自分にとって大切なことを教えてくれた父に、この春の煌めきを 見せたくて・・・
昨年、相方の誕生日祝用のケーキを買いにちょっと遠出したときに出逢った早咲きの桜のことを思い出し、今年も、2月半ばちょっと前でしたが、同じくお祝いのケーキを買いに行った際に、立ち寄ってみました。
今年の冬は、昨年の冬より、全体的に暖かい冬だったけれども、雪が降ったり、寒さが厳しい日もあったせいか、お花の咲き出しは少し遅い気がしました。それでも、寒緋桜は見頃を迎えていて、河津桜も咲き始めていました。
ここだけ、ひと足早い春が訪れていました。
咲き始めたばかりの河津桜
この桜を、父にも見せたいなぁ。
外は、もう春だよ。お花が色々咲き始めているよって。
父は、昨年夏、体調を崩し、病院へ入院したものの、治療は出来ず、とりあえずの応急処置をして退院、そのまま施設へ入所となりました。
夜中でも見守りが必要で、自宅へ連れて帰ることも難しく、当初の予定だった3か月間を過ぎ、春、暖かくなるまで、ということで期間を延長してそのままお世話になっているけれど、その後は、難しいらしく、自宅へ連れて帰るのか、そのまま別のところを探すのか。母自身も体調が悪く、家で寝ていることも多くなっていて、とても父の面倒は見切れないとのことで、現実問題は、どこか別の施設を探すしかないのかもしれませんが、それでも、出来れば、別の施設へ入る前に、一度家に連れて帰りたいなぁとか、おためし帰宅、のようなことが出来ればいいのに、と話していたのですが、それもこのコロナ禍では難しいようです。
入所後の父とは、月に一度、ガラス越しに、たった15分だった面会も、今年に入ってからは、一切出来なくなっています。
携帯電話も使いきれず、持たないまま入所した父とは、直接の連絡も出来ず、施設の方を通して、月一度、電話で話しをすることしか出来なくなってしまいました。それも、遠く離れている自分とは出来なくて、ただ、家族から、元気でやっている、と聞くだけ。
どうしても昨年そんな父の顔を見たくて、月一度の面会日に合わせて、実家へ帰省しました。その前に父に会ったのが、一昨年の5月。一年に一度、帰省するのがやっとだったので、一昨年、こちらへ戻ってくるとき、あと何回私と会えるかなぁとポツリと父が呟いたのが、やけに心に残っていて・・・。
認知症も進んでいる様子の父です。昨年、面会したことも、ひょっとしたら覚えていないかもしれません。でも、父にとっては、逆に、認知症がある方が、幸せなこともあるかもしれないなぁと思ったりします。
約1年と4か月振りに会った父は、すっかり痩せ細って、変わり果てた姿でしたが、それでも少し歩けるようになってきていると、面会場所へは車椅子で移動してきていましたが、立って、元気に歩いてみせてくれました。
自分が、せめて東京に居れば、もっと色々出来ることもあったのに、と、まあでも、それは、こちらへ来ることを決めた時点で、或る程度は割り切っていたところでもあるんですが、それでも、こんなコロナ禍は全く予想もしていなかったことで、病院、あるいは施設に入ったら、自由に会うことも出来ない、ということまでは、全く想像もしていなかった事態。本当に、色々と考えてしまうこの頃です。
でも、ふと、思い出したことがあります。
困った人がいると、とにかくほおっておけない、面倒見が良くて、馬鹿がつくほどお人好しな父だったんですが、一番大切にしていたことは、自分が本当にやりたいことをやる、でした。家族を養うためにこの仕事を選んだわけじゃない、俺がやりたいからやっている、お前たちの為に働いているわけじゃない、と。
そして、私や弟にも、誰かの為に自分を犠牲にしてその仕事を選んだりするな、自分が本当にやりたことをやりなさい、自分の為に働きなさい、が口癖でした。だから、自分が脱サラして始めた商売で、その仕事に誇りとやりがいを持っていた父でしたが、それを私や弟に、決して跡を継ぐよう、強制することはありませんでした。
私が生まれ育った関東を離れ、九州へ移住することも、決して反対しなかった。そうしたいと、自分で決めたことなら、そうしなさい、と。
後悔しないように、自分が決めた道を、進んでいく・・・。
何の為に移住したのか、やるべきことを、やりたいことを、やるためだったのじゃないのか。父のことを思いながら、この記事を書きながら、そんなことを改めて、思い出しています。その父の想いに応えなかったら、本当に、何の為に移住したのかもわからなくなってしまう。
自分にとって大切なこと、を思い出させてくれたこのnoteのお題にも、感謝しています。
そして、一日も早くこのコロナ禍が収束して、当たり前の日常が戻りますように。