Something great と 神について考える
私は日本のど田舎の旧家に生まれた。
床の間に天照皇大神の掛け軸、その隣にお稲荷さん、別の部屋には仏壇がある。
台所に荒神さん、居間には恵比寿さんに大黒さん、庭の一角には鬼門さん。。。
それぞれの『神さん』を掃除したりお供物をしたりはするけど、仏教や神道を熱心に信じているわけではなく、むしろ宗教にはアレルギーがある。
そんな家に育った。
大多数の日本人がこんな感覚じゃないだろうか?
仏教と神道は『文化』であって、信仰ではない。
ただ私はずっと something great の存在はなんとなく信じていたと思う。
それを神様とよんだかよばないかはわからない。
なんとなく、大きな力があると感じていた。
これはおそらく人間の本能だ。
だから宗教が、太古の昔から存在する。
42歳のとき、クリスチャンの男と恋に落ちた。
それまで向き合う必要のなかったSomething greatがいったい何なのかという問いに直面する。
そもそも、信仰や宗教というものを深く考えたことがなかったことに気づく。
私は、『宗教アレルギー』という宗教を信仰していた。
キリスト教は彼のアイデンティティに深く根ざしている。
自分が入信することはないと思いつつ、知りたいと思った。
八百万の神の文化から見ると、イエスという実在の人物が唯一の神だという考え方に抵抗があった。
でも一方でなぜ、世界で一番信者が多い宗教なのか、キリスト教の何が多くの人の心を捉えるのかということにも興味があった。
4年たって、私は洗礼を受けた。
私は日本人として生まれて、この国では多くの人にキリスト教が馴染まないと知っている。
だから、クリスチャンになるように強く勧める気持ちはない。
信じるのも、信じないのも、それぞれの選択だ。
私の場合は、ずっと感じ続けてきた Something great の存在を宗教というものを抜きにして捉えるのは難しく、ざっくり言えば八百万の神よりも、一神教のほうがシンプルで自分の感覚にマッチしたということなんだろう。
西洋人に個としての自信がある人が多いのは、キリスト教の影響が大きいと思っている。
すべてのものは神の作品だ。
神の作品である自分を卑下することは神にケチをつけるのと同じだ。
どんな自分でも素晴らしいし、神に愛されている。
そういう信念を保ちやすいように思う。
同調圧力の強い文化の中で、日本人は周囲と違っているということだけで不安をいだきやすい。
本来人はみんな違うのが自然なことなのに、その自然なことが自信のなさの原因になり、生きづらさを生む。
それに謙譲を美徳とする文化には攻撃性が潜んでいる。
なにか褒められたときに
私はその『褒められるライン』より下だ、
あるいは『褒めてくれるあなた』より劣っている、というのが謙遜である。
謙遜するとき、人は無意識で相対的な自分の価値、レベルを規定している。
この視点をつねに保持しているのが洗練された大人というわけだ。
ここに他者との違いにフォーカスする土壌が生まれる。
異質なもの、『標準』からはずれているものに注目し、それを弾劾するのが同調圧力の心理だ。
信仰をもつということは、神が示したルールに照らして、自分がどうなのかという視点で人生の意味を考えることでもある。
常に揺らぐ人間同士の優劣や違いが基準ではなく、神という俯瞰の視点で自分自身を見つめる作業だ。
それは決して正解の出る問いではないけれど、重要なのは神と自分との関係だから自分が他の人間より優れていたり劣っていたりすることは問題ではなくなる。
神から見れば、あの人も私も、ただの人間なのだから。
生きづらさと言えば、親からのトラウマも大きなファクターであることは自明だ。
彼をとおしてクリスチャンの家庭のあり方を見ていると、信仰をもつ家では絶対者はあくまでも神であるということが自然に共有されている。
神がどっしりそこにいるので、親が神ではない、ということが明確なのだ。
それでも子どもにとっての親は、その存在に全面的に依存しているという意味で絶対者ではあるし、その壁に突き当たるときは来るのだけれど、ここでも神というパーフェクトな存在と、パーフェクトではありえない人間たる親という認識は、壁を乗り越える助けになりそうだ。
信仰の恩恵、メリットについて、日本人はもう一度考えたほうがいいのかもしれない。