ざわざわのひと月
2021年1月19日に入院した母は、その1ヵ月後、転院し、2021年2月18日に退院しました。
その1ヵ月間、私は毎日毎日、崖から突き落とされそうになったり、時には突き落とされ、それでもいつも通り「何とかなる!」「絶対大丈夫!」と自分に言い聞かせながら、私の心はざわざわと揺れ続けました。
ガラス越しのもどかしさ
手術当日、少々混乱状態だった母ですが、やがて身体の回復とともに落ち着いてゆくものと信じていました。
翌日、病院へ電話を掛け、母の様子を訊ねると、病室への見舞は出来ないが、病棟の入口まで連れてきてくれるとのことでした。入口は、ガラスの扉になっていて、その扉越しに顔を合わせ、携帯電話を使って会話ができるとのことでした。午後のリハビリの時間を聞き、終わったころにガラス越しの面会に行きました。
車椅子に乗って連れられてきた母は、やや疲れた顔をしていましたが、覚えたてのスマホを使い、話をすることが出来ました。母からは、まだ痛みがあること、食事が不味いこと、退屈なこと…等々を聞き、私からは、母の友人から早速お見舞いの品が届いたことを伝えると、お礼の電話をしておいて欲しいと言い、私の感触としては、混乱していた状態から戻ってきていると安心したことを覚えています。
5分にも満たない短いガラス越しの面会は、実にもどかしいものでしたが、結局、母が退院する1ヵ月近くの間、ほぼ毎日、続くこととなりました。
その翌日、退屈している母のために何冊かの本を紙袋に入れ、こっそり袋の底にチョコレートをしのばせ、持参しましたが、母は眠っていたようで会うことが出来ず、看護師さんに渡して帰宅しました。
会えずに帰宅したその夕方、電話があり、「どうしても来て欲しい」と言うので、再び、病院へ行きました。ガラス越しの母は、とても嬉しそうにしていて、スタッフが出入りのために扉を開けた瞬間に手を伸ばし、私の手を握り、「嬉しい、嬉しい」と今にも泣きだしそうな顔をしていたので、ちょっと驚きだったのとともに、母の淋しさや心細さに、何か得体の知れない不安を感じ始めました。
毎朝、朝食後と夕食後、必ず電話をするように伝えておいたにもかかわらず、母からの電話はまちまちでした。ガラス越しの面会では、まわりに人がいたり、携帯電話を通して会話をしているので大した話はできません。ただただ、「顔を合わせにゆく」、それだけが目的です。
母は、妙にテンションが高い日がありましたが、それは本当に稀で、あの「嬉しい、嬉しい」と喜んでくれた日が嘘のように、無表情の日が多くなってきました。
母の心に何が起きているのか?
このまま認知症になってしまうのか?
今、私に出来ることは何だろう?
必死に考えても、ただ母からの電話を待ち、ガラス越しの面会しか出来ない私に出来ることはしれています。懸命に、家族のことや、母の友人のことを語り掛け、会話に繋げようと努めていました。
入院から1週間も経たない頃、朝、母から電話がありました。
「今、歯医者さんにいる」と、言います。「これから帰るところなんだけど、タクシーを待っている」と…。入院中に歯が痛くなったのだろうか?「どうしたの?誰に連れてきてもらったの?どこの歯医者さんにいるの?」私からの質問に答えはありません。どんな状況だったのかわかりませんが、そのうち、電話の側から「大丈夫ですよ、病室にみえます」と、看護師さんの声が聞こえました。
妄想?
寝ぼけてるの?
何?
いろいろな思いが錯綜しました。
笑って済ませていいことなの?いやいや、そんな簡単なことではない…。
その日の夜、電話が掛かってきた時に、何気なく、「朝は寝ぼけていたの?」と聞くと、「歯医者さんに行ったのよ」と母は答えました。
また別の日、土曜日か日曜日。夕方、母から電話が掛かってきました。
「お母さんね、凄いのよ。競馬で大儲けしたの。今、競馬場にいるの」と、母の声はハイテンション。私は、出先だったので、ゆっくり話を聞くことが出来ず適当に受け答えしながらも、ハイテンションの母とは真逆の心境でした。
電話を切ってからも、何故、母は、行ったこともない競馬場にいるなんて言ったのだろう?
その謎は、やがて解明しました。電話が掛かってきたのは4時頃でした。土曜日、日曜日は、テレビで競馬中継をやっています。おそらくは母は、そのテレビを観ていて、自分がその場に居る気になり、めでたいことに大当たりした気分になってしまったようでした。
テレビ放映に引っ張られるという症状は、退院後も度々ありました。いや、今も続いています。
母が入院してから2週間ほど経ったころ、雪が降り、薄っすらではありましたが、銀世界が広がっていました。夜8時ごろ、母から電話がありました。「お母さんだけど、今、名古屋駅に着きました。今日はもう遅いから、このままホテルに泊まるからね」。どう返答したのかは覚えていません。ただ、目の粗い硬めのブラシで心を撫でられているようなザワザワとした感覚…。母の奇妙な発言を聞くたびに、そんな感覚になりました。本当なら、今すぐにでも病室へ駆けつけ、思いっきり母を抱きしめてあげたい!こんなに近くにいるのに出来ない!毎日繰り返されるガラス越しの面会のもどかしさに地団太を踏む思いでした。コロナは、こんなところにまでひっそりと、でも確実に襲い掛かっていました。
こんなこともありました。
いつものように面会を済ませ、自宅で夕食をとっていると母から電話が掛かってきて、「たまには顔を見せなさい!」。ひどく怒っていました。さすがに「何言ってるの?さっき会ったばっかりじゃない!悲しいこと言わないで!」と、ついつい声を荒げた私に対して、母は、勝手に電話を切ってしまいました。まったく話が嚙み合わない後味の悪い電話でした。
病院の対応に対する不満を漏らすことも度々ありました。
母は、極度の不眠症になっているようでした。今思えば、すでに「せん妄」状態であったであろう母は、おそらく夜中に騒いでいたのでしょう。他の入院患者さんのことを考え、母はナースセンターで監視されていたようです。
そのことについて、母は「拘束された」と私に訴えていました。確かに日中でも、車椅子に乗った何人かの患者さんがナースセンターにいる光景を目にしました。その患者さんたちは、何をするでもなく、大きなテーブルを囲み、黙って座っているだけでした。「あの人たちは何をしているのだろう?」と、思っていましたが、それは夜中の母の姿でもあったのです。
入院から3週間過ぎた頃、ソーシャルワーカーの方から、転院先が決まったと連絡がありました。転院する日には同行できると知り、ようやく、ガラス越しではなく、直接、触れ合うことができると、それはそれで、私の心は、ざわざわと音を立てていました。直接会えば、母はきっと元通りの笑顔をみせてくれるに違いないと、無理矢理にでも思い込もうとしている私がいたような気がします。
妄想の日々
2021年2月12日、転院は、介護タクシーを利用しました。入院していた病院から転院先までは、20分ほどの距離でした。車に乗り込み、すぐに母にチョコレートを渡しました。母は、入院生活では口に出来なかった大好きなチョコレートを嬉しそうに食べてくれました。私は、母のスマホにLINEをインストールし、様々な設定を行い、友人として私だけを登録しました。これは、前日から考えていた事でした。今までの病院は、もどかしいながらもガラス越しの面会が許されていましたが、転院先では、それが可能なのかどうかわかりません。もし、許されなければ、顔を観ることは出来ません。テレビ電話の機能が付いていない母のスマホでも、LINEを使えば、テレビ電話が出来ます。私は、転院先に到着するまで、何度も何度も、LINEの使い方(電話のかけ方)を説明し続けていました。
転院先の病院に到着し、すぐに病室へ連れて行かれる母は、私の手を握ってきました。私は、「頑張ってね。階段が登れるようになったらお家に帰れるよ」と言い、笑顔で母を見送りました。
その後、ソーシャルワーカー、担当の看護師さんと話をして帰宅すると、さっそく母からLINE電話がかかってきました。母は笑顔でした。「ここは、お部屋も明るいし、お昼ご飯も美味しい。看護師さんも優しいの」と、嬉しそうに話す母の側には、先ほど私と話をした担当の看護師さんがみえました。どうやら、彼女に電話をかけてもらったようでした。まずは、転院先を気に入ってくれたことに、心の底からホッとしました。
そんな胸をなでおろしたのもつかの間、翌日から母は、私に自分の置かれた状況を訴えてきました。前の病院とは違い、ガラス越しの面会も出来ないので、差し入れという理由をつくっては病院へ出掛けました。そうすると、看護師さんが、少し離れたところまで母を連れて来てくれます。「顔を見る」という程度で、もちろん会話はスマホです。私は、前日の電話で、どんなに不満を聞かされようと、そんなことはなかったかのように笑顔で手を振るようにしていました。母の顔には、すでに表情がなく、うつろの目をしていました。ひょっとしたら、私が、そう感じていただけなのかもしれません。が、明らかに笑顔はありませんでした。
「母は眠れているでしょうか?」と看護師さんに訊ねると、「夜は眠れないようで…。ナースセンターの方にお連れしています。」と答えられました。やはり、ここでも同じでした。誤解のないように書いておきますが、私は、病院側を決して非難したりはしていませんん。コロナ禍で、家族が付き添えないことで大変な思いをしているのは、看護師さんやスタッフです。通常ならば、家族がやってくれる雑用までやらなくてはなりません。夜中にゴソゴソ動こうとする患者は、目の届くところに連れてきておかなければ、他の患者さんに迷惑をかけることになるし、動き回っている本人の怪我にも繋がりかねないからです。看護師さんは、申し訳なさそうに「ご本人にも説明しているのですが…」と言われ、私の方がかえって恐縮してしまいました。「ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」。私は、そう言うしかありませんでした。
その夜も母から電話がありました。もう12時を回っていました。「今、誰もいない暗い部屋に連れてこられた。」と言う母に、「誰かいないの?看護師さんがいるでしょ?」と答えると、普段、大きな声など出したことのない母が、とんでもないことを言い出しました。
「誰かいませんか?ここから出してください」
「誰か助けて。殺される」
すぐに看護師さんがみえて母をなだめているようでした。その後、電話は切れました。もうそこには、私の知っている母はいませんでした。それでもなお、「家に戻りさえすれば」と、希望をもっている私でした。
翌朝、病院から電話があり、主治医から話があるので来て欲しいとのことでした。指定された時間に行くと、先生は「お母さんは、かなり精神的に参っているので、出来るだけ早く退院するようにしましょう。」とのことでした。
我が家は3階建てのマンションの3階で、エレベーターはありません。本来ならば、階段の上り下りが出来るようになるまで入院し、リハビリするのですが、5段登れたところで退院ということになりました。それがいつになるのか、その時点ではまだわかりませんでした。
母の身体は、その心とは裏腹に、思った以上に回復が早く、階段の訓練が始まるとすぐに5段をクリアしたようで、病院から電話があり、明日、退院ということになりました。早速、介護タクシーに連絡を取り、事情を話し、階段上りを手伝ってくださる方をお願いしました。
希望と絶望
2021年2月18日、退院の日、病棟の方へゆくと、母は、最期のリハビリ中でした。母は元気そうで、「おかあさんね、この先生、大好きなの」と、笑顔でリハの先生を紹介してくれました。それは、私が長年、そばで見てきた母の顔でした。リハの先生から自宅に戻ってからの注意事項などを聞いている間も、母は、ずっと穏やかでした。「大丈夫!家に戻りさえすれば、きっと元の生活に戻るはず!」。希望の光が差し込んできた、そんな気持ちでした。
その後、着替えがあるからと、一旦、病室に戻った母を病棟入り口で待っていると、今度は、車椅子に乗った母が、看護師さんに連れてこられました。入院中の荷物を受け取り、ふたりで介護タクシーをまっていると、急に母から思いがけないことを言われました。
「今日はご苦労様。〇〇さんのお嫁さん?」
「・・・」
返す言葉が見つからず、ただただ母の顔を見つめている私の馬鹿面は、他の人が見たら、ずいぶん間の抜けたものだっただろうと思います。ついさっきまでの希望に満ちた思いは、一気に吹き飛び去り、ようやく私の口から出た言葉は、ありきたりのものでした。
「ウチへ帰ろう。帰ったら何が食べたい?」
何も聞かなかったふりをして、そんなことを言ったような気がします。それが精一杯でした。そう、私は何も聞かなかった…。
その後、自宅へ向かう介護タクシーに乗り込むころには、もう、私は、母にとって「娘」になっていました。それでも、今から駅に誰かを迎えに行くとか、昨日、電車に乗ってどこかへ行ったとか、母の口から語られることは、もはや妄想の世界でした。
介護タクシーの運転手さんに助けられながら、なんとか3階にある自宅に到着。母にとっては、約1ヵ月ぶりの自宅でした。
ほんのひと月…。
たったひと月…。
ひと月をこれほど重いものに感じたことはありません。
私にとっても、もちろん、母にとっても、人生を大きく変えてしまうひと月でした。
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