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『月と蛇と縄文人』ノート

大島直行著
角川ソフィア文庫


 この本は昨年の3月に購入していた。著者を存じ上げているので買ったはいいが1年以上開いていなかった。それが、このところ『月夜の森の梟』、『月の文学館』、『月の満ち欠け』と何故か〝月〟がタイトルについた本を無意識に取り上げていたことに気付いて、この本のことを思い出して、未読の本を積んでいる本棚から持ってきて読んだ。

 なお、表紙の写真(上半分程度)をいつも載せているが、この本の表紙をそのまま撮影して載せると、noteのコード(があるかどうかは知らないが)に引っかかるかもしれないので、カバーを外して撮影したので味も素っ気もない写真になってしまった。因みにカバーの絵は写真と見まがうような廣戸絵美の写実的な絵画〈妊婦〉である。

 著者は考古学者(自称「不良考古学者」)であり、縄文文化の研究者であるが、解剖学を専門とする医学博士でもある。
 著者は、正統派の考古学者の間でこれまで当たり前とされていた縄文式土器や土偶の解釈に納得できず、行き着いたのが、ドイツの日本研究者で縄文文化の読み解きを行ったネリー・ナウマンだった。
 このナウマンが、縄文人の象徴の中核にあったものの一つが〝月〟であることを突き止めた。人間にとってもっとも切実な問題は〝死〟であり、この死の恐怖から逃れようとすることは人類にとって誕生以来の大きな命題であり、その命題への一つの答えが〝再生するものへの畏敬〟と考えた。そして人類にとって最も身近な天体である月の運行や満ち欠け、さらに女性の生理周期との一致に〝死と再生〟を見たのである。そこから土偶(すべて女性)や蛇や蛙も〝死と再生〟を象徴しているとナウマンは主張している。

 考古学は発掘された縄文式土器や土偶など様々なものを分類・整理し、呼び名を付け、時代を追って並べ、そのものの日本列島における伝播や分布を見ようとするが、それらの研究に欠けているのは、それを作った縄文人の精神性を全く見ようとしないことだと大島は指摘する。だから、なぜ縄文(縄目の紋様)なのか、底が尖った〈尖底土器〉のような実用に適さないものを作ったのかなどは全く明らかにされない。

 それらの謎を解き明かすにあたって、およそ考古学とは関係がないような分野の研究成果や考え方を活用し、縄文式土器や土偶を作った縄文人の考え方や精神性を読み解き、縄文人の「こころ」を探ろうとする大胆なアプローチに著者はチャレンジしている。
 そして従来の考古学の手法である編年学や文化伝播論だけでは、決して縄文文化の精神性を読み解くことはできないと著者はいう。

 大島は、精神分析家のカール・ユングとその弟子のエーリッヒ・ノイマンの「普遍的無意識」や「元型(グレートマザー)」、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」、宗教学者のミルチャ・エリアーデの「呪術宗教的心性」や「イメージとシンボル」、修辞学の「レトリック」の概念を取り入れ、縄文人の精神性(神話的世界観)を体系的に分かりやすく読み解こうと試みているのだ。

 一つだけ謎解きを紹介すると、縄文式の縄目の模様は蛇だと結論づける。蛇は成長に従って脱皮を繰り返すので、再生の象徴として蛇の紋様が使われたという。それに関連して、その紋様は蛇の雄と雌のきつく絡み合う交合の姿を現しているという。この説は大島独自の説ではなく、それを最初に述べたのは、環境考古学者の安田喜憲であり、その安田は、民俗学者の吉野裕子が、「神社の注連縄はベビの交尾を表している」という主張をヒントにその結論を出しているのだ。

 話は変わるが、私が小学生の頃、田舎にある母の実家の近くの小さな鎮守の森の中で近所の子どもたちと遊んでいる時、蛇が2匹で綯った縄のようになっているのを見て驚いたことがある。帰ってから祖父にそのことを聞いたら、「そんなことは知らんでいい」と言われたことがあった。

 閑話休題――縄文時代の竪穴式の住居跡や貝塚や、死者を何故穴に埋めるのかなど、先人の研究も参照しながら、一つひとつ丹念に読み解いていく大島の手法は素晴らしい。従来の帰納的な考古学の手法では決して解き明かせない謎が、この大島の他の人文科学の成果を援用しながらの演繹的な研究手法でかなりの程度答えが出たと思う。しかしあいまいな点や論理の飛躍もあり、この本で縄文時代の謎がすべて解き明かされたとするにはまだ早いのではないかとの印象を持った。

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