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『あつあつを召し上がれ』ノート

小川糸著
新潮文庫

〝食べる〟という生き物に必要な行為を巡って、いろいろな感情が絡んでそれぞれの物語ができるのは、人間だけの営為である。

 この著者の作品を取り上げたのは、食べることについてのほっこりとした、また少し悲しい物語に筆者自身の思いを重ねて味わいたかったからだ。

 最初の物語は、「バーバのかき氷」――〝あつあつ〟という本のタイトルにそぐわないように思えるかき氷の物語。
 認知症になり、自分の娘や孫のことをすっかり忘れた祖母はホームに入ってからも提供される食事に一切口をつけず、主人公のマユの母親が作って持ってきた食事も受けつけない。
 ホームに母とマユがお見舞いに行ったとある日のこと。食事を摂らないので、マユが持っていたキャラメルを口元に持って行ったとき、かすかにバーバが「ふ」と言ったのだ。それをマユは熱い食べ物をフーフーすることと勘違いしたのだが、やはりキャラメルを口に入れようとしない。すると、バーバは窓の向こうの指さすのだ。窓の外には富士山が見える。それを見て、マユは「富士山のふ?」と聞くと、バーバの薄曇りのような瞳の奥が輝いた。そしてしきりに口をパクパクとする。
 その表情を見て、何年か前に皆で食べた天然氷を削った富士山のようなかき氷のことをマユは思い出したのだ。バーバはあの氷が食べたいんだ!
 ホームにあったクーラーボックスを抱え、自転車で氷屋に向かった。
 お客は長蛇の列で、このまま待っていれば夜になってしまうのではと考えたマユは、一大決心をして列の前に進み、氷を削っているおじさんにこう声を掛けた。
「祖母がもうすぐ死にそうなんです。それで最後に、ここのかき氷を食べたいって」――これまで避けていた〝死〟というそれまで避けてきた言葉をなぜ口走ったのか、マユにも分からなかった。

 ホームに持って帰ったかき氷は幾らか縮んだように見えたが、スプーンでバーバの口元に持って行ったら、口を開けてかき氷を受け入れたのだ。そして口に入れるたびにうっとりとした表情を浮かべるのだ。そして、バーバは自分でスプーンを持って、マユに差し出して口に入れろという仕草をみせる。マユの母親にも。

 次の物語は「親父のぶたばら肉」。カナダに転勤が決まった恋人から、中華街で一番汚い店というところに連れて行ってもらった主人公の珠美。この店は食い道楽であった恋人の父親がよく連れて行ってくれた店ということだ。
 ビールとしゅうまい、ふかひれスープ、ぶたばら飯を注文し二人であつあつを愉しんだ。
 そのあと、恋人から一緒にカナダに行ってくれないかとプロポーズを受ける。「嫁さんを選ぶ時は、この店の味がわかる相手にしろよ」というのが父親の遺言だという恋人の発想に、つい笑ってしまう珠美。そして、自分でいいのかという恋人の確認の言葉に、珠美は「ちゃんと一生美味しい物を食べさせてくれる相手かどうか、見極めなくちゃ」とちょっとふざけて答えた。恋人は珠美の表情からプロポーズを受け入れてくれたと確認するのだ。

 3番目の物語は、「さよなら松茸」。10年以上同棲していたパートナーと分かれる決心をした主人公。松茸づくしの料理が美味しい時期にと予約していた能登の旅館は、パートナーが主人公の誕生日のお祝いにと予約していた宿だ。それがお別れ旅行になるとは……。
 先に宿を出たパートナーを見送り、何気なく宿泊者のノートをめくっていたら、見慣れた文字があった。1年半前に二人で泊まったときに、パートナーが書いた文章だった。
彼は、結婚もしたくないし、子供も欲しくないといっていたのに、そこには、「今度は、ぜひ松茸の時期に来ます。その時は、恋人と結婚して、子連れ旅行になるかもしれません」と記されていた。そこには主人公が知らない彼がいた。しかし二人はすでに別々の道を歩み始めたのだ。

 このほか、母親を亡くした主人公が、母から仕込まれたみそ汁を父親のために毎朝作っていた主人公が結婚して父親のもとを去る「こーちゃんのおみそ汁」など、食べ物と人生にまつわる悲喜こもごもの物語が全部で7つ収められており、どれも、ちょっぴり悲しいが読んだ人の心を温めてくれる物語だ。

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