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[書評]詩篇(岩波版)

松田伊作訳『詩篇』(岩波書店、1998)

岩波書店の「旧約聖書」シリーズの第11分冊。岩波の聖書は単なる詳注版でなく、訳にも大胆な新解釈がもりこまれ、スリリングな巻が多い。

岩波版旧約聖書の特徴は四つある。

1. ヘブライ語原典に従った範囲および配列。
2. 内容理解への補助手段。
3. 訳者名の明示。
4. 翻訳の不偏性。

他と比べて際立つのは3番目の特徴だ。最終的な文責を個人が負う。

ヘブライ詩の並行法はすべての詩の基本原理を解き明かす上で重要なので、およそ詩に関心があるひとには本書の言語学的に厳密な訳や注は興味深いだろう。(並行法についての巻末の説明は簡にして要を尽くす。)

※ 20世紀に言語学者ローマン・ヤーコブソンが詩的並行法の普遍性を論じた根拠が18世紀の詩学者ロバート・ラウスのヘブライ詩論にあることが広く知られている。

訳文ではっとさせられる箇所が多いが一つだけ例を引く。「神と共にあることを許された義人」についてうたう詩篇15.5。

おのが金を利息付きでは貸さず
無実の者を陥れる賄賂を取らない。
これらを行なう者は
とこしえに揺るがされない。

この訳の直截に驚く。米詩人エズラ・パウンドが生涯をかけて訴えた西欧の悪の根源の一つ Usura 「ウースーラ(高利貸し)」への厳しい姿勢がこの箇所から窺える。そのインパクトは現在の標準訳である新共同訳ではやや弱まる。

金を貸しても利息を取らず
賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。
これらのことを守る人は
とこしえに揺らぐことがないでしょう。

この新共同訳は独自性を出すというよりフランシスコ会訳をふまえたのだろう。

金を貸して利息を取らず、
わいろを受けて 罪なき人の不利を はかりはしない。
このように ふるまう人は、
とこしえに ゆるぐことがない。

岩波版はこの詩篇15を「入場律法」と見なす。その点の基本理解は同じでありながら、詩編小委員会訳では「正しい対人関係が強調されており、新約の愛のおきての旧約的序曲となっている」と、力強い解釈にふみこんでいる。

金を貸して利をむさぼらず、
わいろを取って罪のない人を苦しめない。
このように ふるまう人は、
とこしえに ゆらぐことがない。

岩波版の訳注で論議を呼ぶと思われるのが詩篇29.1の注。詩の本文を引く。

ヤハウェに帰せよ、神々(エリーム)の子らよ、
ヤハウェに帰せよ、栄光と力を。

これに対する訳注。

「エリームの子ら」はここと89.7だけ。神話的な天上の神々の世界を下敷きにして、異教の神々、さらにはこの世で神々のように振舞う権力者らを指したのであろう。

岩波版しか読まない人がこの注を鵜呑みにするのは危ない。テクスト編纂史をより具体的にふまえたフランシスコ会の訳注も併読する方が安全だ。まず詩本文。

神の子らよ、ヤーウェに帰せよ、
栄光と力をヤーウェに帰せよ、

詩篇29に対する注。

賛美詩編に属する本詩は、詩編の中で最も古いものの一つと思われる。おそらく、あらしの神バアルをたたえる古代カナン人の詩を、ヤーウェに適応させたものであろう。

詩篇29.1に対する注。

本詩の前身と思われるカナン詩においては、「神(ここでは「エル」)の子ら」は、最高の神「エル」の下に位する神々の意味であろう。イスラエル時代には、この表現は、神をとりまく廷臣としての天使たちをさしたものと思われる(ヨブ1.6参照)。後には、信心深い有徳の人々に適用されるようになった。

本文の解釈が違うので注の違いが分かりにくいが、本文については岩波版、注についてはフランシスコ会訳に見るべきものがあるように思われる。つまり、どれほどよい訳や注であっても、一つの訳や注のみでは足りないということだ。

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