[書評] 絵合
紫式部「絵合」(11世紀)
「伊勢物語」復権の観点から最重要の巻
源氏物語の第17帖「絵合」の意味合いについて考える。
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時の帝は冷泉帝(源氏と藤壺の子)である。そこへ前の(伊勢)斎宮が入内し、梅壺に住まう。以後、梅壺の御方と呼ばれる(後の秋好中宮)。
この梅壺は亡き六条御息所(源氏の恋人)の娘で、源氏は自らの二条東院へ引取り、養女として育てていた。
若い冷泉帝には9歳年上の梅壺は馴染めなかったが、絵という共通の趣味をきっかけに、寵愛が増す。
先に娘を弘徽殿女御として入内させてあった頭中将(源氏の親友にしてライバル、権中納言、後の太政大臣)は、源氏に対抗意識をもやし、豪華な絵を集めて帝の気を引こうとする。
かくして、梅壺陣営と弘徽殿陣営とに分かれ、絵合せ(ゑあはせ、左右二組に分かれて絵をひとつずつ出し合い、その優劣を競う遊び[新全訳古語辞典])が開催されることとなる。
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本巻で絵合せは2回おこなわれる。
1回めは藤壺中宮の御前での物語絵合せ。
2回めは冷泉帝の御前での絵合せ。
最終的には、2回めに源氏が出した須磨の絵日記が人びとに圧倒的感動を与え、梅壺方が勝利を収める。
ここでは、1回めの物語絵合せについて考える。ここが「伊勢物語」復権のために書かれたと思われる源氏物語の中核となる部分である。「伊勢物語」と源氏物語の関係については、〈古典の改め〉サイトが詳細に論じており、大いに参考になる。
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1回めの物語絵合せでは2つの組合せが現れる。
1つめは「竹取」対「宇津保」。
2つめは「伊勢物語」対「正三位」。
以下、原文を元に考える。
まづ、物語の出で来はじめの祖なる『竹取の翁』に『宇津保の俊蔭』を合はせて争ふ。
まず、物語の祖である『竹取の翁』(竹取物語)と不詳の『宇津保の俊蔭』とを組合せての争い。梅壺方は前者を、弘徽殿方は後者を支持し、主張を述べる。
次に、『伊勢物語』に『正三位』を合はせて、また定めやらず。
つぎに、『伊勢物語』に不詳の『正三位』を組合せての争い。梅壺方は前者を、弘徽殿方は後者を支持する。ここでも決着が定まらない。
われわれの知る『伊勢物語』が『伊勢物語』との題で呼ばれるのは、文献上、ここが初出とされる。(下)
これは軽い事態ではない。『伊勢物語』には《在五が物語》や《在五中将日記》などの異称もあったからである。
名称は『伊勢物語』をどういう作品と捉えるかに関る。作者(および主人公)を在原業平(在五)と捉える立場が上記の異称の前提と見える。〈在五〉とは、在原氏の五男(阿保親王の第五子)の意で、在原業平をさす。51歳(875年)で右近衛権中将になったことから、〈在五中将〉の通称がある。
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紫式部が絵合の巻で『伊勢物語』と書いたことの影響は大きく、〈平安末期には「伊勢物語」に統一されていった〉(日本国語大辞典)。式部のここでの見識への評価は、上記の『竹取の翁』にも及び、『竹取物語』よりこの名のほうが適切とする考え方もあるくらいである。
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では式部が『伊勢物語』と書いたのは、どういう見識を表すのか。
式部は、この作品の別称が《在五が物語》であることは知っている。第47帖「総角」に「在五が物語を描きて」と出てくる。現に、本巻でも、「業平が名をや朽たすべき」と、〈業平の物語〉との認識を前提に、平内侍が発言する。
にもかかわらず、式部は「『伊勢物語』に『正三位』を合はせて」と書く。式部の認識ではこの作品は異称や別称のようにではなく、『伊勢物語』とすべしなのである。
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本巻でのこうした言及はどう考えるべきか。
この絵合せは左右に分かれて争う。左方が梅壺方で、右方が弘徽殿方である。最終的には左が勝利する。梅壺方は源氏方であり、弘徽殿方は頭中将方である。この勝敗は、シンボリクには、〈非・在五説〉の〈中将説〉に対する勝利とも言える。紫式部が『伊勢物語』と作品名をするのは、〈非・在五説〉に立つからだと考えられる(後述)。
上の「業平が名」は、左の平内侍の発言である。
一方、「『伊勢物語』に『正三位』を合はせて」は、地の文である。すなわち、作者・紫式部の認識にある作品名は『伊勢物語』であると考えられる。
この作品名は、これが業平ないし在五(中将)の物語ではないことを示唆する。
藤壺中宮の御前でのこの絵合せは物語絵合せであるにもかかわらず、〈物語〉と題に附くのは4つの作品の中で『伊勢物語』のみである。
他の3作品は、『竹取の翁』と『宇津保の俊蔭』と『正三位』という具合に、いづれも人物を表す名が附く。
それらに揃えるなら、ここも《在五が物語》とすれば良さそうなものである。現に「総角」ではその名称を使っている。
ところが、人物名はあえて入れずに作品名を『伊勢物語』とするのは、作者の強い意思を感じざるをえない。
ただ、なぜ〈伊勢〉であるのかについては、古来諸説あるが、定説と呼べるものはない。
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問題のおそらく核心となる歌をみる。
みるめこそうらふりぬらめ年経にし伊勢をの海人の名をや沈めむ
物語絵合せの2番めの対決である「伊勢物語」対「正三位」には歌が三首でてくるが、これが最後の歌。
その直前に「宮」とあり、これについては、ほぼすべての現代語訳および注釈等で、中宮(藤壺)のことと解する。知るかぎりでは唯一の例外が上記サイトである。同サイトではこの「宮」を前斎宮(梅壺の御方)と取る。
この議論については、同サイトに任せる。ただ一つだけ。仮に中宮の歌とすればそれは即ちこの対決(藤壺中宮の御前での物語絵合せ)についての最終裁定に近く、その後に女官たちが、中宮の言をさしおいて、かまびすしく論争するのはおかしい(かやうの女言にて、乱りがはしく争ふ)。よって中宮説は文脈に合わないと言わざるをえない。この「宮」の問題は、後でまた少しふれる。
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以下、この歌そのものを分析してみる。
みるめこそ(見た目こそ)
うらふりぬらめ(古臭くなったかもしれぬが)
年経にし(歳月を重ねた)
伊勢をの海人の(伊勢の蜑の[ヲは強めの助詞(岩波古語辞典 補訂版)])
名をや沈めむ(名を沈めようと思うだろうか[ヤは反語の助詞])
つまり、これは古典的文学対近代文学の対決において、古臭くなってしまったからといって、古典(『伊勢物語』)の名を沈めてよいかとの宣言に他ならぬ。
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ここで〈沈める〉物謂いが出てくるのは、〈海〉の縁語である他に、右の典侍(弘徽殿方)が『伊勢物語』を上から見下ろすがごとき不遜な歌を詠んだからでもある。その歌では『伊勢物語』は「千尋の底」(1500mの海底)にあると見做す(雲の上に思ひのぼれる心には千尋の底もはるかにぞ見る)。何という上から目線。
みるめこその歌のポイントは第4-5句「伊勢をの海人の名をや沈めむ」である。『伊勢物語』の(無名の昔男の)名を残す(名声を後世にとどめる)べしとの主張である。
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もう一つ、みるめこその歌の〈沈める〉イメジャリが、千尋の底の歌の〈海底〉のイメジャリに対応していることから、みるめこその歌が弘徽殿方に対抗する陣営からのものと読むほうが自然である(別の観点に立てば、〈沈める〉と〈海底〉とは同じレジスタ[言語使用域]に属するとも言える)。その点でも、みるめこその歌は、梅壺方の陣営の誰かによると見るのがよいと考えられる。
梅壺方の陣営は、学識のある女官たち(平内侍[平典侍]、侍従の内侍、少将の命婦)から成るが、この中には「宮」に当てはまる人はいない。いるとすれば、トップに来る斎宮の女御(梅壺の御方)しかない。
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「宮」は一般的用法では皇子・皇女・皇后・中宮などの皇族の尊称とされるが、ほんらい〈ミ(霊力)ヤ(屋)の意。神や霊力あるものの屋〉(岩波古語辞典 補訂版)であるから、伊勢神宮の斎宮ほどこれにふさわしい人はいないとも言える。
本巻では、斎宮が朱雀院から文を受取ったときに、気分がすぐれず返事ができないさまを「宮は悩ましげに思ほして、御返りいともの憂くしたまへど」と綴り、「宮」が用いられる[第14帖「澪標」においては斎宮は「宮」の呼称のみ用いられる]。
斎宮は、後に秋好中宮と(読者に)呼ばれるが、その(中宮の位の)先取りとして、既に「澪標」で「宮」と呼ばれ、そしてこの「絵合」でも「宮」と呼ばれるのかもしれない(実際には、斎宮が「宮」と呼ばれる巻は、10、14、17、19、21、24、28、32、33、34、40、42の計12巻にのぼる)。
第17帖「絵合」において、「宮」の呼称がつかわれるのは藤壺宮と齋宮女御の二人だけであるから、そのどちらかになる。従前のほぼすべての説が藤壺宮をここの「宮」としているのが適切かどうか、以上のように考慮の余地はある。
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ここから先は議論が分かれる。上記サイトは、『伊勢物語』の主人公「昔男」が文屋康秀であるとの、他にない指摘をする。
同サイトは、〈和歌史上最高クラスとは、人麻呂・赤人・文屋・小町・貫之・紫の6人〉と認定する。そのうちの二人、文屋と紫とのつながりが垣間見える重要な巻が「絵合」である。この認識は、源氏物語の多くの謎を解く手がかりを与えてくれる。