993/1096 誰も信じない話②
吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で993日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。その下の点線以下が本日の話題です
993日目。愛する人がいたら、その人がいなくても幸せでいなくてはならない。あなたがいないと生きていけない、と言ってはならない。
愛する人がいたら、その人の不幸を信じてはならない。その人の幸福の力を信じなくてはならない。
愛する人がいたら、その人から嫌われても幸せでいなくてはならない。あなたに愛されるために生まれてきた、と言ってはならない。
愛する人がいたら、その愛で自分を愛さなくてはならない。あなただけを愛していると言ってはならない。
愛する人がいたら、その人を愛してはならない。なにかを愛せることを、愛するだけだ。
993日目であることにこだわっても仕方がない。
993日目の投稿ができることを愛するだけだ。
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※この物語の人物名は架空のものであり、物語の詳細もフィクションです。わたしの記憶をもとに、そこからインスピレーションを得て書いています(またそれについて、改めて説明しますね)。
わたしはねずみ色の、皮か合皮かわからないソファーに横になっていた。わたしが動くと、皮がこすれあってググググと大きな音が鳴る。自分の身体から出ている音でもないのに、それがなんとも小恥ずかしい気がして、わたしはできるだけ音が鳴らないように首を動かして、穂苅さんの顔を見た。毛穴が号泣したあとみたいな、ものすごい汗だった。
「死んじゃうのもいいけどね、あまり変わらないさ」と穂苅さんは言った。
変わらないとはどういうことだろう。わたしは返す言葉も思いつかず、なんとなく穂苅さんは別のことを言っているとわかっていたけれど、常識的な返答をしようとして「はい、わたしが死んでも、世の中には影響ないんですけど…」と明るく言って茶化した。汗で、おでこにも首にも、髪の毛がべったりと張り付いている。こんな姿でそんなことを言うと、なんだか哀れに見えそうで、同情をひこうとしていると思われそうで恥を感じた。そういうつもりではなかったのだけど…
すると穂苅さんは、「死んでも人間ってのは、そのまま見たいものを見ているんだから、そのままだよ」と、唐突に奇妙なことを言い出した。いつもの、どこか余裕と哀愁のある雰囲気のまま。穂苅さんはこちらの細かい心配がいつも杞憂だったとわかるような、それらの届かぬところからの返答をする。
わたしは身体のせいで普段よりもIQが著しく下がっていたのか、「そのまま、見たいものを、見ているから、そのまま…」と、馬鹿みたいにその言葉を追って考えようとした。
穂苅さんはその様子を見て、ほんの少し微笑んだ。緩んだ顔だった。そしてこう言った。「病人の退屈しのぎに、誰も信じない話をしようか」
なんだか心が躍った。なんだろう、どんな話だろう。幽霊の話だろうか。わたしはその手の話が好きだ。わたしは「はい!!」と言った。少し前までろくに声も出なかったのに、自分でも驚くほど元気な返事が出てしまった。
「俺は死んだことがあるよ。臨死体験というようなことではなくてね。死んだ」
穂苅さんは落ち着いた顔でそう言った。わたしは自分の熱意が急速に冷めたのを感じた。なんだ。この人の勘違いみたいなものを聴かされるのだろうか。穂苅さんは普段から不思議な貫禄を持っていて、仕事の仕方もミステリアスだったから、自分が実際以上に特別視していたのだと冷静に思った。変な期待を大きくしすぎていたみたいだ。
「穂苅さん、幽霊なんですか」とわたしは言った。それでもこの話に乗るのは楽しい気がしたからだった。穂苅さんは「いや、生きているだろうが」と言って自分の腕をパン!と叩き、わざとらしい突っ込みをした。が、それを見たとたん、わたしの背中が縮まるほどゾワッとした。すごい反射だった。背中に痛いほどの悪寒が走った。おかしい、なにかおかしい。このときもし穂苅さんが、「聴いててくれ、信じてくれ、そういうことではないんだ」と言って真剣になり始めたら、勘違いおじさんの世迷い言を聞かされるのだという予測に確定のフラグが立ったと思う。けれどもその冗談を言った彼の顔にはそのとき、これまでにうっすらと感じてきていた哀愁と修羅場をくぐった人間の諦めが、風で煽られてめくれたみたいにむき出しになって漂っていた。わたしはそこに本能的に、彼がこの世で長い間孤独な時間を過ごしてきたあとの、灰となったなにかを垣間見た。なんだ、一体なんだ、でもきっとこの人はなにか、本当の話をしている。
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熱が出てきたのではない。今は関節も痛くない。でもわたしのそのゾワゾワはほとんど痛みと言えるほどの遠慮のない悪寒だった。背中から這い出した鳥肌が、熱したフライパンに乗せた肉のように肌を縮めながら、脚や腕にまで渡っていった。わたしはそれを穂苅さんに悟られないようにした。また具合が悪くなりはじめたのだと思われてしまう。そのせいで、穂苅さんが気を変えてこの話をしてくれなくなるかもしれない。なんとなく、穂苅さんが話してくれているのは、ふと気が向いたからなのだと感じたからだった。
わたしは、こいつ頭大丈夫か、と思われるかもしれないという薄っすらとした心配をよそに、真剣にこう言ってみた。「いつ、死んだのですか」
すると穂苅さんはほんの一瞬だけ目を丸くしてすぐにもとに戻って、穏やかな様子で「ずっと前だよ。若い頃に」
ああ本当だこれはなにかが本当だ…なぜそう思うのかが説明できないけれども、身体が先に話に集中してのめり込もうとするのを感じた。
「死んだらね。しばらく気が付かなかった。喧嘩でリンチされていて、真っ暗になったからはっと気がついて立ち上がったんだけどさ。それまでと変わらなかったからね。生きているのと同じだからさ」
言葉がなかった。目の前の穂苅さんは生きているし、かといって嘘を話してもいない。こんなことを信じ込んでしまっている狂人なのだとも思えない。けれども、それでは辻褄が合わなすぎる。返答ができなかった。
「新品でなくて申し訳ありませんが、よければどうぞ」穂苅さんはそこで、片膝を立てて手に持っていたタオルを丁寧に差し伸べてくれた。コートを着せてくれようとしたときの、「どうぞお嬢さん」と言ってくれたときと同じような、ちょっとお茶目な執事のような振る舞いだった。受け取っておでこを拭うと、洗濯したての清潔なタオルのいい香りがした。穂苅さんは狂ってなどいない。なにか不思議なことがあったのだ、きっとそうだ。
穂苅さんは、「変な話だから信じなくていいからね。でも暇つぶしにはなるでしょ」と言った。わたしはなんだかもう、穂苅さんの気が変わってしまうことだけが心配でハラハラして、「はい…!」と言って無言で首を細かく上下に振った。
「死んだとすぐにわかったよ。変な光も見えるし、俺が運ばれていってね。死体だったから。見た感じはすごい怪我だったけど、そこまで痛い思いはしなかったんだけどな。途中から喧嘩のことを忘れて考え事をしていた気がする。暗くなって驚いて、ハッと起きたらもとの喧嘩の場所にいたんだよね」
わたしは、この時点でこの話を信じ始めていた。自分の勘が嘘ではないと言っていた。臨死体験の話ならよくある。しかし彼のこのあとのひと言で、これはそれでは済まない話だとわかった。わたしの耳に、遮断器の降りる踏み切りみたいに、カンカンと警告音が鳴りはじめた。
「まあ俺はそのあと、普通に火葬されたんだけどね」
自分の表情が固まっているのがわかる。ではなぜこの人は、今こうして生きているのだろう。わたしはまばたきも忘れていた。そして、もしかしたら狂人かも知れない人の部屋で、意識して普通に動きながら、ググググと思い切りソファーを鳴らして身体を起こした。気が急いて、寝転がって聴いてなどいられなかったからだった。
ーつづくー
それではまた、明日ね!