玄奘、西天取経の旅に出る
その時、錫杖がチリーンと鳴った。
「……もし、そこの人?」
背嚢(はいのう)を背負った玄奘(注157)は、振り返る。
「……これから旅に出られますか?」
女の童だった。ここは長安、真昼の雑踏の中だ。
「そなたは――」
玄奘は目を細めた。夏の陽射しの下、童に影がなかった。
「――天帝の子か」
風の噂に聞いた事がある。この世ならざる子供、童だ。
「……そうです。道案内するように言われました」
皇城を辞す時、魏徴から遣いの者を送ると言われた。
「それはありがたいが……」
時に西暦629年、玄奘、西天取経の旅に出る。西域求法の旅だ。
「……お坊さんは旅の途中、法難に遭います」
「どのような法難かな?」
玄奘は錫杖を立て、話を聞く姿勢を取った。
「……妖怪に襲われます」
「悪霊、悪魔の類ではなく、妖怪と?」
玄奘が尋ねると、女の童は頷いた。
「……妖怪はどこの土地にもいます。地主、地域神です」
「なるほど、西天取経を邪魔する訳か」
仏法が弘まって困るのは、悪魔だけではない。妖怪もそうだ。
「……はい、ですから私が道案内する事になりました」
「妖怪を避けて通ると?」
「……いえ、それは難しいでしょう。ですから護衛を付けます」
玄奘は少し止まった。独りで行くつもりだったからだ。
「……ああ、心配は要りません。上仙を召喚します」
玄奘は苦笑せざるを得ない。仙人は道教的存在だ。
「神仙であれば、ものも食べないかもしれないが……」
「……いえ、がっつり食べます。法力の源です」
女の童がそう言うと、玄奘は目を丸くした。
「して、その者の名前は何と言うのかな?」
「……斉天大聖(せいてんたいせい)、孫悟空。天蓬元帥(てんぽうげんすい)、猪八戒。捲簾大将(けんれんたいしょう)、沙悟浄の三人です」
どこかで聞いた事がある名前だ。だが西に遊びに行く訳ではない。
「……最初に、この者たちを集める事から旅が始まります」
玄奘は嘆息した。真面目な旅だ。珍道中は勘弁願いたい。
「その者たちは、どこにいるのかな?」
念のために訊いてみると、女の童は驚くべき事を言った。
「……孫悟空は、1400年後からの世界から召喚します」
そんな事が可能なのか?だが女の童は続けた。
「……条件を満たす人が、この時代に召喚されます」
話の雲行きが怪しくなってきた。本当に大丈夫か?
「……これは秘密です。全て歴史の裏側のお話です」
女の童は言った。玄奘は錫杖を握った。
「この事は、他言無用かな?」
「……『大唐西域記』(注158)には、書けないお話です」
聞いた事がない書物だが、気になる。そんな本があるのか?
「……未来の書物です。お坊さんの大旅行記ですよ」
玄奘は笑った。流石に玄牝と言われるだけの事はある。
「この事は御仏も御存知という事でよいかな?」
「……無論です。天帝様から伝わっています」
天帝と仏陀の関係が気になった。どういう間柄か。
「……どちらが上という間柄ではありません」
女の童は少し歩きながら、そう答えた。西の金光門が見える。
「……もしかしたら、同じ存在の別の顔かもしれません」
天上の世界はよく分からない。だが三教は繋がっている。
「御仏がご覧になられていれば、それで十分だ」
玄奘はそう答えた。自分には、果たさなければならない使命がある。
「私は僧だ。これから旅に出る。西天取経の旅だ」
過去五人の僧が挑み、お経を持ち帰っている。だが足りない。
「仏法を護持し、後世に正法を伝えん」
天竺までの旅は、苦難に満ちているだろう。協力者も必要だ。
「だがもし天竺に至らざれば、終に一歩も東帰せず!」
玄奘は長安を出ると、金光門を見上げて、そう宣言した。
後ろから女の童が、ちょこちょことついてきた。
出発前、皇城の一室で、玄奘は魏徴と会っていた。
「……そなたの旅を阻止しようとする動きがある」
こちらに背を向け、魏徴は庭を見ていた。
「その者は誰ですかな?」
「……仏法を嫌う妖怪、地仙だよ」
玄奘は黙って、話の続きを待った。
「……手を打とう。遣いの者を送る。道案内だ」
「独りで行くつもりです」
なるべく少ない人数がよい。大所帯は求法の旅に向かない。
「……邪魔にはならぬ。天竺までの旅は困難を極めるだろう」
玄奘は頷いた。魏徴は振り返ると、こちらを向いた。
「……肉の目に見えぬ敵こそ気をつけろ」
「だから道案内を付けると?その者は心の目が開いている?」
魏徴は頷いた。だが玄奘は言った。
「妖魔、悪魔の類なら多少の心得はあります」
こちらも駆け出しの修行僧ではない。魔との戦闘経験はある。
「それよりも肉の目に見える敵、野盗が心配です」
こちらの方が厄介だ。西域は治安も悪い。隊商に紛れるしかない。
「……陛下は西域の情勢を知りたがっている」
11年後の640年、高昌国は、唐の太宗によって滅ぼされている。
「西域通行の許可はおりませんでしたな」
表向き、玄奘の旅を許していない。安全が保障できないからだ。
「……無事に帰ってきたら、報告を求められるだろう」
「それは構いませんが、仏典の翻訳が先です」
魏徴は、逸る玄奘を見て、微笑んだ。
「……いいか、よく聞け。そなたの旅は、この星の伝説になる」
この星?いや、まだ出発していない。これからの話だ。
「……肉の目で見た大旅行記、心の目で見た大冒険記だ」
玄奘は、ちょっと止まった。魏徴の話がよく分からない。
「……未来の話だ。後世、この二つの書物は多くの人たちの目に触れる」
「旅行記は何となく分かりますが、もう一つの書物とは?」
「……民間の白話、講談の類だよ。西で遊んで記すと書かせる」
冗談が過ぎる。魏徴こそ書かれるべきだ。玄奘は笑いながら言った。
「陛下とのやり取り、聞いておりますぞ。単なる記録では勿体ない」
魏徴は太宗を200回以上、諫めている。常人にできる仕事ではない。
「……ああ、そちらも死後、書物になる」
直諫の魏徴として、令名を馳せた。『貞観政要』だ。只者ではない。
「そうですか」
玄奘はやや気圧された。魏徴は、まるで確定事項のように言っている。
「……そなたは正法を後世に伝えるがよい」
魏徴は、儒教的に見えるが、道教の道士でもある。党派性不明の傑物だ。
「本当に未来が見えるのですか?」
「……さて、それは夜の話になるな。真夜中は別の顔よ」
日中は官吏を務め、夜は魂が肉体を離れ、天上で不滅の役人として働く。
「……そなたはまだ若い。西域求法に一命を懸けよ」
かくして魏徴は、地上では天子を支え、天宮では天帝を支える。
そして玄奘は、西天取経の旅に出る。もう二人が、地上で会う事はない。
玄奘は法相宗の開祖だった。日本の行基(159)は玄奘の孫弟子である。
俗名を陳褘(ちんい)と言い、法名は玄奘。後に玄奘三蔵と贈られる。
三蔵法師とは経、律、論に精通している僧に対して与えられる敬称だ。
インドに辿り着くのに3年かかった。12年滞在し、645年長安に帰った。
約18年の大旅行だった。大量のお経と仏像を持ち帰った。大乗経が多い。
前半生の18年の長旅も凄かったが、後半生の19年の翻訳事業も凄まじい。
玄奘は1,338巻訳し、過去五人の翻訳僧の総量1,222巻を超えていた。
特に『大般若経波羅蜜多経』が600巻だった。これが大きい。
語学の天才で、インドの現地語と古典語の両方を自在に使いこなす。
翻訳事業もそうだが、当時の仏教はその時代最高の人材が投じられた。
高僧と呼ばれる者たちは、洋の東西を問わず、高い語学力がある。
同じ人間かと思うくらい、言語能力で差がある。表現力も高い。
人間とは言葉でできており、悟りも言葉で表現される。お経は命の源だ。
注157 玄奘(げんじょう)(602~664年) 法相宗の開祖 唐→インド→唐
注158 『大唐西域記』玄奘著 646年 唐
注159 行基(ぎょうぎ)(668~749年) 僧
奈良の大仏建立のproject leader 平安
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺036
『パパ活女子大生、孫悟空になる』 玄奘の旅 2/20話 以下リンク
『児童公園の座敷童(日本語・英語・フランス語)』 女の童シリーズ1
1/3話