ドメスティック・バイオレンス
その妻は旦那に殴られていた。
飯が不味いと言っては殴られ、返事が遅いと言っては殴られていた。
旦那はいつも何かに怒っていて、昼間から酒を呑んでいた。
妻は何も悪くなかった。何も悪い事はしていない。
二人の間に子供はいなかった。農作業は、いつも妻がやっていた。
村では隣人からの軋轢も酷かった。大事な田んぼに嫌がらせを受けた事も数限りない。
妻は顔の形が変わる程、旦那から殴られていたが、誰も助けなかった。
別に村八分とか、冷たかったからではない。飢饉が迫っていたからだ。それは周期的に繰り返される。そんな状況では、よその家の問題に首を突っ込む者は誰もいなかった。
みんな、生存競争に必死だった。だがその妻は、めげていなかった。
もしかしたら、殴られ過ぎて、頭のネジが飛んでしまったのかも知れない。
痛みくらいは感じたが、いつも嵐が過ぎ去るのを待つ事にしていた。
彼女はまだ20代の筈だったが、もう老婆のようになっていた。哀れだった。
離婚もできる状況ではなかった。生存に関わる。実家は死に絶え、退路はない。この状況下での離婚は死に直結する。そういう世界だった。無論、彼女は何も悪くない。普通だ。
今日もその妻は、早朝から田んぼに出て、農作業に精を出していた。
その様子を黙って見ていた北極星の天帝は、顔をむっつりさせていた。抱えている業務の合間に、官吏を呼び、この夫婦に関する資料を提出させる。天帝は忙しかった。無限の時間、無限の力がある。だが忙しい。地上に人間が増え過ぎたからだ。
北極星の天宮には、無数の官吏たちがいるが、人手が足りなかった。
最近は地上で起きる問題に対処するため、数多くの官吏たちを地上に送っている。だがちゃんと帰って来ない行方不明者も続出していた。そのため天宮は慢性的に人手不足だった。
本来であれば、天帝は決済だけやっていれば良かったのだが、あまりに地上に人が増え過ぎた結果、天帝まで下級官吏のように、直接人々の管理担当者になっていた。
最初は上級官吏の役職を一つ兼任するだけでよかったのだが、なし崩し的に、中級官吏、下級官吏の役職も兼任する事になり、天界で最上位の決済者である筈なのに、今では最下級の官吏のように働いていた。とにかく無限の時間があっても、対処しきれない。忙しい。
だが天帝は、最高の能力を持っていたので、業務を回し続ける事ができた。
全知全能は伊達ではない。
「だからエクセルで資料を提出するなと言っておるだろう」
天帝はイライラしながら、エクセルの資料を開いた。官吏は恐縮している。
その下級官吏は、また性懲りもなくエクセルで資料を提出していた。
最近、この官吏は地上に生まれてITを身に付けて帰って来た。
ちゃんと帰って来ただけましだったが、小賢しい技術で、業務を余計に複雑にした。
「すぐバージョンが合わなくなるし、朕のシステムに取り込むのが手間だ」
天帝は目を動かすだけで、ざっと資料を並べて、無限遠点にまで展開した。
物凄い数のドキュメントが、全360度に展開され、綺麗に重なって、目録が見えるように配置されている。重要案件や早く片付けなければならない資料は全て手前に置いてある。
「……あの旦那が妻を殴った回数は記録しておるな」
「はい、1785回となります」
天帝は顔を顰めた。そんなに殴っているのか。けしからん。資料を見る。
エクセルの関数が、旦那のドメスティック・バイオレンスの回数を計測していた。
「これでは回数しかカウントできていないではないか。分析ができん」
天帝は下級官吏にダメ出しをすると、資料の再提出を求めた。
ホントは自分で作成した方が早いのだが、これも組織の人材育成だと思っている。
天帝は夫婦のログを見ていた。全発言、全行動、その時、心の中で思った事まで吹き出しでポップアップするように出来ている。こういう資料作りは得意だ。だが天帝の仕事ではない。
「あの妻の飯は本当に不味いのか?」
天帝は、料理長である灶神(ザォシェン)を呼ぶと、下問した。
「……いえ、あの状況では、誰が作っても変わらないと思います」
今、地上の食糧事情は極めて悪い。実はそちらの方が遥かに大問題だったが、管理担当者として、この夫婦の行く末も見なければならない。問題は解決しなければならない。
天帝は次にあの夫婦の婚約に関する資料を見た。そもそも何であの二人は結婚しているのか。そこから見ないといけない。資料を読んで行くと、子供が生まれる予定が書かれていた。
「この夫婦の子供はどうなっている?」
地上の様子を見る限り、この夫婦に子供どころか、生まれる兆候さえない。
「……生まれる予定だった子供たちは全て他の家庭に行きました」
下級官吏の一人がそう答えると、天帝はますます不機嫌になった。
「なぜだ。子供が生まれれば、少しは状況が変わるかもしれないのに」
「……あんな暴力的な家庭は嫌だそうです」
天帝は嘆かわしいと思った。どいつもこいつも自分の事しか考えていない。
「ええい、朕があの夫婦の子として生まれて、この問題を解決してくれるわ!」
業務が忙し過ぎて、天帝はちょっと乱心していたかもしれない。
天宮の官吏たちが慌てて諫める。だが天帝は憤懣やるかたない感じだった。
「今この中で誰が一番偉い?」
天帝は宮廷に並ぶ群臣たちを見て言った。みんなこっちを見ている。
「こっち見んな。一番偉いのはあの妻だ。夫婦の約束を違えず、業務に邁進している」
宮廷の中空に妻が田植えしている姿が映し出された。家に帰るとまた殴られる。
「朕は嘆かわしい。この程度の問題も解決できなくて、何が天帝か!日々、不条理に耐えて働く姿を見ると涙を禁じえん。そして朕も負けておれんと泰山の如き業務に立ち向かえる」
天帝は滂沱の涙を流していた。並み居る群臣たちはみな神妙な顔をしている。
「……あの、直接ここに呼んで、あの夫婦に御下問されては如何でしょうか?」
「朕に夫婦喧嘩の仲裁をせよと?」
天帝はその官吏を睨んだ。天帝の仕事ではない。
「これは家庭内暴力です。深刻です」
また別の官吏もそう言った。そう思うなら、少しは働いたらどうか。
「……よかろう。支度せい」
地上が夜になると、まず寝ていた旦那から北極星の天宮に召喚された。
「なぜ妻を殴る?次殴ったら人間降格じゃからな」
その旦那は、ただただ簾から射す天帝の威光に畏怖していた。五体投地して謝罪する。
「……恐れながら申し上げます。人間降格とは何でありましょうか」
「何?そんな事も分からんのか。今すぐ降格じゃ!鳥獣になれい!」
周りの官吏たちが慌てて、天帝を止めた。天帝はちょっと休んだ方がいい。
「……よいな。妻を殴るんじゃない。ゆめゆめ忘れるなよ」
天帝はさっさと旦那を地上に帰すと、今度は妻を呼んだ。
「そなたを見ると、いつも心が痛む。大丈夫か?」
その妻は最初、ポカンとしていた。ここがどこだかよく分かっていないようだった。
「……もしかして、昔の天子様でいらっしゃいますか?」
地上のそれと勘違いしているようだが、今はどうでもいい。
「如何にも。朕がそうじゃ。望みを言え。問題があれば解決してみせよう」
天帝は言った。だがその妻は暫く考えてから言った。
「……いえ、特にありません」
「そうか?遠慮しなくてよいのだぞ?何でも言ってみよ」
天帝が優しくそう言うと、その妻は答えた。
「では昔、無くしてしまった簪(かんざし)を下さい」
妻がそう言うと、天帝は右手に簪を出現させた。官吏が皿で受けて、妻に渡す。その女は喜んで簪を髪に差した。これは旦那から貰った思い出の品だ。大切にしたい。
天帝は黙ってその様子を見ていた。これは妻にとって、夢でしかない。目を覚まして地上に戻ったら、無くしてしまった簪が出て来る訳でもない。全てこの場限りの夢だ。
天帝は、運命を起動させると、この女の遠い過去から、遠い未来まで見通した。
金太郎飴みたいに似たようなシーンが去来する。変わらない。変わらないのだ。時代が変わっても、国が変わっても、言葉が変わっても、同じだった。いつも傍らにはあの旦那がいる。
必ずしも、いつも殴られてばかりではないようだったが、全体としてはそういう事が多い。だが時々、立場が入れ替わって、逆襲もしていた。ごくまれに男女が入れ替わる事もある。
そして幸せもあった。傍から見てそう見える。だが本当にそうなのか分からない。この問題に解決が付かない事は、この女にもとうに分かっているようにも見えた。だから毎日、殴られてもペースを乱さず、不条理に耐えているのかもしれない。個々の生の記憶がないにも係わらず、毎回ずっと同じように振る舞っている。記憶は関係なかった。これは個性だった。
天帝にも、この不条理の永久運動を止めてよいものなのかどうか、判断が付かなかった。
できる事は、頭の片隅に留めて、時々どうなったのか様子を見る事だけだろう。
天帝は、いつでもすぐにこの女を見れるようにブックマークを張って、運命を閉じた。
その妻は髪に簪を差して、嬉しそうな様子を見せながら、姿を消して行った。
「……車を持て。少し遠出する」
天帝は業務を切り上げると、並みいる群臣に告げた。
どうせ時間は無限にあるのだ。少しぐらい中座しても問題ない。
天駆ける車で、天界で風光明媚な場所に止まると、天帝は四阿(あずまや)を展開して、小さな酒宴を張った。女官たちが舞を舞い、歌を奏で、大うちわを扇いだ。
天帝は白酒の杯を傾けると思った。
不幸とは何か?
不幸、不幸、不幸、幸福、不幸、不幸、不幸、幸福、不幸、不幸……。
あの女はそう言った流れの中で生きている。止める事ができない。
憎んでいるのか、愛しているのか、よく分からない。ただ流転している。
天帝は杯を傾ける。視線を転じて、遥か下の方を眺めた。
長城があり、人々が働いている。煉瓦を積み上げている。止める事はできない。
一応、作っている理由はあるが、それはあって、ないようなものだ。でも全てそうではないか?人には役割があって、それを果たす。それだけだ。偉いとか偉くないとか関係ない。
だが善悪はある。それは間違いないので、判断して行かないといけない。業務だ。
朝、その女は目覚めると、一回だけ髪に手をやってから、妻となり、農作業に出た。
旦那はまた朝から吞んだくれている。だが少しだけ妻を殴る手を止めていた。
夢の効果があるのは少しの間だけだ。そのうちいつもの状態に戻る。
天帝はまだ業務を再開する気になれなかった。もう少しだけ様子を見ようと思った。
本人たちに変化の兆しがあるかも知れないと思ったからだ。
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード23