『ことばの番人』ノート
髙橋秀実 著
集英社インターナショナル 刊
10月11日にこのnoteに書いた『誤植読本』(増補版)に続いて、校正に関して書かれた本を取り上げる。
本屋に行くと、誤植とか校正とかの文字が目について、つい手にとってしまう。
本書は単なる校正や校閲に関する本ではなく、それに携わる人たちに取材し、そのことを機縁として言葉や文字、漢字と日本語の成り立ちと言語としての課題などを考察しており、本居宣長やウィトゲンシュタイン(この本の表記のまま)の言葉に対する考え方なども引用・解題していて、読み応えのあるノンフィクションとなっている。
著者の「あとがき わたしは三島由紀夫ではありません」(P216)では、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃・文章読本』や三島由紀夫の『文章読本』に触れ、これらはフィクションにおける文章読本であって、本書はそれと違い、ノンフィクションにおける文章読本であると、著者自らこの本の性格付けをしている。
〈第一章 はじめに校正ありき〉に書かれているある校正者の話――「面白い原稿は要注意」とこの人はいう。それを受けて、著者は、本を読んで感動することも一種の「誤り」なわけで、校正者は楽しんではいけないといい、たとえ名文であっても誤字脱字ひとつで台無しになる。誤字脱字がないだけでも名文として読まれる可能性は残されるのだ、という。
さらにこの校正者は、数字と固有名詞、ミステリー小説の場合は時系列の矛盾、時代小説では、言葉遣いに注意しなければならない。また江戸時代の本当の言葉遣いはわからないが、読んでみて「違和(違和感の脱字ではない=筆者注)はあるんじゃないかと思う」そうだ。
またこの章では、『古事記』を撰録した太安万侶も実は校正者だったのだといい、『古事記』上巻の「序」に、古事記より以前に書かれていた『旧辞』と『先紀』(ともにその存在は未確認)の誤りを正すと書かれているとのこと。
筆者はこのことを初めて知ったので、『古事記』を確認しようと思ったが、自宅の本棚から物理的に取り出せない状況にある……元校正マンとしては、確認したいところだ。
誤解しないでほしいのは、この本の著者のことを信用していないわけではないということだ。本の性質上、幾度も校正・校閲されて刊行されているだろうから間違ってはいないと思っている。その箇所をこの眼で見てマーカーを引いて書き込みをしたいだけだ。
〈第二章 ただしいことば〉に出てくる伝説的な校正者は、40年を超えるキャリアを持ち、日本エディタースクール(筆者も卒業生)の講師を務めている方だ。
この方は校正者たちの校正者といわれる人で、自宅兼仕事場には辞書だけでも7千点(種類であり冊数ではない)――中には15巻セットの大漢和辞典(大修館書店刊)、いわゆる〝諸橋大漢和〟もあるので、辞典の総冊数はわからないという。さらに、わが国で初めての近代的国語辞典である『言海』(大槻文彦著)をはじめ、その後の『新訂 大言海』や『新編 大言海』(ともに冨山房刊)にいたっては、270種類(冊数ではない)を揃えているという。広辞苑も100冊
以上手元に揃えているそうだ。聞いただけで気が遠くなる。
言葉ひとつを調べるにも数種類の辞典を引くのは当たり前だそうで、私たちが通常考える校正とはまったくレベルが違うのだ。
この方の話の中で、〈×修正液→○修整液〉〈×極め付け→○極め付き〉〈×幕あき→○幕あけ〉などが指摘されているが、難しいのは、慣用的に誤って使われはじめ、それが定着していくことが多々あり、辞典類もそれにそって加筆・修整されることもあるのが難しいという。このような言葉は多々あるような気がする。
髙橋はこのベテラン校正者の話を聞いていて、辞書で校正をしているのではなく、辞書を校正しているのではないかと書いている。
〈第三章 線と面積〉の冒頭には、聖書の誤植が取り上げられている。
9月27日に筆者が『「本をつくる」という仕事』で取り上げたnotが抜けた『姦淫聖書』をはじめ、lifeとすべきところをwifeとしてしまい、信仰のために命を捨てよという箇所を、妻を捨てよとなってしまった『妻嫌いの聖書(Wife-hater Bible)』などがあるそうだ。それだけでなく、現在の『聖書 新共同訳』にも単語や国名、送り仮名や助詞など数多くの誤植があるという。
この章では、正倉院に保管されている奈良時代の文書には、仏教経典の写経にあたって、誤字脱字に罰金が課されていたという話も取り上げられている。
書き写す役割の「経師」――一日に約3千字を書き写したといわれている――が書き写したものをチェックするのが「校生」(校正の間違いではない。念のため)の役割で、誤字脱字、行抜けなどを見つけると、経師の報酬から一定の金額が引かれ、それが見つけた校生の報酬になっていたそうだ。
〈第五章 呪文の洗礼〉では、東京・神楽坂にある鴎来堂という書籍の校正・校閲専門の会社が定めた「校正憲章」を取り上げている。
ちなみに、この本には憲章の全文は掲載されていないので、参考として最後に載せておく。
少し飛んで〈第九章 日本国誤植憲法〉では、日本国憲法第7条「天皇の国事行為」の第四項の問題が取り上げられている。
第四項には、「国会議員の総選挙の施行を公示すること」とある。
おりしもいまは第50回衆議院議員総選挙のさなかであるが、確かに衆議院公報には天皇の御名御璽で衆議院総選挙が公示される。
しかし、参議院議員の選挙は「通常選挙」と呼ばれ、3年ごとに半数の改選となっており、総選挙ではない。しかし実態として、参議院の選挙も天皇の御名御璽で公示される。なので、著者の髙橋は総選挙の「総」の字は誤植であると指摘をしている。
この点について、筆者は自分の記憶を確かめるために、ある専門家に確認をした。
その方によると、GHQの憲法草案が一院制を採用していたのに対して、日本側の要求によって二院制に変更したときに修正・削除すべき箇所がそのまま残ってしまい、条文の「過誤」とされている有名な箇所で、改憲派は、「だからこそ、改正すべきだ」などと主張する根拠のひとつにもなっているとのこと。
しかし、これについては、政府においても学説においても、「ここにいう〈国会議員の総選挙〉とは、衆議院議員の総選挙と、参議院議員の半数改選の通常選挙の双方を指す」ことで、全く異論はないということであった。
その専門家も、「間違いといえば間違いだが」と言われていた。
あくまで筆者の感想であるが、日本国憲法の文章の解釈もさまざまで、実態との乖離もあり、こじつけになるかもしれないが、ほとんど誤植だらけではないかといえなくもない。
〈第十章 校正される私たち〉では、AIと校正の問題、分子生物学におけるDNAの複製における校正(校正proofreadingは分子生物学における重要な概念)の問題にまで言及するなど、〝校正〟の概念が敷衍されており、実に示唆に富む内容であった。
※参考:鴎来堂の『校正憲章』
出版は文化の本城にして、校正はその堡砦たるべし。
校正・校閲の志を高く掲げるため、また進むべき方向を見極めるため、この憲章を定める。
一、校正者は文章の瑕疵を取り除くために読む
二、校正者は著者によりそい、文章をよりよいものにするために読む
三、校正者は常に最初の読者というつもりで読み、なにより客観性を重んじる
四、校正者は出版工程の一部であることを自覚する
五、校正者は常にゲラにとってなにが最善かを考え行動する
六、校正者はゲラに関して自分を含めたすべてを疑う
七、校正者は他工程の出版人と、相互の尊敬をもってゲラに向かう
八、校正者は向上心を忘れず、一生をかけて技術を身につける
九、校正者はあきらめるな
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