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パン1斤5,000円、ハイパーインフレの世界、東京

 その食パンは8枚入りで、1斤5,000円だった。
 マスク姿の若いOLは、近所のドラッグストアで、目を瞬いた。
 ちょっと前に、スーパーでタマゴ4個パック、2,000円というのを見かけて、買わないでスルーしたが、これは一体何だ?その若いOLは首を傾げた。食パンが1斤5,000円?
 もう一回見直したが、やはり値段は変わらない。5,000円だ。別に高級食パンとかじゃない。98円で売っていた奴だ。朝とかによく食べる。それが今5,000円?
 お財布を見た。新しい5,000円札がある。新紙幣だ。ツダウメコ?とか言うらしい。女子?
 ふいに横から手が伸びて来て、ある主婦がその食パンを買って行った。何の迷いもなかった。彼女はお金持ちなのか?いや、彼女の買い物カゴには、殆どアイテムが入っていない。
 若いOLは、食パンの棚を凝視した。あと一個ある。買うか?買うまいか?ツダウメコ?
 ――いや、買う訳ないだろ。他の店に行く!そうでしょ?ウメコちゃん!
 若いOLは売り場を立ち去り、買い物カゴを空のまま、入口に戻した。だが他の店はどうなのだろうか?似たような状況ではないかと思い、売り場に戻ってみると、パンはすでに売り切れていた。何と言う事だ!1斤5,000円の食パンを買い損ねた。若いOLはうめいた。
 結局、何も買わないで、近所のドラッグストアを出た。向こう側にあるチェーンの牛丼屋を見た。閉店している。まだ昼間だ。何かおかしい。彼女は通りを渡って、近づいた。
 ――これ、完全に営業していない。お店が潰れている。
 若いOLは青ざめた。駐車場に風が吹いて、レシートが飛んで来た。牛丼屋さんのレシートだ。思わず拾って、内容を確かめた。牛丼並一個持ち帰り、2,500円。高い。日付を見ると、二週間ほど前だった。確かちょっと前までこのお店は営業していた。いつ閉店した?先週?
 若いOLはとぼとぼと歩いて、休日の自室に帰った。何も買っていない。こんな事は初めてだ。とにかく高い。一体何が起きているのか、全然分からなかった。スマホで色々、検索して見ると、騒ぎになっていた。今、パンは殆ど入手できないらしい。貴重品扱いだ。
 パン1斤5,000円、ハイパーインフレの世界、東京だ。
 意味が分からなかった。いつからこんな事になった?先月辺り、ちょっと高いな。また値上がりかなと思っていたら、先週辺り、スーパーでタマゴ4個パック、2,000円というのを見かけた。あの辺りから、値段がおかしくなっていて、あまり食料品を買わなくなっていた。
 若いOLは自室に帰ると、防塵マスクを外した。独り嘆息する。
 何か食べるものがあったかなと思い、冷蔵庫を開けて、在り合わせの食料で、テキトーなものを食べようとした。だがホントに何もなかった。とにかくお腹が空いた。朝から何も食べていない。高いから買わないでいたら、部屋から食料が完全に尽きてしまった。お菓子もない。
 ――う~ん。これは何かおかしい。親にでも電話するか?
 スマホで親に電話した。出ない。忙しいのか?若いOLは諦めて、インスタント・コーヒーでも飲もうかと思った。食べ物はないが、そういうものはまだある。お湯を沸かすため、ヤカンに水を入れようとして、蛇口をひねった。水が出ない。また断水か?
 最近、断水が多い。先日、都内で大きな地震があって、怖かった。その後、富士山が噴火した。都内にも火山灰が降って来た。電車が止まって、会社も休みになった。テレワークは殆どできなかった。どういう訳か、ネットに全然繋がらない日があるのだ。これは本当に困る。
 しょうがないので、部屋にあったコンタクトレンズ用の精製水で、お湯を沸かして、インスタント・コーヒーを飲んだ。若いOLはびっくりした。美味しい!精製水でインスタント・コーヒーを作ると美味しいのか?新発見だ。いや、これは単にお腹が空いていただけだろう。
 コンタクトレンズ用の精製水と、水道の水に大きな違いはない。大きな違いはない筈だ。
 若いOLは嘆息した。今、降灰はないが、酷いと、停電になるし、断水にもなる。何で断水になるのか全然分からない。関係ないのではないか?あ、母親から電話が掛かってきた。
 「……もしもし?」
 「ちょ!今忙しいんだけど何?」
 母親は外に出ているのか、周りが騒がしい処にいた。
 「……どうしたの?」
 「何って、闇市よ!闇市!並ばないとお米買えないから!米騒動よ!米騒動!」
 母親は叫んでいた。ヤミイチ?ヤミイチって何だ?どんな字を書く?それに米騒動って?
 「あんた、お米の配給は受け取っている?ポストから盗まれるから券を守りなさい!」
 話について行けない。お米の配給?今、そんな事が始まっているのか?
 「水道の水、飲んでいないでしょうね?灰が入っているから、飲んじゃダメよ!」
 え?コーヒーとか沸かす時に飲んでいる。飲んじゃ、ダメなのか?
 母親は、ダムとか川にも火山灰が落ちて、東京・神奈川の水源が全部やられたと言っていた。
 「給水車がそっちにも行っている筈よ。ポリタンク、持っている?」
 そう言えば、ポリタンクを持っている人を見かけた気がする。灯油屋さんみたいなトラックが止まっていて、人々が並んでいた。アレ、給水車だったのか。全然知らなかった。
 「あんた、一体何やっているの?死ぬわよ?」
 若いOLはびっくりした。今までそんな事、言われた事がない。サバイバルが始まっている?
 「ニュース見ている?今、色々大変な事になっているんだから!」
 あんまり見ていない。契約しているネットのケーブルTVも繋がらない日が多く、最近見ていない。スマホのネットが繋がる時、ちょこっと見るくらいだ。あまり興味なかった。
 ネットでドラマとか映画とか見れなくなったから、積んでいた本とか読んでいる。
 「……とりあえず、お腹空いたの。何か送ってくれない?」
 「あんた、何も備えていなかったの?」
 母親は通話口の向こう側で、絶句していた。そう言えば、こないだ何か言われた気がする。
 「……ゴメン、今部屋に食べるものが殆どないの」
 「会社なんか辞めて、こっちに帰って来なさい!」
 母はそう言った。若いOLは困ったが、通話を終えると、会社の上司に電話を掛けた。休日だったが、上司は一発で出た。若いOLは、明日から実家に帰るので、有休を申請した。
 「……会社が二度目の不渡りを出した」
 上司はそう言った。確か先月も、不渡りを出していた。経理部門から聞いた。
 「もう秒読みに入っている。今なら私から社長に話して、君を解雇できる」
 若いOLは戸惑った。話について行けない。会社都合とか、自己都合とか色々説明された。
 「……ええと、今なら有利に会社を辞められると?」
 「そうだ。このまま残って会社と心中しても、最後の給与が出ない」
 ガーンとショックを受けた。だが働いても出ないなら、辞めた方がいいだろう。
 「……因みに何でこんな事になったんですか?富士山が爆発したから?」
 「それもあるが、運送費だよ。仕入れが全くできない。中東の戦争が響いた」
 そうなんだ。中東で戦争が起きると、ウチの会社は倒産してしまうんだ。よく分からない。
 「分かりました。私の進退の件は、お任せします」
 会社都合で解雇が決まった。ラッキー?若いOLは実家に帰ろうと思った。しかし移動手段が問題だった。火山灰はいつまで降るのか分からないが、一度振り始めると鉄道やバスが止まる。除染作業は、丸一日以上掛かる事がある。富士山は断続的に噴火していた。
 都内に灰が降っている時、外に出ないのが、セオリーになりつつあった。出ても意味がないからというのが理由だが、どの道、移動手段がないのだ。火山灰で停電が起きたり、車のエンジンが焼き切れたりする。ふと、若いOLは、東京都知事の動画を思い出した。
 降灰の中、なぜかオープンカーから立ち上がり、防塵マスクを外して、ニコっと笑顔でサムズアップする動画だ。周囲の者が慌てて、マスクを付けるように言って、動画は終わる。
 都知事の動画は、とんでもない再生数になっていた。理由は考察動画だった。この動画は、某風の谷のお姫様の構図で作られていると解説された。つまり、都知事は、降灰する東京を、腐海になぞらえて、人々に勇気を示したのだ。憎い演出だ。後で防塵専門家から怒られたが。
 イケメンは何をやっても許される。若いOLも今の都知事は好きだった。面白い。この男はどこまで伸びるのだろう。才能がある事は誰にでも分かった。スター性、カリスマ性がある事は、韓流ドラマでも証明されている。あのボートピープル演説は伝説になりつつある。
 ハングル、英語、日本語のトリリンガルというのもカッコいい。自分もハングルをやろうか?
 若いOLは、降灰の中、キャスターを引いて、自室を出た。防塵マスクを掛け、マフラーと帽子も被る。コートは二枚着ている。完全武装の出で立ちだ。出る時、一応部屋に鍵をかけたが、もう当分戻って来る事はないかも知れない。家賃は……とりあえず、引き落としのままだ。
 若いOLは、駅前まで歩きながら、港区女子をやっているトモちゃんにお電話した。
 「……聞いて、私の社長族が全滅しちゃったの!」
 電話は一発で繋がった。若いOLはキャスターを引いて、無人の街を歩く。誰もいない。
 「へぇ。もう誰もいないの?」
 「……誰も繋がらない。お寿司も食べれないし、誰も帰りにタクシーで送ってくれない」
 若いOLは笑ってしまった。トモちゃんはホント憎めない。だから社長族にモテた。
 「それじゃ、港区女子も引退だね」
 この子は、高校の頃から、ホント何でもやった。だがそろそろ年貢の納め時だろう。
 「……もお!他人事のように言って!明日から私はどうすればいいの?」
 「安心して、私も会社都合?でクビになったから……」
 若いOLがそう言うと、トモちゃんも飛び上がって喜んだ。今絶対、ジャンプした。分かる。
 「さっすが!モモチ!いつも私たち一緒だね!」
 そんな事で一緒でもしょうがないが、とりあえず、合わせておく。友達は大切だ。
 「それでね。ちょっと聞いてよ。モモチ。今朝、夢を見たの」
 話が飛んだ。トモちゃんにはよくある事だ。だがその話はちょっと変わっていた。
 「しゃもじ?で頭を叩かれたの?めっちゃ痛かった」
 なにそれ?若いOLは笑ってしまった。降灰の中、キャスターを引き、無人の大通りを歩く。
 「何か、真っ黒で髭もじゃの大きな男の人が出て来て、しゃもじで私を叩くの」
 頭が豆電球のように輝いた。それはしゃもじじゃない。知っている。だが名前が分からない。
 「……それって、聖徳太子とかが手に持っている奴?」
 「ああ、そんな感じだった。私も何か見た事あるかも。アレはしゃもじじゃない?」
 トモちゃんの声が一瞬、遠くなった。
 その時、若いOLは見た。無人の東京の街を歩く、色とりどりの鬼たちを。大きな輿をかついでいる。唐風の官吏姿で、髭もじゃの真っ黒な大男が、しゃもじを持って座っていた。怖い。
 鬼の大名行列だった。まるでこれからどこかに行くかのようだ。官吏たちも続く。
 若いOLはびっくりして、固まっていた。髭もじゃの真っ黒な大男と目が合う。
 「人事異動だ」
 手にしゃもじを持った、その髭もじゃの真っ黒な大男はそう言った。
 「東京は人が減るのでな」
 若いOLは、頭の中を沢山の「?」マークで埋めながら、その行列を見送った。
 「……モモチ?モモチ?聞こえている?」
 トモちゃんの声で我に返った。もう誰もいない。アレは一体何だったのだろうか?
 
          『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード83


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