東京大深度地下
そのIT営業は都内、西新宿にいた。
時刻は午前9時15分だった。そしてその日は9月1日だった。2010年代、コロナ前だ。
月初の技術者の客先入場を終えたところで、次は10時から都庁前で会社訪問がある。
スマホを見ると、また大江戸線が止まっていた。
最初、線路に人立ち入りのためと書かれていたが、暫くしたら、緊急の車両点検のため一時停止と訂正されていた。現在、運行再開の目途は立っていない。
SNSを見ると、当該車両の乗客と思われる投稿写真やコメントで溢れていた。
「またかよ大江戸線」「あんな深い地下鉄なのになぜ人立ち入り?」「9月1日だからじゃね」「9月1日?何かあるのか?」「赤い着物を着た女の子が出たらしいよ」「運転手……」
関連記事を見ると、東海道線も止まっていた。
茅ヶ崎・辻堂間の踏切で、やはり緊急の車両点検のため運行停止と書かれている。発生時間も大体同じで、8時台だった。朝の通勤に直撃している。
こちらも似たようなコメントで溢れていた。
だがIT営業は、すでにこの状況を読んでいて、毎年9月1日の入場だけは、かなり早めに出るか、回り道をするようにして対処している。技術者がどこの案件に入るのかにも寄るが、何も考えないで時刻通りに行くと、大体巻き込まれる。いい加減、慣れた。
とりあえず、入場は無事に終わらせたので、西新宿から都庁前まで歩く事にした。大した距離ではない。たまには運動もしないといけない。季節外れの桜並木を歩く。
訪問先の住所に到着すると、灰色のビルを見上げた。数十階建てで多くの会社が入っている。エントランスフロアで、社名と階数を確かめてから、高速エレベーターに乗る。
新宿の街と空が見えた。遠くに富士山も見える。まだ噴火はしていない。
目的のフロアに着くと、エレベーターを降りて、訪問先の会社に入る。受付で電話を済ませ、用紙に所属会社と氏名を書き、待合室の椅子に腰かける。そっと鞄の口を先に開けておく。
ペンとノートを取り出しやすくしておく。名刺入れも今のうちに整理しておく。
案内の女性が来て、会議室に通された。時刻まで着席して待つ。途中、先程の女性が来てお茶を配膳してくれた。定刻通り、グレーのスーツ姿の女性がノートPCを持って現れた。
IT営業は立ち上がり、挨拶をして、名刺を交換する。
その女性は部長職だった。調達部門に所属している。30代くらいに見えたが、今時珍しく、女性にしては精悍な感じがした。何かスポーツでもやっていて、鍛えているのかもしれない。
会社案内を広げ、型通りに説明する。そして先方も同じ事をする。
これは新規顧客開拓の一環で、HPから連絡し、SES営業で新規取引を希望と伝えてある。双方が技術者と案件を持ち寄り、マッチングを行い、適合する業務に技術者を入れる。
これはそういう話で、そういう仕事だ。
都内IT企業1000社回ったが、その日の会社訪問は、後にも先にもない訪問となった。なぜそういう会話になったのか、あまりよく覚えていない。だが出だしは大江戸線の話だった。
「……今朝、また大江戸線が止まりましてね」
そのIT営業は西新宿で、技術者の入場があった事を説明した。営業なので、面白おかしく脚色しながら、如何に万難を排して、毎年9月1日の入場トラブルを躱しているか説いた。
「でもその状況をすでに読んでいて、トラブルを未然に回避している……」
「ええ、毎年の話ですからね。いい加減慣れました」
その女性部長の表情に、好奇の色が浮かんでいた。
「大江戸線停止の理由は何だと思いますか?」
IT営業はちょっと首を傾げた。質問の意図が分からない。まさか幽霊のせいとは言えまい。
「緊急の車両点検だそうです。最初は人立ち入りとも言われていましたが……」
「毎年9月1日に、都内でそういう事が同時多発していると考えている?」
その女性部長がそう言うと、IT営業は曖昧に頷いた。それはそうだ。
「ええ、だから9月1日の入場だけ気を付けて、遅刻しないようにしています」
「……原因は何だと思います?」
その女性部長はさらに尋ねて来た。これはちょっとおかしかった。
「夏休み明けですからね。学生さんの飛び込みとかあるんじゃないですか」
IT営業は現実的な回答をした。無用な誤解は回避すべきだ。
「でも理由はそれだけじゃないと考えている」
その女性部長は指摘した。確かにそうだが、そういう話をしても仕方ない。
「確かに数が多過ぎますが、営業の入場遅刻は避けたいので、現実問題として対処します。信用問題で損するのは自分なので……でも大江戸線だけ妙だと思いますが」
9月1日はそういうものだと思って対処する。それだけだ。
「……大江戸線に何かあると?」
「何か確たる証拠がある訳でもないですが、あの路線は新しいし、あんなに地下深い地下鉄で、そんなにアクシデントが起きるものなんでしょうか。少し不自然です」
その女性部長は少し考えていた。何か楽しんでいるようにさえ見えた。
「……毎年学生がその日に飛び込むとして、その累積はどれくらいになるんでしょう」
それは膨大な数になるだろう。だが飛び込むのはその日だけじゃない。ただ特に多い特定の日というものはある。それが過去、現在、未来と繰り返されている。鉄道が運行される限り。
「現代の『車輪の下で』って奴じゃないですか。周囲からの重圧に耐えかねて」
ヘルマン・ヘッセのそれはちょっとしか読んでいない。原文はドイツ語だった。
「……あなた、ちょっと面白い考え方をするのね」
突然、口調が変わり、目つきも変わった。何だ?この女性は?
「実は大江戸線というのは表面的なもので、上はただの地下鉄として使っているだけ」
IT営業は沈黙した。何だ?この会話は?どこに向かっている?
「いわば偽装ね。周囲の目を欺くと同時に、鉄道として使って設備をメンテナンスしている」
女性部長がそう言うと、かねてからの疑問が浮上した。いつも思考の隅に追いやっていたが。
「……大江戸線の下に何かあるんですか?」
IT営業は尋ねてしまった。悪い癖だ。だが女性部長は微笑んだ。ちょっと怖い。
「ええ、大江戸線には秘密があるの。国民には知られていない機密が……」
「……それを知るあなたは何者ですか?」
IT営業は思い切って尋ねてみた。しかしここから先の会話は、完全に異界の会話となった。
「私は陸自の一佐で、任務に就いている」
沈黙が訪れた。さらにその陸自の一佐は言った。
「東京大深度地下には原発がある」
「……原発?何のために?」
「有事の決戦に備えて」
IT営業は沈黙した。このお客さんは一体何を言っているのか?
SES営業の話なんか、もうどこかに飛んで行ってしまった。驚きの内容だった。だが大江戸線には何かあると思っていた。まさかこんな場面で、その答えを聞くとは思わなかったが。
「でも国民に隠して、原発なんか造れない。大体予算はどうやって組むんですか?」
「……戦艦大和式で行けばどうとにでもなる」
ああ、架空の駆逐艦数隻分の予算で計上して、戦艦の建造費を隠ぺいした史実か。
「その原発はどれくらいの規模なんですか?」
「……その気になれば、山手線くらい余裕で回せる」
陸自の一佐はそう答えた。もう表情からして違って見えた。これは民間人ではない。
「マスコミが知ったら、大変なスキャンダルですね」
「誰がこんな与太話を信じるの?」
その陸自の一佐は微笑んでいた。確かにそうだ。信じられないだろう。
「……でも自衛隊は有事があると思って備えている」
「当たり前よ。陸自を何だと思っているの。国土を守る最終防衛線よ」
海自や空自ではなく、陸自である事に誇りを持っているようだった。
「でもなぜ私にそんな話を?」
根本的な質問をした。この会話はあまりに逸脱し過ぎている。
「諜報員・工作員に向いているかと思って声を掛けたけど、ちょっとお喋りね」
陸自の一佐はそう言うと、姿勢を少し楽にした。
「……これは陸自のスカウトなのですか?」
IT営業は呆れた。スパイ映画さながらだ。
「あなたは好奇心が強い。だから秘密を嗅ぎつける。それは諜報員としては必要な能力。しかも、色々な事を知っている。条件を満たしている」
確かに遠い過去から、遠い未来にまで興味がある。この星に限らず。
「ねぇ、あなた、霊能力とかない?あれば陰陽師(おんみょうじ)として雇いたいんだけど」
陰陽師?陸自にそんなものが必要なのか?
「大深度地下に原発を作ったら、お化けが沢山出て困っているのよ。作業員が逃げるし……」
その陸自の一佐は嘆息した。そう言えば、大江戸線も幽霊話は多い。
「……地下深くにそんなに幽霊が出るのですか?」
「原因はよく分からないけど、旧ソ連でも似たような事例がある」
ああ、ソ連がどこまで地球を地下深くまで掘れるか試した事業か。その話は知っている。
「大深度地下は空間的に重なっているのかしらね。地獄界と……」
旧ソ連も穴を掘っているうちに、地獄の絶叫を聞いて逃げ出した。録音さえある。
「とにかく、有事に備えて使えるものは何でも使っているのよ。でも全然人が足りない」
陸自がそんな面白い組織だったとは知らなかった。これではSFだ。
「……これは第〇新東京市?ジオフロント?こういう世界って在り得るんですか?」
IT営業が尋ねると、陸自の一佐は少し考えた。
「私が知る限り、現実の方がもっと酷い。国民は知らなさ過ぎる。教えてもいないけど」
「……あなたは特務機関に所属する女性一佐?」
陸自の一佐は微笑んだ。アニメもちゃんと見ているようだ。
「私は彼女ほど優しくない。月に代わっておしおきしたい奴らがいるの」
声優ネタか。それなら幾らでも話せる。
「彼女もMSを運用する戦艦の艦長にまで昇進しましたね」
「……彼女も一佐止まりかしらね」
この女性は将官を目指しているのか。しかしなぜ民間企業にいる?任務は何か?
その後の会話は驚くほど、通常の会話に戻ってしまった。
会社を出る時、少しだけ彼女の日常業務を見た。彼女は年上の男性たちを顎で使っていた。おじさんたちは嬉々として、彼女に使われているようにも見えた。どこか軍隊ぽかった。
ビルを出ると、改めて名刺を見た。キツネにつままれたとはこの事かなと思った。
スマホを見ると、着信とメッセージが溜まっていた。今朝の騒ぎで、現場に遅刻した技術者が複数出ている。とりあえず、まずは状況の確認から始めようと思った。
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード17
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