える必要なんてなくなるのだもの。
後悔に囚われている人は、『今』への愛を蔑ろにしがちだ。
今を愛すると、過去を観る目にも愛のフィルターがかかる。
だから、辛い過去、責めたい過去がある人も、どうかそれを蒸発させて空に返すのは『今』なのだと知ってほしい。魔法で過去に行かなくても、『今』こそが過去をいかようにも書き換えるための魔法そのものだから。
過去を遠いものだと思わなくていい、今ここに、あなたの手の中にそれはちゃんとあるから。『今』がすべて。『今』にいること、それがわたしたちの魔法なのです。
今を大切に、今を面白くしていこう。どんな過去があっても、今の自分を大事にしてやろう。楽しませて、喜ばせよう。それこそが我ら地球人のもつ最強魔法なのだ!面白いことをしてあげて、身の回りの世話をして、あまり余計な心配をかけないで、脅さないで、適度にチャレンジさせてあげて、興味があることをやってあげて。大事にしてあげてね。今を楽しまずに、過去なんてどうやって愛するというのだろう。
今さえ良ければいい。今さえ良ければ、そこからきっと、ロクでもない、最悪でクソみたいな過去だって、ロクでもなくて最悪でクソみたいだと思ったまま、そのままでよくなる。あの過去じゃなきゃ、今の自分がいないんだもんな、だったら変えられたら困るわ!と、思えるようになりましょうぞ。過去って、そのまんまで100点満点なんだから。
というわけで今日は、”しょうもない過去も、あえて「今の自分を作るのに不可欠な要素だった」と考えてみることで、違って見えてきますね。だから『今』を大切にしよう。『今』さえあればタイムマシンさえ要らないね!”という観点のシェアでございました。過去への消化できない思いを抱える人に、どうか届いてくれますように。この記事に出会ったあなたには、いい未来が待っていますよ。そういう運回りの人だから。
それではまた、明日ね。
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