因果について
私は基本的に、人に恵まれているみたいです。
同僚はほぼ良い人ばかりだし、大学時代から仲良くしてくれる友人も数人いる。趣味の場所で出会った人達も、尊敬する人ばかり。
(家族やパートナーシップになると話は違いますが、理由はわかった今ではもう、同じ問題を繰り返すことはきっとないかと思います。)
今の人間関係は、少なからず過去の自分の言動でつくられています。もちろん、関わった方々の思いやりや優しさや寛大さによるところは大きいですが。
そう思うと、トラウマに翻弄されていた苦しい時代、不甲斐なく穴があったら入りたいような負の歴史の時代の私も、まんざらではないような気になってきます。
(過去は若干美化するものですし。)
怖くて言えなかったことや、逆にうっかり口走ってしまったこと。やろうとしたのにできなかったこと、なんとなくやってみたこと。どの言動が功を奏したかは、時間が経ってからやっとわかることが多い。
逆に人からしてもらったことを考えても、その時は腹を立てたような辛辣な意見が、後から思い出した時にターニングポイントとなっていたことに気付いたりします。
優しくされて助けられたこともあれば、一見優しそうな行為が実は落とし穴だったり。
突き放されてショックだったことが、後からそれが懸命な行為で最適解だったと知ったり。
張り合いがないと思った人の行為が、放っておくという優しさだったり。
ある人から、「misakiさんがあの時言った言葉で、こう考えるようになった。」と言われたことがあります。私自身、まるで記憶にない内容だったので、その方の中で変容しながら育ち、何かしらの養分になったのを、意外に感じたものでした。
きっと逆もあって、何気ない一言が毒となってしまうこともあり得るのかもしれません。
バタフライエフェクトという言葉がありますが、この世界の大きな出来事(良くも悪くも)というのは、数々のそう言ったものの先にできてくるのでしょう。
急に、オノ・ヨーコ氏の印象的な言説を思い出しました。悪とされる人物(確かヒトラーを例に出していた)は、個々の暴力性やその雰囲気の集大成、シンボルなのだと。小さなものが醸造されて世界になるというのは、私もそう思うところです。半径3メートルくらいしか手が届きませんが、全ての人々が全員、手の届く範囲を調和の取れたものにできたなら、良い世界ができると思っていて、まあまあのお花畑ですが、警戒モードが解かれた後の私は、人のそんな善性を信じているようです。