ギリシャ悲劇テミストクレース
「神命である。必ず勝て。決して負けてはならぬ」
そのヘルメス神像は、目のサファイアが煌々と輝いていた。
「万が一、汝が敗ければ、西洋二千年の歴史が大きく変わる」
神像の前で跪くテミストクレースは、静かに顔を上げた。
「……それはどんな手を使っても、勝てという事か?」
その名も無きダイモーンは答えなかった。だが沈黙もまた答えだ。
「……それは運命の見返りと釣り合わない。アナンケーに追われる」
テミストクレースがそう呟くと、ダイモーンは言った。
「その時は、神々も涙しよう」
「……分かった。どんな手を使ってもペルシアに勝とう」
アテナイのテミストクレースは、絶対に負けられない戦いに乗り出した。
紀元前480年春、王の中の王クセルクセスはヘラスを侵略した。ペルシア戦争だ。テッサロニケーで目撃されたその大軍に、どのポリスも震え上がった。テーバイとマケドニアはペルシア側に付いた。だがここに、敢然と立ち上がったポリスがあった。スパルタだ。
当時、スパルタは嫌われていた。ポリスの体制が独特かつ異様で、他の都市国家と大きく異なっていたからだ。スパルタ式なんて言葉もある。だから、現代の軍事独裁国家か、冷戦期のソ連のように恐れられていたが、この時ほど、スパルタが頼もしいと思われた事はない。
紀元前480年8月、スパルタ王は300人の戦士を率いて、テルモピュライの狭い峠道で戦った。そしてペルシアの大軍を3日間食い止め、全滅した。だが大王の子を二人も仕留めた。
このラケダイモン300人の勇気は、ヘラスを奮い立たせた。レオニダスは英霊となった。
戦略的にはペルシアの勝利は揺るがないが、ヘラスは象徴的な勝利を納めた。心理的には敗けていないという気概であり、スパルタに続けという掛け声だ。ヘレーネスは燃え上がった。
紀元前480年9月、サラミスの海戦が始まった。
テミストクレースの作戦は決まっていた。テルモピュライの戦いは、狭い地峡で戦った。だからサラミスの海戦も狭い海峡で戦う。これは典型的な寡戦(かせん)だ。だがテミストクレースは、ヘラス連合艦隊の総司令官ではない。スパルタのエウリュビアデスが総司令官だ。
「サラミスで決戦をしないなら、アテナイ艦隊はイタリアに行く」
「……それは脅しか?」
両者は会議の席上、睨み合った。
だがテミストクレースはペルシアにも使者を出していた。
「ヘラス連合艦隊は内輪もめしている。王の中の王よ。叩くなら今だ」
クセルクセスはこの言葉を信じた。
だからペルシア艦隊を出動させた。包囲する。
「……テミストクレースよ。我が艦隊はペルシア軍に包囲されている」
陶片追放から帰還したばかりの政敵アリステイデースが、そう報告した。だが会議は容易に信じず、テノス人による二度目の報告で、ようやく信じた。こうなるとサラミスで戦うしかない。テミストクレースは、人を追い込むのが上手い。無論、ダメ押しも忘れない。神託だ。
「もしヘレーネスが敗れるなら、デルフォイの神託も、聖なるサラミスと言わない!」
午前中シロッコが吹く事を知っていた。狭い海峡で、追い風で戦う。勝利しかない。テミストクレースは勝利者となった。ヘラスの英雄だ。だがペルシアに使者を送る事も忘れない。
「王の中の王よ。今のうちにお逃げ下さい。私が追撃を阻みますので」
これは一石二鳥だ。敵に恩を売りつつ、敵を退散させる。
実は追撃など不可能だった。
話は10年前に遡る。紀元前490年9月、マラトンの戦いがあった。アテナイの重装歩兵が戦場の華だった。戦いの勝利を知らせる使者は、オリンピックのマラソンの起源になった。
プルタルコスは、マラトンの戦いに参加せず、外から見ていた者として、この戦いの勝利でペルシア戦争は終わらず、むしろこれからだと考えた点で、テミストクレースを評価している。
ある時、マロネイア鉱山で、新しい鉱脈が見つかった。通常であれば、アテナイ市民に売上が配布される。だがテミストクレースは、三段櫂船建造の資金に充てたいと主張した。表向き当時交戦中だったアイギナのためだが、本当の仮想敵国はペルシアだった。提案は通った。
この三段櫂船建造決議は、西洋文明の運命を決した。もしこの提案が通らなければ、サラミスの勝利はない。そうなれば、ローマはあっても、ギリシャは、西洋文明から消えていた。
当時のアテナイ市民は35,000人と言われている。三段櫂船100隻であれば、20,000人必要だ。200隻であれば、40,000人必要だ。5,000人足りない。メトイコイ(在住外国人)で補ったのだろう。これは上級市民も下層市民も、船の漕ぎ手として、求められる事になる。
特にマラトンの戦いで、重装歩兵として、戦った者には勝利者としての矜持があり、マラトーノマカイ(マラトンの戦士)と呼ばれていたが、彼らは海軍の三段櫂船の漕ぎ手になる事を拒んだ。上級市民として、下層市民と肩を並べて、船を漕ぐ事はプライドが許さなかった。
マラトンの戦いの勝利者、アリステイデースもいた。正義の人と言われる公正な人で、その人格は高く評価されていた。マラトーノマカイの代表者であり、彼らから絶大な支持を受けて、アテナイ政界に君臨していた。当然、陸戦が全てである。海戦なんて邪道扱いだった。
だがテミストクレースは、オストラキスモス(陶片追放)に目を付けて、なんとアリステイデースをアテナイから追放してしまった。僭主になるかもしれないと人々を煽動した。
そしてテミストクレースは、デルフォイの神託を二度も求め、アテナイ人を対ペルシア決戦しか、生き筋がないと分からせた。一回目の「木の砦」とは、三段櫂船を意味し、二回目の「聖なるサラミス」という文言では、アテナイの勝利を予言した。見事な?解釈である。
エーゲ海は紺碧で美しい。磯の香りはしない。まるで淡水のようだ。透明度が高く、プランクトンが少ない。だから魚も少ない。エーゲ海は漁場というよりは、海の交通路だった。
穀物は黒海沿岸から運んでいた。今のウクライナの穀倉地帯からだ。アテナイの土地は痩せていて、葡萄やオリーブくらいしか作れない。だから酒や油に加工して、売っていた。
外港ペイライエウスはアテナイにとって生命線だった。だが距離が離れている。だからテミストクレースは、回廊に城壁を建設する事を提案し、アルコン就任を目指した。城壁はペリクレスの時代に完成し、アテナイ海上帝国の礎になるが、ペルシア戦争の時はまだそうではない。
テミストクレースの先見性は高いが、理解されなかった。だが壁を建設する事に執念を燃やした。紀元前493年、エポニュモス・アルコンに就任して建設に取り掛かる。そしてアテナイの中心を、ペイライエウスに移そうとした。経済的な理由だけではない。防衛的な理由だ。
そこで、テミストクレースは一計を案じた。フリュニコスの悲劇『ミレトスの陥落』を何度も上演させて、アテナイ人にペルシア人の恐怖とアテナイ防衛の必要性を分からせようとした。
だが城壁も間に合わなければ、アテナイの中心を、ペイライエウスに移す事も反対された。故にテミストクレースは、ペルシア軍が迫ると、思い切って、アテナイを放棄した。女子供を舟に乗せて、別の島に避難させ、外国人居住者男子も壮年男子も、全て三段櫂船に乗せた。
アクロポリスが燃え上がるのを見て、船上のアテナイ人たちは絶望した。
「アテナイ人諸君、何を嘆いている。今、諸君は船の上にいる。ここがアテナイだ!」
テミストクレースがそう言うと、戦える全てのアテナイ人たちは覚悟を決めた。彼は人を追い込むのが上手い。アテナイ人も、スパルタ人も、ペルシア人も、全て彼の手の内で踊った。
サラミスの海戦が始まると、三段櫂船の舳先に、艦の娘が立つ姿が、それぞれ目撃された。ヘロドトスも台詞付きで『歴史』に叙述している。当時は霊が見える者も多数いた。
海戦に勝利すると、論功が始まるが、テミストクレースは、ある三段櫂船の活躍を取り上げて、乗員200名の名前を皆の前で読み上げた。無論、空である。200名全て暗記している。
テミストクレースは、論功の場になると、必ず名前を読み上げた。これは彼の癖だ。
だがアテナイ人の反応は冷たかった。逆に僭主になるかもしれないと警戒し、戦後テミストクレースを冷遇した。あの時代、アテナイに生きた者なら分かると思うが、アテナイ人はとにかく猜疑心が強かった。だからテミストクレースは不満を抱き、すぐにスパルタに行った。
アテナイの使節として、スパルタに赴いたが、国賓待遇であり、サラミスの勝利者として遇された。これは戦士・英雄を重んじるスパルタの気風だろう。テミストクレースは、帰国の途に就く時、300人のスパルタの戦士が国境まで同行し、見送りに立った。異例の厚遇だった。
この話はアテナイに悪く伝わった。スパルタに通じていると思われた。実際、テミストクレースはスパルタ王パウサニアスと通じていたし、もっと言うなら、ペルシアとも通じていた。自分と利害が敵対する相手こそ、対話すべしというのがテミストクレースの真骨頂だからだ。
紀元前476年、オリンピア競技会が開かれた時、テミストクレースがスタディオンに入ると、全ギリシャのポリスの代表たちが立ち上り、観客はスタンディングオベーションで迎えた。
紛れもなく、テミストクレースはヘラスの英雄だった。並び立つ者はいない。空前絶後の名声を得ていた。人生最良の時だったかもしれない。流石のテミストクレースも涙ぐんだ。
だが同年、フリュニコスの悲劇『フェニキアの女たち』というサラミスの海戦をテーマにした劇の後援者を務めた後、アテナイからオストラキスモス(陶片追放)を喰らった。
「おお、アナンケーよ。今この時に来るのか!」
テミストクレースはアテナイを追われた。そして二度と祖国の土を踏まなかった。
それから後の足跡は、アルゴスから始まる。この時期、アルゴスは民主制に移行しつつあった。テミストクレースはそこに好感を抱いたのかもしれない。だがスパルタはそれをよしとしなかった。折しも、スパルタ王パウサニアスのペルシア内通が露呈していた。
スパルタは、アテナイに連絡し、テミストクレースを引き渡すように要求した。パウサニアスから、ペルシア内通の件が漏れた可能性がある。少なくとも、疑っていた。
だがテミストクレースは、基本的にアテナイに利する行動を取り続けていた。いつか帰還する事を考えていたし、何よりも同胞の名声と名誉を重んじたからだ。と同時に、敵対者とも対話を続け、好意を得られるなら、得ようと努めた。これは亡命など、万が一の時の保険だ。
だがこの行動は、同時代人には受け入れ難い。理解されなかったばかりか、利敵行為と映り、テミストクレースは評判を落とし、以降は完全に逃避行になってしまう。
やむを得なかった。もうヘラスに身の置き所がない。ペルシアに亡命した。この敵地に亡命するギリシャ人は以前からいた。ペルシア側も有力な者であれば、受け入れた。だがアテナイからの執拗な追跡を躱しながらの逃避行には、並ならぬ情報戦があった筈である。
だがテミストクレースには、味方も多く、同行者もいた。ペルシア亡命は成功した。クセルクセスと手紙で仲良くしていた事が功を奏した。だが会うのは避けた。一年間、イオニアの地でペルシア語を学んでから、首都スーサに行くと伝えた。
アルタクセルクセスに代わってから、テミストクレースは、王の中の王に会った。
イオニアのマグネシアがテミストクレース終焉の地である。だがアルタクセルクセスから、ギリシャ遠征の先鋒の将になれと命じられた。テミストクレースは死を選んだ。祖国に弓弾く事はできない。
最期に死の床で、ホメーロス『イーリアス』冒頭を歌った。
「Μῆνιν ἄειδε, θεά, Πηληιάδεω Ἀχιλῆος οὐλομένην!」
(メーニン アエイデ テアー ペーレーイアデオー アキレーオース ウーロメネーン!)
(怒りを歌え、女神よ。ペーレウスの息子アキレウスの呪われた怒りを!)
ああ、アナンケー。テミストクレースよ。君の功績は永遠に忘れない。
これがギリシャ悲劇テミストクレースだった。それは一個の芸術だった。
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺061
ギリシャ・ローマ編 政治家編 2/5
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