[書評] 若紫
紫式部「若紫」(11世紀)
源氏最愛の女性との出会いは前生の縁か
源氏物語の第5帖「若紫」を読む。藤壺が源氏の運命の女性とすれば、藤壺の姪にあたる紫上は源氏最愛の女性。
その紫上がまだ十歳のおりに、十八歳の源氏は京都・北山で見初め、後見を申し出る。だが、育ての親の尼君はじめ周囲は、源氏の申し出を酔狂と考え、まともに受けとらぬ。この難関をいかに源氏が乗越えるか。そこが本巻の見どころ。
*
本巻は興味深い内容を多く含むので、原文を含めいろいろな現代語訳・注釈を読んだ。結果的に、もっとも参考になったのは、いつものことながら、高千穂大学名誉教授・渋谷栄一氏の正確な現代語訳と注釈である。
その氏の現代語訳は、編集して自分用の電子書籍を作ろうと思っていたところ、このほどまとめて一巻本で発表された。和歌は原文併記であり、評者のためにあるような本である。まことにありがたい。
*
桐壺帝の子でありながら臣籍降下し、藤壺女御との間に不義の子(後の冷泉帝)ができる源氏は、天皇の子にして天皇の父である。これ以上に数奇な運命を背負った人物を造型できるかと思われるほどだが、〈古典の改め〉サイトは、このような政治サイドの系譜とはまったく違う、伊勢・竹取の系譜に連なる傑出した文才の持ち主(文屋)と源氏をみなす。
*
源氏と紫上の出会いを前生の縁と断ずるのは与謝野晶子の訳である。
「前生」(ぜんしょう)の言葉を本巻では晶子は3度用いるが、決定的なのは、尼君の葬式後の次の言葉である。なかなか意図を解してくれない乳母の少納言に対し、源氏はこう語る。
そんなことはどうでもいいじゃありませんか、私が繰り返し繰り返しこれまで申し上げてあることをなぜ無視しようとなさるのですか。その幼稚な方を私が好きでたまらないのは、こればかりは前生の縁に違いないと、それを私が客観的に見ても思われます。許してくだすって、この心持ちを直接女王さんに話させてくださいませんか。
その部分の原文は
その言ふかひなき御心のありさまの、あはれにゆかしうおぼえたまふも、契りことになむ、 心ながら思ひ知られける
(その、幼いお考えの様子がかわいく愛しく思われなさるのも、宿縁が特別なものと、わたしの心には自然と思われてくるのです[渋谷訳])
となっている。渋谷訳も「宿縁」の語を用いる。それを晶子は「前生の縁」と言った。
*
はたして英訳ではどうか。
サイデンスティカ(Edward Seidensticker)は
I feel sure that we were joined in a former life
と訳し、晶子とほぼ同じだ。
タイラ(Royall Tyler)は
the tie between her and me really is unusual
と、これは現代人にも理解しやすい訳だ。
現代人といえば、現代の日本人は前生の縁などと言うものだろうか。矢作直樹氏の著作では頻繁に前生の縁の言葉に出会うが、そういう例を除けば、一般にはそれほど使われるようにも思われない。タイラのように、特別の絆くらいの表現が普通か。
ウォシュバーン(Dennis Washburn, 1954- )は、
I know in my heart that my feelings of longing and pity, which her innocence stirs in me, are signs of a special bond between us from a former life.
と訳す。前半の signs of a special bond で現代人にもわかる表現を出し、そのあとに between us from a former life と、「前生からの」と(bond を)修飾することで、絆の意味をはっきりさせる。これはうまい訳し方だ。
最後に、今も読まれるウェイリ(Arthur Waley, 1889-1966)の訳をみよう。
Though it is indeed her youth and helplessness which move my compassion, yet I realize (and why should I hide it from myself or from you?) that a far closer bond unites our souls.
この訳には唸る。a far closer bond unites our souls の表現は力強い。今から約百年前の訳だが、この言葉はすばらしい。すなわち、この絆は私たち二人の魂を結びつけるものだと、高らかに宣言するわけである。
魂のことまで言及するのは、あるいは国語学の範疇を超えるのかもしれないが、それでもここまで踏みこんだ訳をしたウェイリを称えたい。
*
原文に戻って改めて眺めると、「契りことに」(契りが特別である)の「契り」は、〈前世からの約束事〉(大野晋『古典基礎語辞典』)の意である。
『古典基礎語辞典』ではその用例として、竹取物語の「昔のちぎりありけるによりなん、この世界にはまうで来りける」が引かれていることに、竹取物語の源氏物語との縁を感じさせられる。つまり、源氏物語のこの箇所においても、「前(さき)の世のちぎり」(明石)が含意されていることは明らかだ。