玄奘、高昌(トルファン)を出る
天井から垂幕が下がっていた。蒼い菩薩像だ。黄金に縁取られている。
ソグド人の胡姫たちが、胡弓が奏でる音色に合わせて、胡旋舞を踊っている。冷えた梨、西瓜、メロン、葡萄などが、皿に積まれて、飾られていた。
ここは西域の高昌(トルファン)、その王城の宴会だ。中華ではない。
玄奘は、麴文泰よりも上席に座らされた。ちょっと居心地が悪い。
「……東方から仏教の僧が、この国に訪れるのは久しぶりです」
高昌王がそう言った。この国には、仏教もあるが、景教など異教も多い。
「……一体どのような教えを説かれているのですか?」
「大乗です。一切衆生救済の教えです」
玄奘がそう答えると、麴文泰は頭を垂れて、教えを請うた。
「……それは素晴らしい!ぜひとも説いて下さい」
どうやら、この国には、小乗仏教しかないようだ。
「分かりました。教えを説きましょう」
それからが大変だった。とにかく新しい教えを聞きたがる。
説法壇に登る時、高昌王が背を丸めて、玄奘の踏み台になる程だった。
厚遇は受け入れたが、一通り教えを説いたら、旅に出るつもりだった。
だが麴文泰は、玄奘にこの国に留まるように執拗に勧めた。
玄奘としては、早く天竺に向かいたい。だがしまいには脅された。
「……師をこれ以上西に向かわせない事だってできる」
その日から、水と食を断った。断食だ。半眼で結跏趺坐する。
「……お坊さん、食べて下さい」
妃が、果(なりもの)を盛った皿を持って来た。
瑞々しい香りと、オアシス特有の清涼感が漂う。
胡風で、エキゾチックな褐色の肌をしている。
若くて美しい妃は、妖艶な微笑みと共に立ち去った。
「……お斎(とき)を召し上がらないのですか?」
傍らに、女の童が現界した。葡萄を一粒、取り上げる。
「……あの女、臭うね。気を付けた方がいい」
猿渡空も現界した。おサルさんの姿ではない。私服姿だ。
ついでに、河童型宇宙人も現界している。同時通訳だ。
「……外に出ない方がいいな。衛兵で固めている」
ブタの💝様はそう言った。お城をぐるっと見てきたらしい。
「様子を見よう。時が来れば、必ず出発できる」
玄奘は半眼から瞑目に移った。眠りまでは断ってはいない。
だがその夜、玄奘は夢を見た。霊夢だ。
その女は若くて、美しかった。
白い肌に、黒い髪をしている。
中華風の服をしどけなく着崩している。半裸だ。
その細い肩幅に合わない、豊かな双丘が覗いていた。
その先端は淡いライチのようだ。白い乳液が垂れる。
「……お坊さん、食べて下さい」
女はそう言って、皿から一粒、葡萄を取り、口に移した。
そのまましな垂れ掛かって来た。口移しで食べさせようとする。
「破!」
玄奘は短く息を吐いた。
夢はたちまち破れて、消え去った。
若い女の薄ら笑いを残して。時刻は朝だった。
「……お坊さん、食べて下さい」
昼、妃が、果(なりもの)を盛った皿を持って来た。
玄奘は半眼を解かず、瞑目した。再び眠りに落ちる。
そこは化粧台が置いてある部屋だった。
妃がいる。褐色だ。瑞々しい胡姫に見える。
だが妃は鏡の前に立つと、突然、胡姫を脱いだ。
首の後ろから、袋のように開いて、胡姫の皮を脱ぎ捨てた。
化物だ。赤黒い肉と白い骨の細身の女の姿が見える。老婆か。
そして化粧台の下から、中華風の女の皮を取り出して、着た。
黒い髪に、白い肌をしている。夢で見たあの女の姿をしている。
……ああ、画皮だったのか。妃は妖魔と入れ替わっている。
玄奘は、妃の正体を見破った。妖怪が妃の皮を着て、人を騙している。
「……ねぇ、お坊さん、女人成仏はできるの?」
妖魔は、こちらを向いていた。鏡に玄奘が映っている。これは不味い。
「……女の悟りはどこ?本当に仏陀は、女は悟れないと言ったの?」
玄奘はそこで目を見開いた。滝のような汗を流している。アレは妖魔だ。
胡姫たちは、踊りながら、歌を歌っていた。
女の悟り、女人成仏がテーマだ。仏陀を非難している。
「……ラーフラ様が哀れ!ヤショーダラー様が可哀想!」
仏陀は出家する時、妻子を捨てた。だがそれは歴史的必然だ。
高昌王は上座に座り、隣に妃がいる。玄奘たちは下座にいた。
孫悟空、猪八戒、沙悟浄の三人が揃っている。女の童もいる。
「……どうしても高昌に留まらないと言うのか?」
麴文泰は言った。目がおかしい。魔に魅入られている。
「仏に誓った。天竺で悟りを得るまで、決して歩みを止めない!」
玄奘は錫杖を床に突いて、チリーンと鳴らした。
音が波紋となって広がり、魔に魅入られた者たちを乱した。
「……お前たち!やっておしまい!」
妃が席から立ち上がって指差すと、衛兵たちが一斉に剣を抜いた。
「……出番だね!」
連続側転からの前宙返りで、敵陣のど真ん中に、孫悟空が降り立つ。
「……出でよ!如意棒!」
棒を出現させると、バトンのように操り、華麗に衛兵を突いた。
その後は、連続バク転をして、元の場所に軽業のように降り立つ。
「……ホント、身が軽い。おサルさんの身体も悪くないね!」
玄奘たちは驚いて見ていたが、誰も倒された訳ではない。
だが如意棒に突かれた衛兵は、下腹部を押えて、その場から退場する。
「……何だ?あいつら?どこに行く?」
猪八戒も、構えていたまぐさを降ろして、衛兵たちを見送った。
「……トイレだよ。これぞ尿意棒!」
孫悟空が得意そうな顔をした。
「……オヤジギャグかよ」
沙悟浄は呆れた。玄奘に通訳はしない。ダジャレは訳せない。
「……ええい!情けない!私がクソ坊主を折伏してやる!」
妃が降りて来た。胡姫たちも続く。妃を両手で盛り立てている。
「……女の悟りも分からない坊主の話は聞き飽きた!」
「悟りに男女の差はない。ただこれ仏道修行あるのみ」
玄奘は半眼で、妃の姿を見た。本物の妃はどこにいるのか?
「……仏道修行なんか要らない!人間、ありのままでいいんだよ!」
「修行論なき教えはこれ仏道にあらず」
玄奘は妃の本当の姿を見通そうとした。暗い瘴気に覆われている。
「……女の悟りは、とうとう仏陀も分からなかった!」
妃は叫んでいた。それにしても、これは一体誰の言葉か?
「……でも私は違う。ほら、こんなに美しいじゃない!美即悟りよ!」
妃は瑞々しい褐色の肌と、宝石のような瞳で視線を投げかける。
「……え?でもそれって、皮一枚の話だよね?」
孫悟空が思わず、突っ込んだ。沙悟浄が必死に同時通訳している。
「……人はありのままが素晴らしくて、尊い!だから修行は要らない!」
「違う。それは偽我(ぎが)だ。努力しようとしない偽ものの自分だ」
玄奘が指摘すると、妃は暴れた。まるで駄々っ子だ。
「……努力?努力なんかしなくても、人は元々尊いのよ!」
「違う。人は努力して、修行をして、悟りを得る。尊くなる」
妃の目に怒りの焔が宿った。
「……努力したって、無駄よ!全然報われないじゃない!」
「違う。善因善果、悪因悪果、縁起の理法は必ず効いている」
玄奘は、もう少しで、妃の闇に覆われた仏性が見えそうだった。
「……昔は私も努力した!でも報われなかった!」
「それは異熟果(いじゅくか)だ。この世だけで因果は完結しない」
だから天国、地獄がある。善悪が分からないと、人は無明に落ちる。
「女よ。悟りを求めるなら、私と来い!共に天竺に行こうぞ!」
玄奘が手を伸ばすと、妃はせせら笑った。
「……天竺?あんな処に行ったって悟れる訳がない」
妃は不意に背を向けると、その場を立ち去った。
高昌王がその場で崩れ落ちた。慌てて猪八戒が支える。
「……我が妃はどこに行った?アレは一体誰だ?私は一体……」
「どうやら魔に魅入られていたようです」
玄奘は麴文泰に言った。正気に返っている。
「……師は恩人です。どうか旅立って下さい。そしてまた来て下さい」
往路で再び、高昌に立ち寄ると、玄奘は約束した
「……あの妖怪BBA、とっちめてやらなくっちゃ!」
孫悟空がそう言った。これが玄奘、高昌を出るだった。
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺041
『玄奘、火焔山を越える』 7/20話 玄奘の旅 以下リンク
『玄奘、西天取経の旅に出る』 玄奘の旅 1/20話 以下リンク
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