行動の源流が変化したこと

ある親しくしてくれている方が、お住まいのマンションの建屋にある共用の部屋を借り切って、クリスマスパーティを企画してくれました。
その部屋の使用料についてみんなが聞いても、「今回は私が待ちますから」とおっしゃるので、あまりしつこく聞くのもかえって失礼かと、今回はご厚意に甘えさせていただくことにしました。

持ち寄りスタイルのパーティですが、私も含めた10人の為に、基本的な飲食物や食器をご用意くださるとのこと。

その方はある研究で名を馳せているいわゆる「えらい人」ではありますが、決して偉ぶらず誰にでも分け隔てなく親切で、ユーモアがあり話が面白く、とても尊敬しています。

その方へせめてものお礼にと、以前思い出があると語っていたウイスキーをプレゼントすることにしました。高価なものなので参加者全員で折半ですが、買い付けとラッピングは私が引き受けました。

ふと、トラウマ治療前にも度々こうやってプレゼントを用意していたことを思い出しました。
その頃も楽しみな思いはあったかもしれませんが、いつも不安や焦燥感が凌駕してしまっていました。
これを渡したらどう思われるだろうかとか、自分がどう見えるかばかりを気にしていました。

見直されたい、感心させたい、惹きつけたい、認められたい、そんな過剰な自意識が根源にありました。相手の反応を通して私の価値を証明するというのは、相手を自分の目的の為のツールにしているということです。当時は、そんな自覚はありませんでしたが。

今では、相手の方が喜ぶものを考えること自体が楽しみで、その行為自体すでに完結しているので、もはやその時点で満足している構図です。副産物として相手の方が喜んでくれれば嬉しいですが、その二つ(自分の楽しみと相手の反応)は互いに独立しています。

誰かに何かをプレゼントするという行為は同じでも、その行為の源流にあるものは真逆の性質だったことを思い出すと、今のようになれたことがとてもありがたく思えてきました。