【ショートショート】金輪際(こんりんざい)さん
「金輪際いたしません」が口癖の男がいた。
ある日、奥さんの財布から少々拝借して、後で返そうと思った。ところがすっかり忘れていて奥さんに咎められた。
「すみませんでした。金輪際、黙って取ったりいたしません。許してください」
また別の日には、会社で取引先との会議をすっぽかした。上司にこっぴどく叱られて、
「大変申し訳ございません。金輪際、このようなことのないようにいたします」
呑み屋でぐでんぐでんに酔っ払って、お銚子と徳利を床に落として割ってしまった時も、
「おーやおや、これはこれは。申し訳ございまっせん。金輪際いたしませんから、許してちょ、ねえ、女将!」という調子。
終始こんな具合なので、彼は陰で「金輪際さん」とあだ名された。
ある時、これを知った僧さんが「金輪際」というような言葉を軽々しく使うとは、けしからんやつだと立腹し、ひとつ懲らしめてやろうと考えた。
ある朝、金輪際さんが仕事へ出かけようと玄関を出ると、目の前に大きな穴があった。飛び越えたつもりが、向こう側へは足一つ分足りず、穴の中へ真っ逆さまに落ちた。深い深い穴で途中で気を失ってしまった。
気がつくと、金輪際さんの前には大男が立っていた。
「ここはどこだ?」と金輪際さんが尋ねた。
「金輪の底で水輪との境い目、金輪際だ」
「私はどうしてここに?」
「私はただの門番だ。よくは知らん。何かの懲らしめだろう」
「え?私が何か悪いことでも?」
それっきり大男は口をきいてはくれなかった。
金輪際さんには全く訳がわからなかった。こんな地の底みたいなところに送られるような悪いことはしていない。
それからどのくらいたっただろうか。金輪際さんの前に光が差した。光は言った。
「お前がその者か?」
「あれ、この声はどこから?」
「黙って質問に答えよ。お前がその者か?」
「その者かと問われましても、どの者か…」
「ええい、面倒くさいやつじゃ。ここへ送られた者は、金輪際、元へは戻れん。覚悟せよ」
「えーそんな〜。一生のお願いです。何でもしますから、元に戻して下さい」
「そうか、ではお前が金輪際、「金輪際」と言わんように〈金輪際の舌〉を抜いて、戻してやろう。痛いぞ、我慢せよ」
再び気を失った金輪際さんが目を覚ますと、見慣れた我が家の庭にいた。もう穴はなかった。
まもなく金輪際さんは、もう金輪際さんではなくなった。金輪際と言わなくなったからだ。しかし、人間の本性はそんなにたやすくは変わらないようで、軽々しく許しを乞おうとする態度は相変わらずだった。かつて金輪際さんだった男は今、〈Mr. 一生のお願い〉と揶揄されている。