夢が叶って、さてこれから
夢って言うときっと本当はきらきらしていて、生きる目標みたいなものなんでしょうね。でも今回書く「夢」は、自分の中で薄暗さのある、非常にささやかで、ある意味幼児性のある、リアルの知り合いには恥ずかしくてあまり言いたくないようなものですが、それでも本当のことなので、一旦ここからまた始めたいと思います。
振り返ると、私の一番の夢というかどうしても欲しかったものは、平安な心の状態と安全でした。そこに至るまでに人生のほとんどの時間を費やしましたが、今では当たり前に享受できるようになりました。
かつて、毎年クリスマスイブの晩には、カトリック教会でミサに参加するのが常でした。
キリスト教なので神だのみというのはありませんが、いつも穏やかな心でいられるよう努力しますので見守っていてください、と祈ったものでした。(この時期になり思い出しました。)
もちろん、意識の上で欲しいと思ったものは他にもたくさんあります。お金で買えるものはもちろん、パートナーや家族、見返りを求めない愛情。ただ、その多くはトラウマによる執着からきていて、どこか捻くれたものがほとんどでした。
ほんの数年前までというのが驚きですが、、過去長期的に家族から受けた暴力による心の傷もまだ生々しく、その傷が癒えないまま執着が捨てきれず家族に媚を売っていた時代です。恐怖や絶望感、自己への攻撃や希死念慮が常に脳内で渦巻いていたのに理由がわからず、己の努力が足りないせいだと、不自由な頭であさっての方向に向かい尽力していました。
トラウマ治療以前には、平安な心を得ることはどうやっても無理でした。自分を攻撃し痛めつける因子が、私の中に居たからです。物理的に人から離れ鍵をかけ閉じこもっても、自分の中に残る虐待者のコピーが私のフリをして攻撃を続けているのだから、逃れるにはもう死ぬしかないと思っていました。
(当時、死ぬなんて言ったらダメだと言う人には、怒りを覚えたものでした。)
数年前すでに長い年月を生きていた私の一番の夢が「平安な心=苦しみと痛みから逃れること」だったというのは、どうしても恥ずかしい思いが伴います。本来なら成熟した大人になれるだけの時間を経ていながら、受動的というか、ただの環境に対する反応のみというのが、とても幼稚に思えてきてしまうのです。
怖くて間違えたり、逃れる方法を様々試しても都度挫折しては人生に絶望したり、当時は必死でしたが、トラウマがこれだけ知能を限定してしまうのを振り返り、愕然としてしまいます。
私の頭の中の問題を放置して外へ向かってもダメなんだとようやく認めるまで、ずっとずっと続けました。
最終的には、逃げるのではなく向き合うことで解消することができましたが。
(気付いて認めたらもうほぼほぼ解決しているというのは、きっと本当のことです。)
トラウマを解消できるまではそれに手一杯で、これまでの人生の中、能動的な目標や心の奥底からの希望をたった一度でも持てたことがあったのか、自信がありません。
心の中をよく見て精査する時期にきたのかも知れません。クローゼットを整理して見えてきたことがあるように、何か見えてくると良いです。
(ゆっくりそういうことにも着手できる環境にまず感謝しながら、クリスマスの良い日を過ごそうと思います。皆さまもどうぞ良い休暇を。)