植え付けられた虚偽のイメージを乗り越えたい
どうやら私は、気を付けていないと、体や心の不具合を、いとも簡単に、自分の一部として受け入れてしまうようです。わかりやすい例を出すと、倦怠感があれば私は体力がないからと思うし、偏頭痛が頻発すれば体質なのかなと思ってしまいます。それでいまだに、よほど酷くなるまで対症療法だけでやり過ごしてしまうことがあります。
これは現実の問題ではなく、心の中のイメージの問題です。過去に植え付けられたそんなイメージを、乗り越える必要があるんだと思います。
私は幼い頃から、家庭内で怖い思いや痛い思いをしていて、のびのびと元気に過ごせた時間を思い出せません。攻撃されていない時でも、いつまた暴力が始まるかと、常に張り詰めた神経で警戒していました。
消耗して、時に怪我を負った私に対し母は、「あなたはあまり丈夫じゃないから」と言いました。今想像すると、私が虚弱体質ゆえに一人で勝手に弱って寝込んでいると話をすり替えることで、家庭内の虐待をないものとしたかったのではないでしょうか。(きっとそうすることで、彼女の日常を保っていたのでしょう。)そして私も、彼女に迎合し、そのストーリーを生きました。私の弱さがお母さんに苦労をかけて申し訳ないと罪悪感を感じさえしました。
はたから見ればそんなバカなという話ですが、外の世界をまだ知らない子供にとっては、家庭が全世界です。加えて、私の方も意識下で、そんなフィクションでも現実よりは幾分マシだと決めたのかもしれません。
家族から信じ込まされた事実ではないこと、平たく言うと洗脳による歪んだ認知に気付かないまま、長い年月を過ごしてしまいました。
10代の終わりに物理的に虐待者たち(家族)から離れて以降、トラウマ起因の様々な症状(フラッシュバックや抑鬱など)と広義の自傷で疲弊するようになりました。それでもまともに見えるよう演技をしながら、時に放蕩で自分を誤魔化しながら、体にムチを打ち気力で生きていたので、常に生命エネルギーが枯渇していた有様でした。そんな経験から、体も心も弱い人間だという自己像が固定化されていきました。
全てはもう過去なのに、弱さのレーベルを貼られたまま、その弱さに納得してしまっている自分が今もいます。いまだに、自分の体力や能力を低く見積もって、活動をセーブしてしまう癖があります。
三つ子の魂と言いますが、人生折り返しという年齢になってなお、そんな家族の影響下にあるというのは、本当に腹立たしい、悔しいことです。
2020年に始まったトラウマ治療で心が快方へ向かうと、身体症状はかなり軽くなり、生きることはなんと楽なのだろうと驚きました。治る過程で、私の弱さの多くは人為的に作られたものだと気付きました。
どうやって残る虚偽のイメージを払拭できるか、考えています。自分のメンテナンスをしながら実績を積むのもひとつですが、もしかすると、またプロの手をお借りする方が早いかも、と思い始めています。