『ミッテランの帽子』ノート
アントワーヌ・ローラン著
吉田洋之訳
新潮クレスト・ブックス
この著者の小説を取り上げるのは『赤いモレスキンの女』に続いて2冊目だ。
フランス共和国大統領のミッテランが、側近と食事に来たブラッスリーに自分の黒いフェルトの帽子を置き忘れたことから話が始まる。
たまたま隣席で食事をしていた会社勤めの公認会計士が、それを出来心で持って帰ったことから、偶然か、彼の昇進話が舞い込むことになった。会議での彼の説得力ある発言が評価されたのだ。
しかし彼は家族で新任地に向かう電車の網棚にその帽子を置き忘れてしまい、鉄道会社の忘れ物係などあちこちに電話をするが見つからないままだ。その後、どうしてもその強運をもたらしてくれた帽子を見つけたくて全国紙に捜し物の広告を出すことになる。
その男の乗った電車の終点から折り返しの電車の中で、今度は物書き志望の女性がそれを見つける。外は雨が降っており傘はない。女は既婚の愛人との逢瀬に向かう途中だった。その帽子を見ると、〈F.M〉のイニシャル。自分の名前と同じだというところから物語が動く。
逢い引き場所のホテルにその帽子を被って行くと、男はめざとくその帽子を見つける。折り返しにあるイニシャルは彼女のだ。どうしたのかと聞くと。ある男からもらったと答える。そのことで、彼は、「君が去るんじゃないよ。俺が出て行くんだ!」と捨て台詞を吐いてそのホテルを出て行った。それで、女性の願い通り二人の関係は突然終わりを告げる。
その女性はパリのモンソー公園のベンチに座って、幸運の帽子をベンチにおいてみようと思い立つ。何か起きるのを見届けようと、彼女はその正面のベンチに座っていた。1時間以上経った頃、黒縁の丸メガネをかけた60代とおぼしき男性が躊躇いながら、帽子を置いたベンチに座り、帽子を手に取ると鼻に近づけ、匂いを嗅いでいた。そしてその帽子を持ち去ったのだ。それを見た彼女は、その情景を書き留めた。後にそれらの出来事は短編小説『帽子』として発表され、思わぬ文学賞を獲ることになる。
帽子を持ち去った男は、いまはスランプに陥っているが著名な調香師であった。彼は帽子の匂いの成分を嗅いでフェルトに深く沁みた香水の方は男性用の〈オーダドリアン〉だとわかった。さらにごく最近ついた別の香りがあった。それこそ自分が以前作った女性用の〈ソルスティス〉だったのだ。
この調香師は8年前からもう新しい香水は作っていなかったが、雪で濡れたその帽子をリビングのラジエーターの上に置いた事から、先の二つの香水とラジエーターの燃える木の香りが混じり合った香りが〝天使のノート〟(ノート=香りの変化を表すもの。ワインやコニャックの〝天使のわけまえ〟にならってこの調香師が名付けた)となって、彼に微笑んだのだ。それを調合し、香水の会社に送った。
と、この調子で書いていると、この物語の結末がどこに向かうのか、ネタバレになってしまうので、プロットの追っかけはこの辺りで止めることにしよう。
この展開は奇想天外のようでいて、「人生の重要な出来事はいつもささいなことの連鎖の結果」から生まれた物語なのである。私は3度読んだが、そのたびに、新しい発見をした。
この作品の時代は、ミッテラン大統領が議会総選挙で大敗し、右派のシラクが首相に選ばれ、保革共存の政治が始まった1986年、第一次コアビタシオンの時代の2年間である。
テロをはじめ数々の事件や社会事象が起きた時代のリアリズム描写を横糸に、黒いフェルトの帽子を巡る4人の男女の感情の動きや大きな転機などを縦糸にして織りなした作品であり、帽子がふとしたことからミッテラン大統領の手に戻るのは2年後、コアビタシオンの終わりの時期と一致する。作者はそこに何らかの暗喩を込めたのであろうか。
そう私が感じたのは、ミッテランの帽子ということを知って持って帰った最初の男に、「フランスを代表するシルエットに何かかけているように感じられた」と語らせているからだ。
最後に、ミッテランはこの帽子の行き先をエリゼ宮の諜報員に追っかけさせており、その動向をほぼ正確につかんでいたという展開には驚いた。