6月16日金曜日、私は予定通り肩の手術をうけました。 当日はもちろん、続けて土曜、日曜と病院へ行くことができなかったため、 月曜日は、3日ぶりの面会でした。 手術をうけた左肩に負担をかけないため、片腕は固定されていたので、 車を運転することが出来ず、術後2週間は、徒歩か一部バスを使って面会に行きました。 もうすでに真夏かと思うほどの暑さのなか、汗だくで面会へ行くと、 母は、心配なのか「無理しなくて良いから」と言いながら嬉しいそうでした。 そんな母の様子をみていると、行かない
3月30日に、転院した今回の病院は、なんと面会が出来ました。 「自由に」というわけではありませんが、予約が取れれば毎日でもOK、ただし、面会時間は30分とのことでした。 それでも、これまでリモート面会しか許されなかったので、最高です。 おまけに、母はもう、話が出来る状態だったのです。 転院したその日も、ソーシャルワーカーの方から、様々な説明を受けた後、早速、母の病室へ面会に行きました。 病室は、4人部屋で、決して広いとは言えませんでしたが、それでも母と直接話が出来ることは、
ずいぶん日にちが空いてしまいました。 2月22日、無事に97歳の誕生日を迎えることが出来た母のその後について、 書き続けていきたいと思います。 転院早々、コロナ感染を告げられた母でしたが、 隔離期間中も発熱することなく、過ごすことができました。 担当医からリモート面会の予約を許されていたので、 2月27日、転院後初めてのリモート面会に行きました。 受付けで名前を告げると、タブレットを渡され、別室へ案内されました。 しばらく待っていると、母の病室から看護師さんの声が聞こえ
母との面会を終え、兄も埼玉へ戻っていきました。 2月最初の日曜日、午前中、仕事を終え、スマホを見てみると着信が…。 着信画面に「日赤」とあるのを見た瞬間、 いつも通り、一気に鼓動が早まりました。 「なに?」 「何があったの?」 「日曜日に何?」 これもいつも通り…。 様々な想像が、頭の中を駆け巡りました。 急いで、電話をかけ直しました。 担当看護師さんに繋がるまでドキドキが止まりませんでした。 すると、電話口の看護師さんから返ってきた声は、 私の心配に反して、明るい声でした
あっという間に2月も下旬にさしかかろうとしています。 担当医から母の今後をどうするのか問われ、 突然の宣告にオロオロしてしまった私。 結局、私はどんな答えを出したのか? そして、今、どんな状況であるのか? 前回書いたとおり、母に会わせてもらえるということだったので、 1月6日、会いに行きました。 その日、母は特別に個室に移されていました。 12月26日に救急搬送されて以来、約2週間ぶりに会う母は、 とても弱々しくみえましたが、呼吸器に繋がれることもなく、 手を握ると握り返し
大晦日、先生に言われたことを何度も何度も反芻しながら、 2023年を迎えました。 母の体力を信じて、 先生が言われた家に戻れる可能性もあるとの言葉を信じて…。 元日、本当は病院へ行きたいと思っていましたが、 前日に、先生から様子を聞いたばかりだったので、 あまり変化もないだろうと自分に言い聞かせ、 1日中、家で過ごしました。 TVから聞こえてくる賑やかな声も ただ頭の中を流れてゆくだけ… 何もやる気になれませんでした。 2023年1月2日 病院へ行きました。 普段とは違
予断を許さぬ状況…? 予断を許さぬ状況…? 予断を許さぬ状況…? 先生の言葉が、耳の中でこだまして鳴り続けていました。 こだまの奥から、話し続けている先生の説明が 薄っすら聞こえてきました。 「それで、そうなった場合、どうされますか…?」 えっ?何?どうなった場合? 頭の中で、私の脈打つ音が響き渡っていました。 今、この場で、最悪の状態の場合を考えろってこと? 口の中が乾いて、パサパサ…。 先生が何を言われていたのかを、今、正確に思い出すことができません。 「このま
私が楽しみにしていた「推し」のクリスマスライブを楽しんだ翌朝、 母は意識レベルが低下し、リハビリのために入院していた病院から 日赤へ救急搬送されることになりました。 リハビリ病院から電話があったとき、 今までドラマの中でしか聞いたことがなかった「意識レベルが低下」 という言葉が、急に身近なことになり、心臓がバクバクしていました。 まずは、落ち着こうと深呼吸をして、 自分がやるべきことは何かを考え、兄に電話をしました。 埼玉県に住んでいる兄は、 「わかった。また連絡してくれ
思ってもみなかった脳梗塞…。 母のは、アテローム血栓性脳梗塞という種類で 高血圧、糖尿病の人に多いのだとか…まさに…。 長い1日が終わり、家に戻るとぐったり疲れていました。 ひとり夕食を食べなたら、 「お腹が空いた」と言っていた母は、今、どうしているだろうと 可哀そうになりました。 私は、こうして家に戻れば、何もかもがいつも通りにあるけど、 突然、殺風景な病院のベッドで寂しい思いをしているのではないか? またまた自分だけの世界に入り込んでしまうのではないか? 可哀そうに思う
本編では、「母が補聴器を使用するようになり、少しやる気が出てきた」 というところまで書いてきました。 本来であるならば、その先を書くつもりでいたのですが、 事態が変わってしまったので、そちらから先に書いておきます。 2022年11月になり、母は、デイケアへ通うようになりました。 そのいきさつについては、また別に書きます。 月曜と木曜は、訪問看護によるリハビリを受け、 火曜と金曜は、デイケアに朝から夕方まで通う。 そして、土曜には、マッサージを受ける。 デイケアでは、リハビ
私がふたり(母にとっては別人物)いたり、 テレビの世界に入ってしまったり、 夢を引きづったり、 あれやこれやと母の行動と闘いながら、 私は私で、このままではいけないと考え、調べていました。 何をすれば、元の母に戻ってくれるか? 何故、退院して数ヶ月経つのに、戻らないのか? といっても、素人ですので、ネット頼りです。 まずは、症状で検索し、母の状態を「せん妄」ということを知りました。 まったく聞いたことのない言葉でした。 しかし、ネットに書かれていることによれば、 入院などに
「お父さんに電話を掛けたいんだけど、番号がわからない」 そう言って、電話の前で戸惑っている母…。 想像を超える話をしてくる母に、戸惑っている私…。 優しくなんてしてられない! こんな時は、どう答えるのが正解なのかわかりません。 認知症の方に対する返答方法として、否定してはいけないということをお偉い先生方がおっしゃっていますが、せん妄の場合はどうなのでしょう? 「そうだね、何番だったかな?私もわからないよ」って、上手く逃げるのが良いのでしょうか? 私には出来ません。こういっ
そんなこんなで母は、予定より随分早く退院となりました。退院当日、「娘」を「娘」と認識しなかった母にショックを受けた私でしたが、それも入院生活の孤独からくるもので、家に戻ればきっと以前の母に戻るに違いないと信じていました。 案の定、自宅に戻り一息ついたところで、兄や、お見舞いを頂いた友人に電話をかけていました。その様子は、多少、言葉が出づらい感じはしましたが、特に奇妙なことを言うでもなく、極めて普通だったので安心しました。 歩行に関しては、まだまだ股関節が安定しておらず、歩行器
2021年1月19日に入院した母は、その1ヵ月後、転院し、2021年2月18日に退院しました。 その1ヵ月間、私は毎日毎日、崖から突き落とされそうになったり、時には突き落とされ、それでもいつも通り「何とかなる!」「絶対大丈夫!」と自分に言い聞かせながら、私の心はざわざわと揺れ続けました。 ガラス越しのもどかしさ 手術当日、少々混乱状態だった母ですが、やがて身体の回復とともに落ち着いてゆくものと信じていました。 翌日、病院へ電話を掛け、母の様子を訊ねると、病室への見舞は出来
2021年1月17日深夜、自宅で転倒。 翌18日、救急車にて病院へ。 診察の結果、左大腿骨骨頭骨折で1日おいた20日に手術とのこと。 入院が決まり、病室まで付き添わせてもらいました。痛みはあっただろうに、そこまでの母は、連絡するべき人などを伝えたり、持ってきて欲しいものを指示したりと、いつも通りの母でした。 手術は、翌々日で、コロナ禍で面会が出来ないため「明日は来れないよ」と言う私に、「わかってるよ」と、ちょっと諦めモードで答えていました。 病室に母を残し帰宅した私は、
人生でただ1度、時間を巻き戻せるとしたら、そう、あの日、あの一瞬に戻り、違う状況にしたいと思います。 それは、2021年1月17日深夜のことでした。リビングでテレビを観ていた私は、大きな物音と母の「痛っ!」という声に驚き、母の元へ。 身体の左を下に横向きに倒れていた母は、痛みに顔を歪めながら「脚がもつれて(転んでしまった)…」と言うので、「どこが痛いの?」と聞くと、最初は「肩」と言っていました。入浴のため左腕に着替えを抱えたまま転んだため、床に肩を強打したようでした。そんな