『私の身体を生きる』ノート
島本理生、村田沙耶香ほか15人の共著
文藝春秋社 刊
人間は生きている以上、己の身体を意識せざるを得ない。
筆者は数年前、病を得て初めて自分の身体を意識したほど、身体に無頓着であった。だから病を得たのかもしれないが、それまではあまりに身体に無関心すぎたのか、感覚が鈍かったのか、理由はよくわからない。
本屋でこのタイトルを見て、身体を意識した自分に何か得られるものがあるのではないかという思いがあり、目次に何人か読んだことがある作家の名前もあったので、購入して読んだ。
この本は、文芸誌『文學界』誌上で「私の身体を生きる」をテーマに、自分の身体についての考察や様々な経験を書き留めた17本のリレーエッセイからなる。著者は、作家や映像クリエーター、漫画家、作詞家などさまざまだ。
読んでみると、当初思っていた内容とは趣を異にしていたが、読み終えた時の正直な感想は、この世に女性として生きることの凄まじさと、自分がそのようなことにこの歳になるまで思いを馳せていなかったことに愕然とした。気づいていなかったことについて、よかったのか、知る必要もなかったのか、知るべきだったのか……いまさら知っても何をすることもできないが、重いものが胸に残った。
親から無意識に押しつけられたジェンダーとしての〝女性〟性や社会における見えない規範、異性からの否応なしの視線などを意識しなければならない生き方、直面する切実な問題や桎梏が重く、時には胸を切り裂くような言葉で語られる。
「ルッキズム」「ファッション」「恋愛」「結婚」「妊娠」「出産」「性被害」「性の商品化」などなど、身体と自分というものの存在の本質的な面から、あるいはこれまで直面させられてきたことを一人ひとりが率直な言葉で語る。
以下、これまで筆者の考えが及ばなかったことや、逆に頷ける言葉の連なりをいくつか提示してみる。
「身体に入った数々のタトゥーは『この身体は私のものだ』という他者への宣言であるだけではなく、『なにがあっても私の身体だ』という自身への宣言だった。」(「身体に関する宣言」西加奈子)。――タトゥーはファッションとしか考えたことがなかったが、その捉え方は人の生き様によって異なるのだ。
「タイトルの『私の身体を生きる』を、私はまず自分について肯定できない。肯定できる日が来るとも思えない。極力私は、私の身体なんか生きたくない。捨てられるものなら捨てたい」(P115)。「多様性を認めよ、なんてことじゃないんだ、本当は。『そんな生き方もいいと思う』お前に認められるためにやってない。『男の身体でも、女の心ならいいと思う』私はいいと思ってない。安易に共感なんかするな」(P124)。(「敵としての身体」能町みね子)――いま流行のダイバーシティで何でも安易にくくってしまうような風潮への批判は重い。
「現実の人間の欲求は極めて多種多様にして千差万別で、簡単にカテゴライズすることができない。にもかかわらず、法律や制度、政治、行政、そして社会そのものがどこまでも硬直していて想像力に欠け、人間の多様性にまるで追いついていないということだ」(P141)(「愛おしき痛み」李琴峰)――所詮、法律や制度はあとから追いついてくるもの、いや永遠に追いつけないのかもしれない。
「からだは、我儘だ。自分の思い通りになったことがない。私の本体はいつも頭の中にあって、どうしても、身体は偶然私というプレーヤーにあてがわれたレースゲーム用の車体、くらいの認識が抜けない。自分はたまたま、有無をいわせず女型車体を振り分けられただけなのだが、しかしながらゲームにおいて他のプレーヤーたちからみた私とはすなわち私の車体、ということでしかなく、私というものの全ては結局80年代産の経年42年、女型、以上、だったりする」(P161)(「ゲーム・プレーヤー、かく語りき」鳥飼茜)。――人間機械論の極致のような物言いだ。著者は幼い頃から父親の女性観に無自覚に影響されてきており、自分の女性観や身体性は結構複雑な過程を辿ったと書いているが、これが一つの結論なのか。
「女性が自ら身体や性について自分の言葉で語ることは長らく抑圧されてきたが、一方で、身体や性について説明や理由を求められるのも、女性や性的マイノリティの側である。語らされないのも、語らされるのも、同じ構造のもとにある。つまりは、中心にいる側の人の言葉で中心にいる側の人にわかるように語れ、ということで、『わかる』かどうかは中心にいる側の人が決めてきたということ」(P180「私と私の身体のだいたい五十年」柴崎友香)――〝普通〟か〝普通でないか〟の尺度もそうであろう。
四つのエッセイの文章の一部を取り上げたが、そのほか「Better late than never」(島本理生)、「肉体が観た奇跡」(村田沙耶香)、「私は小さくない」(千早茜)、「てんでばらばら」(朝吹真理子)、「捨てる部分がない」(藤原満里菜)、「私の三分の一なる軛」(児玉雨子)などなど、筆者にとって重く、また人間の身体性を思い出させる言葉が刃となって読む者に突き刺さる。