見出し画像

玄奘、西天取経の旅に出る

【あらすじ】
 タイトルは『玄奘の旅』。全20話。
 629年、唐僧玄奘は、仏典を求めて、長安から天竺に出発する。
 大乗仏教による一切衆生救済のために、梵字原典を手に入れて、新しい漢訳を作らなければならない。そのために、あらゆる苦難を突破する。
 旅のガイドとして、天帝から女の童がつき、旅の護衛として、お釈迦様から孫悟空、猪八戒、沙悟浄がつけられる。だがこの三人は、21世紀から来た者たちで、霊装を授けられていた。
 旅の途中で、人々に法を説き、時には悪魔や妖怪とも戦う。
 そして天竺に辿り着き、仏典を入手して、645年、唐に帰還し、巨大翻訳事業を興す。667年、玄奘は死去するが、意外な結末を迎える。


 その時、錫杖がチリーンと鳴った。
 「……もし、そこの人?」
 背嚢(はいのう)を背負った玄奘(注157)は、振り返る。
 「……これから旅に出られますか?」
 女の童だった。ここは長安、真昼の雑踏の中だ。
 「そなたは――」
 玄奘は目を細めた。夏の陽射しの下、童に影がなかった。
 「――天帝の子か」
 風の噂に聞いた事がある。この世ならざる子供、童だ。
 「……そうです。道案内するように言われました」
 皇城を辞す時、魏徴から遣いの者を送ると言われた。
 「それはありがたいが……」
 時に西暦629年、玄奘、西天取経の旅に出る。西域求法の旅だ。
 「……お坊さんは旅の途中、法難に遭います」
 「どのような法難かな?」
 玄奘は錫杖を立て、話を聞く姿勢を取った。
 「……妖怪に襲われます」
 「悪霊、悪魔の類ではなく、妖怪と?」
 玄奘が尋ねると、女の童は頷いた。
 「……妖怪はどこの土地にもいます。地主、地域神です」
 「なるほど、西天取経を邪魔する訳か」
 仏法が弘まって困るのは、悪魔だけではない。妖怪もそうだ。
 「……はい、ですから私が道案内する事になりました」
 「妖怪を避けて通ると?」
 「……いえ、それは難しいでしょう。ですから護衛を付けます」
 玄奘は少し止まった。独りで行くつもりだったからだ。
 「……ああ、心配は要りません。上仙を召喚します」
 玄奘は苦笑せざるを得ない。仙人は道教的存在だ。
 「神仙であれば、ものも食べないかもしれないが……」
 「……いえ、がっつり食べます。法力の源です」
 女の童がそう言うと、玄奘は目を丸くした。
 「して、その者の名前は何と言うのかな?」
 「……斉天大聖(せいてんたいせい)、孫悟空。天蓬元帥(てんぽうげんすい)、猪八戒。捲簾大将(けんれんたいしょう)、沙悟浄の三人です」
 どこかで聞いた事がある名前だ。だが西に遊びに行く訳ではない。
 「……最初に、この者たちを集める事から旅が始まります」
 玄奘は嘆息した。真面目な旅だ。珍道中は勘弁願いたい。
 「その者たちは、どこにいるのかな?」
 念のために訊いてみると、女の童は驚くべき事を言った。
 「……孫悟空は、1400年後からの世界から召喚します」
 そんな事が可能なのか?だが女の童は続けた。
 「……条件を満たす人が、この時代に召喚されます」
 話の雲行きが怪しくなってきた。本当に大丈夫か?
 「……これは秘密です。全て歴史の裏側のお話です」
 女の童は言った。玄奘は錫杖を握った。
 「この事は、他言無用かな?」
 「……『大唐西域記』(注158)には、書けないお話です」
 聞いた事がない書物だが、気になる。そんな本があるのか?
 「……未来の書物です。お坊さんの大旅行記ですよ」
 玄奘は笑った。流石に玄牝と言われるだけの事はある。
 「この事は御仏も御存知という事でよいかな?」
 「……無論です。天帝様から伝わっています」
 天帝と仏陀の関係が気になった。どういう間柄か。
 「……どちらが上という間柄ではありません」
 女の童は少し歩きながら、そう答えた。西の金光門が見える。
 「……もしかしたら、同じ存在の別の顔かもしれません」
 天上の世界はよく分からない。だが三教は繋がっている。
 「御仏がご覧になられていれば、それで十分だ」
 玄奘はそう答えた。自分には、果たさなければならない使命がある。
 「私は僧だ。これから旅に出る。西天取経の旅だ」
 過去五人の僧が挑み、お経を持ち帰っている。だが足りない。
 「仏法を護持し、後世に正法を伝えん」
 天竺までの旅は、苦難に満ちているだろう。協力者も必要だ。
 「だがもし天竺に至らざれば、終に一歩も東帰せず!」
 玄奘は長安を出ると、金光門を見上げて、そう宣言した。
 後ろから女の童が、ちょこちょことついてきた。
 
 出発前、皇城の一室で、玄奘は魏徴と会っていた。
 「……そなたの旅を阻止しようとする動きがある」
 こちらに背を向け、魏徴は庭を見ていた。
 「その者は誰ですかな?」
 「……仏法を嫌う妖怪、地仙だよ」
 玄奘は黙って、話の続きを待った。
 「……手を打とう。遣いの者を送る。道案内だ」
 「独りで行くつもりです」
 なるべく少ない人数がよい。大所帯は求法の旅に向かない。
 「……邪魔にはならぬ。天竺までの旅は困難を極めるだろう」
 玄奘は頷いた。魏徴は振り返ると、こちらを向いた。
 「……肉の目に見えぬ敵こそ気をつけろ」
 「だから道案内を付けると?その者は心の目が開いている?」
 魏徴は頷いた。だが玄奘は言った。
 「妖魔、悪魔の類なら多少の心得はあります」
 こちらも駆け出しの修行僧ではない。魔との戦闘経験はある。
 「それよりも肉の目に見える敵、野盗が心配です」
 こちらの方が厄介だ。西域は治安も悪い。隊商に紛れるしかない。
 「……陛下は西域の情勢を知りたがっている」
 11年後の640年、高昌国は、唐の太宗によって滅ぼされている。
 「西域通行の許可はおりませんでしたな」
 表向き、玄奘の旅を許していない。安全が保障できないからだ。
 「……無事に帰ってきたら、報告を求められるだろう」
 「それは構いませんが、仏典の翻訳が先です」
 魏徴は、逸る玄奘を見て、微笑んだ。
 「……いいか、よく聞け。そなたの旅は、この星の伝説になる」
 この星?いや、まだ出発していない。これからの話だ。
 「……肉の目で見た大旅行記、心の目で見た大冒険記だ」
 玄奘は、ちょっと止まった。魏徴の話がよく分からない。
 「……未来の話だ。後世、この二つの書物は多くの人たちの目に触れる」
 「旅行記は何となく分かりますが、もう一つの書物とは?」
 「……民間の白話、講談の類だよ。西で遊んで記すと書かせる」
 冗談が過ぎる。魏徴こそ書かれるべきだ。玄奘は笑いながら言った。
 「陛下とのやり取り、聞いておりますぞ。単なる記録では勿体ない」
 魏徴は太宗を200回以上、諫めている。常人にできる仕事ではない。
 「……ああ、そちらも死後、書物になる」
 直諫の魏徴として、令名を馳せた。『貞観政要』だ。只者ではない。
 「そうですか」
 玄奘はやや気圧された。魏徴は、まるで確定事項のように言っている。
 「……そなたは正法を後世に伝えるがよい」
 魏徴は、儒教的に見えるが、道教の道士でもある。党派性不明の傑物だ。
 「本当に未来が見えるのですか?」
 「……さて、それは夜の話になるな。真夜中は別の顔よ」
 日中は官吏を務め、夜は魂が肉体を離れ、天上で不滅の役人として働く。
 「……そなたはまだ若い。西域求法に一命を懸けよ」
 かくして魏徴は、地上では天子を支え、天宮では天帝を支える。
 そして玄奘は、西天取経の旅に出る。もう二人が、地上で会う事はない。
 
 玄奘は法相宗の開祖だった。日本の行基(159)は玄奘の孫弟子である。
 俗名を陳褘(ちんい)と言い、法名は玄奘。後に玄奘三蔵と贈られる。
 三蔵法師とは経、律、論に精通している僧に対して与えられる敬称だ。
 インドに辿り着くのに3年かかった。12年滞在し、645年長安に帰った。
 約18年の大旅行だった。大量のお経と仏像を持ち帰った。大乗経が多い。
 前半生の18年の長旅も凄かったが、後半生の19年の翻訳事業も凄まじい。
 玄奘は1,338巻訳し、過去五人の翻訳僧の総量1,222巻を超えていた。
 特に『大般若経波羅蜜多経』が600巻だった。これが大きい。
 語学の天才で、インドの現地語と古典語の両方を自在に使いこなす。
 翻訳事業もそうだが、当時の仏教はその時代最高の人材が投じられた。
 高僧と呼ばれる者たちは、洋の東西を問わず、高い語学力がある。
 同じ人間かと思うくらい、言語能力で差がある。表現力も高い。
 人間とは言葉でできており、悟りも言葉で表現される。お経は命の源だ。

 注157 玄奘(げんじょう)(602~664年) 法相宗の開祖 唐→インド→唐 
 注158 『大唐西域記』玄奘著 646年 唐
 注159 行基(ぎょうぎ)(668~749年) 僧 
    奈良の大仏建立のproject leader 平安

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺036

『パパ活女子大生、孫悟空になる』 玄奘の旅 2/20話 以下リンク

『児童公園の座敷童(日本語・英語・フランス語)』 女の童シリーズ1
1/3話


いいなと思ったら応援しよう!