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『文にあたる』ノート
牟田郁子 著
亜紀書房 刊
最近、本作りに関する書籍が気になり、集中して読んでいる。
この本は、筆者のnoteを読んでくれている新聞記者が紹介してくれた。
著者の牟田郁子は図書館員を経て出版社の校閲部に勤めたあと、個人で書籍や雑誌の校正をしている、現役のフリー校正者である。
校正・校閲を巡るさまざまな教訓、たとえば、「校正者は読んでも読んではいけない」ということや、「校正は減点方式」など校正・校閲の世界でよく知られた言葉も出てくるが、それよりも、いままで筆者が経験したこともなく、思いもよらなかったことが書かれているのが実に興味深かった。
この本の〈文章の強靱さ〉という章に、筆者が昨年の8月にこのnoteで取り上げた『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一 講談社現代新書)という本の校正・校閲を巡るエピソードが書かれている。
最初に、福岡伸一が観光船に乗って、ハドソンリバー岸を出発して南下しているときの船からの眺望の描写の箇所が引用されている。
「観光船サークルラインは、マンハッタンが、縦に細長い、しかし極度に稠密な島であることを実感できる格好の乗り物だ。船は、ハドソンリバー岸を出発点とし南下、自由の女神像を眺望しつつ、かつて世界貿易センタービルが聳え立っていたマンハッタン南端を回りイーストリバーに入って北に遡行する。ウォール街のビル群、ニューヨークマラソンが通るブルックリンブリッジ、やがて現れるスタイリッシュな国連本部ビル。アールデコのクライスラービル。白い羊羹を削ぎ切りにしたようなシティコープビル。ひときわ高いエンパイアステートビル。次々と見せ場がやってくる。(『生物と無生物のあいだ』P13~14)
まるで映画の一シーンを観ているような描写であった。
この箇所について、他の校正者から戻ったゲラをみると、マンハッタンの地図のコピーが貼り付けられており、ビルの見える順番が違うという指摘があった。そのことを著者に伝えたところ、福岡は、この指摘について、確かに校正者の指摘どおりだと認めつつ、「この部分は、書いたときの流れを尊重してもらってこのままとした」という。
このことについて、牟田は、ビルの見える順番が違うことは確かなので、それを改めるべきだという読者がいるのは当然だが、「校正」とははたしてすべてを「事実」に即して正すべき仕事なのだろうかと自問する。
新聞やノンフィクションなど事実を伝えるためのメディアにおいては、正確であることは大前提だが、この『生物と無生物のあいだ』はそうした類いの文章ではないといい、著者が「考えた末」に「書いたときの流れを尊重してもらってこのままとした」というのは、この文章には事実よりも優先されるべきものがあったということだ、と書く。
そして福岡伸一は、めざとい読者がそのうち指摘してくるかもしれないが、私はあえてこう書いた。そういえるプロセスがここには含まれているという。
最終的には、著者の考え方であるが、そのようなことを指摘することは決して無駄にはならず、問い合わせがあった時には、「ご指摘まことにごもっとも。ですが著者は〝あえて〟こう書いたのです」と答えることができる。校正に費やされた時間は、建築物の筋交いのように、見えないところで文章を強靱にすると牟田はいうのだ。
筆者が福岡伸一のこの本を読んだとき、船から見えるビルの順番が違うのではないかなど考えもしなかった。もちろん行ったこともないので、文章のままにそれぞれ個性のあるビルの眺めと風景が浮かんできて、ニューヨークという大都市の特徴を捉えたいい描写だと思っただけだ。
〈真夜中の三日月〉という章では、『モチモチの木』(斎藤隆介作、滝平次郎絵 1971年 岩崎書店)という絵本のことが取り上げられている。
「シモ(霜)月三日のウシミツ(丑三つ)にゃァ、モチモチの木に ひがともる。」の〝月〟が初版では〝三日月〟だったが、その後の版では、その月はやや欠けた丸い月になっているという。
初版刊行後に、「三日月は、日没後2時間半ほどで西の空に没してしまうので、『ウシミツ』つまり午前2時から2時半ころ空に出ていることはありえない。これは間違いです」との指摘を小学校の教師から受けたという。
それで編集者は理科の図鑑を持って作者の斎藤隆介のところに行き説明して、斎藤は版を改めることにした。
調べると、二十日の月ならウシミツに空に出ていることがわかったので、「シモ月三日」を「シモ月二十日」に書き換えて、絵もそれに従って三日月から二十日の月へと滝平次郎に書き直してもらうことになったそうだ。1977年の改訂版から絵と文がそのように修正されている。
牟田の文章を読んでも、三日月を描いたのは、作者の指定だったのか、絵を描いた滝平次郎の感覚で書いたのかはわからない。
ところが滝平次郎が怒りにまかせて三日『文にあたる』ノート月の原画を破棄しようとしたが、滝平の妻がそれを止めたのでその原画は残っているという記事があった。(2013年4月24日付朝日新聞朝刊「幻のきりえ見つかる『モチモチの木』の原画」)
そのことから筆者が想像するに、滝平は物語の情景や流れをみてここは絵描きのセンスで三日月にしたのではないかと思う。それは天文学からみると間違っているにしても、滝平は自分の感覚を踏みにじられたと思ったのではないか。学術本ではなく創作物であるので、筆者は許されると考えているが、読者の皆さんはいかがであろうか。
たとえば、誰の絵画だったか忘れたが、背景にあり得ないほどの大きさの月が描かれている作品をみた覚えがある。それも指摘しようと思えば、そんな大きさはあり得ないということはいえるであろうが、余計なお世話だと思う。
モノの本には、爪のような細い月(旧暦三日頃と二十六日頃の月)は、日の入り後か日の出前の数時間だけ空に昇ると書いてあるそうだ。
ちなみにこの『モチモチの木』は2015年1月現在で158刷、累計150万部売れている。2020年度の小学校3年生の全ての教科書にも掲載されており、英訳もされている絵本だ。
『文にあたる』はこのほか〈好きな誤植〉、〈致命的な誤植〉、〈かんなをかけすぎてはいけない〉、〈読者に気づかれない間違いはない〉など校正・校閲を巡る50本のエッセイが収められており、どれもこれも思いあたることばかりで、校正マンの端くれであった筆者にとってはまさに身につまされる内容であった。