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雪風は語る

 その学校の庭には、船の錨が展示されていた。
 大きい。旧帝国海軍駆逐艦「雪風」のそれだった。
 白砂が撒かれ、岩礁のような自然石に錨が立て掛けられている。
 周りは円形に区切られて、そこだけ海に囲まれた絶海の孤島のようだった。
 呉の江田島の旧海軍兵学校の庭だった。
 その日は8月15日だった。
 お昼頃、人気が途絶える時間があった。
 南天が眩しく、蝉時雨が賑やかに降り注ぐ。
 いつしか、少女が座っていた。
 黒髪で短く、瞳は明るい。帽子を被り、紺のセーラー服を着ている。夏服だ。
 人ではなかった。薄っすら透けて見える。だが嫌な感じはしない。
 幽霊でもなかった。もっと別の何かだ。
 「昔、戦があったのよ」
 雪風は語った。
 「それは大変な大戦(おおいくさ)で、大勢の人が亡くなった」
 周囲にセピア色の人影が集まって、話を聞いていた。姿はよく見えない。
 「でも大切な思い出。私は語りたい」
 雪風は語る。坊ノ岬沖での戦いを。レイテ沖海戦を。ガダルカナル島撤退作戦を。戦後の復員活動を。そして台湾に移籍してから海軍旗艦「丹陽」となった日々を。全95回の任務を。
 ――ガダルカナル島撤収作戦の時、陸軍を救援する艦の選定で揉めた。
 海軍はこれ以上、汎用艦である駆逐艦の損耗を嫌い、代わりに小型艇を出すと言った。
 陸軍は怒り、海軍との合同会議は平行線を辿った。水雷戦隊の艦長たちも黙っていた。
 それを見た雪風は言った。
 「「駆逐艦でやるべき」」
 雪風の菅間艦長がそう発言すると、他の駆逐艦の艦長たちも賛同した。
 作戦は予定通り駆逐艦で決行され、陸軍撤退の支援に成功した。
 ――あれはレイテ沖海戦の時だった。
 作戦中、海上に漂う救命ボートとすれ違った。米兵たちが見える。
 すぐに艦上の班員たちが九六式二十五粍機銃を回して、撃ち方を始める。
 それを見た雪風は叫んだ。
 「「撃つな!」」
 雪風の寺内艦長の命令が届き、すぐに機銃掃射は止まった。
 思わず身を屈めた米兵たちは驚いていた。将校らしき人物が一人立ち上がる。
 雪風は、救命ボートに向かって、敬礼した。
 ボートに乗る米駆逐艦の艦長は、雪風の艦橋で敬礼する海軍将校の姿を見て涙した。
 ――坊ノ岬沖海戦の時、沖縄特攻を鑑み、班員たちは第一煙突に菊水を描こうとした。
 それを見た雪風は言った。
 「「いつも通りでいい」」
 雪風の寺内艦長の命令が届き、雪風だけ駆逐艦の煙突に菊水が描かれなかった。
 また家族への最後の手紙とか、遺品を残す事も禁じた。異議を唱える者はいなかった。
 ――戦後の復員活動では、艦内で「雪風新聞」「雪風楽団」を結成した。
 外地から内地に帰って行く兵隊さんをせっせと運んだ。
 艦内で新聞を回し、みんなで歌を歌った。復員者歓迎の歌だ。
 ある時、満洲からの復員者で、妊婦さんがいた。子供が生まれた。
 それを見た雪風は命名した。
 「「博雪」」
 雪風の佐藤艦長が艦内で生まれた男の子を名付けた。艦が博多に向かっていたらしい。
 また女の子が二人生まれた事があった。それを見た雪風は命名した。
 「「雪子、波子」」
 ――大和特攻の坊ノ岬沖海戦で、雪風の食糧庫に米軍のロケット弾が命中した事があった。
 だが爆発しない。野菜の山に刺さったままだ。多少の野菜がダメになった。
 坊ノ岬沖海戦で、雪風が被弾した弾はこれだけだった。
 そして雪風に命中した弾は、なぜかいつも不活性化して、火薬が爆発しなかった。
 これは台湾移籍後の丹陽の時もそうだった。台湾の兵たちは艦上で弾を拾いさえした。
 雪風は傷つかなかった。ただ一度だけ、まともに被弾した事があった。
 砲弾を受けて、艦が小破したが、それは戦艦「比叡」の副砲だった。
 味方の誤射だった。あとは不発弾か、機銃しか受けていない。戦死者は驚くほど少ない。
 全く被害を受けない幸運艦だった。幸運の女神が座していると兵たちに噂された。
 この幸運は台湾に移籍してからも続き、全く被弾しなかったので、台湾海軍も驚かせた。
 大和撃沈後、坊ノ岬沖で救助された兵が「雪風様」と言い、もう助かったと艦上で気を抜いて安心して、死に掛けた時、それを見た雪風は「「甘えるな!」」と一喝した。班員に怒鳴られたその兵は慌てて蘇った。雪風はたとえ単艦でも、まだ沖縄に特攻するつもりだった。
 「「いかがせらるるや」」
 雪風は駆逐艦「冬月」に信号を送った。冬月は動かない。
 「「いかがせらるるや」」
 雪風の寺内艦長は再度、冬月の吉田司令に信号を送った。
 作戦中止、救助を行い帰投と吉田司令から命令が出ると、雪風は全力で人命救助した。
 戦艦「大和」が沈み、第二水雷戦隊の旗艦「矢矧」も沈んでいた。被害は甚大だった。
 小破・中破した駆逐艦数隻が生き残り、雪風だけが元気に、海域を走り回っていた。
 雪風はおかしな船だった。人が作った船なのに、なぜか人知を超えていた。
 明らかに雪風には、個性があった。乗組員はその影響を受けて、お人が変わる。雪風の乗組員になると、元気がなかった人が元気になり、やる気が出なかった人がやる気を出す。
 まるで魔法が掛かったかのように戦う。その動きからして他の艦と違うと言われた。
 雪風は全ての戦闘を通して、単艦戦闘で負けた事がない。
 常に被害を受けず、常に敵に損害を与えていた。雪風は常に勝利していた。
 雪風は単艦としては無敵で、戦いに負けた気が一切していない。
 太平洋戦争を通じて、こういう戦績で終戦まで、高い士気を維持した部隊は少ない。
 「どんな時も決して諦めない事。それが雪風の精神、雪風の心」
 雪風は語る。
 ――運命の坊ノ岬沖で、駆逐艦「雪風」は、前例のない操艦方法で敵弾を潜り抜けた。
 寺内艦長は、艦橋の天窓を開け、身を乗り出し、両足を雪風の操舵手の両肩に置いた。
 米海軍雷撃機アヴェンジャーが降下し、雪風に魚雷を撃って来た。
 空を監視していた雪風は、寺内艦長に注意を促す。
 「「おもぉぉかぁじ!」」
 寺内艦長は操舵手の右肩を蹴った。面舵を切る。
 艦はかつてない反射速度で反応して、魚雷を躱す。
 雪風と艦長と操舵手が、完全に一体となった信じられない操艦だった。
 古今東西、海戦史上、これほど見事な操艦をした艦はないかもしれない。
 雪風は完全に独自の境地に入っていた。空前絶後だ。
 米海軍爆撃機ヘルダイヴァーが直上から、雪風に急降下爆撃を仕掛けて来た。
 いかに雪風が速いと言っても、飛行機と船では速度が違う。
 直上からの急降下爆撃は、取られたら最期、艦が躱せる筈がなかった。
 だが雪風は鋭く寺内艦長に指差す。
 「「とぉぉりかぁじ!」」
 寺内艦長は操舵手の左肩を蹴った。取舵を切る。
 1000ポンド爆弾が外れて、雪風の右舷で大きな水柱を上げる。
 躱していた。信じられなかった。
 ヘルダイヴァーは、大戦初期から急降下爆撃機として運用されている。
 それだけに、米兵にもベテラン・パイロットが多く、新兵等下手なパイロットは少ない。
 これには米海軍攻撃隊も色めき立った。なぜ駆逐艦如きが航空機の攻撃をかくも躱す?
 それから単機での攻撃はなくなった。編隊を組んで組織的に襲い掛かってきた。
 それを見た雪風は叫んだ。
 「「大和の分も引き受ける!」」
 寺内艦長は号令した。一機でも多く雪風で引き付けて、大和を沖縄に行かせる。沖縄特攻だ。
 断っておくが、雪風は冬月のような防空駆逐艦ではない。対空装備も大した事はない。
 だが太平洋戦争を通じて、最も米艦載機を撃墜した駆逐艦の一つだと思われる。
 この頃の米海軍航空隊は、練度重視の大戦初期の帝国海軍の一航戦や二航戦の対艦攻撃とは異なったやり方で、敵艦を撃沈するやり方を編み出していた。
 大和のような大型艦には、片舷だけを集中攻撃。雪風のような小型艦には、蝟集して全方面から集中攻撃。数に任せたやり方だったが、それだけに死角がなく、完璧だった。
 雪風は、アヴェンジャーとヘルダイヴァーの編隊に交互に襲われた。
 わざわざ雪風のために、臨時の攻撃隊が編成され、全方位を塞ぎに掛かってきた。
 それでも雪風は、アヴェンジャーの魚雷を躱し続ける。
 ヘルダイヴァーの急降下爆撃を躱し続ける。限界が近い。
 正確な数は分からないが、この時もしかしたら雪風は世界一、敵弾を躱した駆逐艦かも知れなかった。そしてとうとう全ての逃げ道が塞がれた。魚雷接近。この角度はもう躱せない。
 それを見て雪風は叫んだ。
 「「島風よりも早く!」」
 駆逐艦が全速力で海の白波を蹴る。波に乗る。速度は40ノットを超えた。
 「「飛べ!」」
 その時、雪風は一瞬、飛魚のように海面の上を跳ねていた。
 アヴェンジャーの魚雷が、雪風の艦底の下を通り抜けた。
 躱していた!在り得なかった。これには米海軍も呆れて、雪風撃沈を諦めて、大和や矢矧に向かって行った。雪風は最後まで勇戦した。坊ノ岬沖海戦でも雪風は負けなかった。
 だが雪風は悔しかった。大和を沖縄まで行かせたかった。あれは日本の心が乗っていた。
 雪風は、何度も何度も戦った。味方の旗艦がやられて、雪風が艦隊中将旗を掲げた事は一体何回あるだろう。こんな小さな船なのに。口のさがない者たちは、雪風を死神と呼んだ。
 だがそれは戦後の話だ。戦時中にそんな話は一切ない。雪風は女神だ。戦の女神だ。
 台湾の人たちも、丹陽に道教の娘娘(にゃんにゃん)、九天幻女をイメージした。
 雪風に戦争の是非は分からない。だがやる事は全部やった。生き抜いた。
 艦の娘、雪風が語り終わると、8月15日は過ぎていた。夏の大空が広がる。
 セピア色の人影たちは溶けて消え、若返り、幼い子供となって、消えて行った。
 
          『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード26

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