見出し画像

<私>論

 noteは多分3年くらい前から始め、気が向いたら書き、気が向いたら消してきた(今もなんとなくいくつかの記事だけを公開している)。書いたものをなんとなく振り返ってみると、私にとっては<私>がいつでもテーマだったようなので、<私>について現在思っていることを書いてみたい。

 来し方を振り返ると、いつでも他者の存在によって自分を規定してきた気がする。10代のうちは他者の存在そのものに内在している暴力性に怯えていたし、20代は自分の内にある不随意性や社会的存在が怖かった。この手の恐れが私を形作る全てであって、それでいて嫌悪感が常にあり、他人が気軽に手に入れているように見える<私>が私にないことこそが、私の根源だったように思う。

 <私>なんていうものが一体どこにあるのか。ありうるものなのか。
 <私>は私が所属している共同体(The We)にあるのだろうか。少なくとも私にとってはそうではない。結局のところは私もあなたも「火星の人類学者」なのである。共同体は私を形成していても、<私>は共同体に属していない。
 <私>はあなた(The you)との関係だろうか。これは共同体よりはあり得るかもしれない。しかし、上述した通り、他者の存在によって自分を規定することは、結局のところ<私>の根源性を見失わせただけだった。あなたは私を形成していても、私とあなたの関係性が<私>の全てではないのである。
 
 ではどうすれば<私>がありうるのか。他者への怯えでもなく、過去を語ることでもない。その差異が私を作るような、その根源が恐れを取り除くような、<私>という確信。この火星で生きるためには。25歳ごろからそんなことを考えるようになった。
 結局この問題は、私にとっては私を語る言葉の問題であったように思う。他者から与えられた傷だけが<私>だなんてダサすぎる。私は<私>のことを十分に語りたいのである。好きなものが何か、何に関心を持っているのか、そしてどんな人になりたいのか、せめてこんなことぐらい確信を持って語りたい。何者かになりたかったのではない。喪失を悼んで手放して、私は<私>になりたかった。

 結局のところ私は<私>を表現するために哲学を選んだ(それしか思いつかなかったともいえるが、それが重要なのである)。哲学はこのことについて考える最上のツールだった。これまでの人生で学んだ無意識の慣習を全て忘れ、新たに学び、書く。世界の実在を疑うこと、知識の正当性を疑うこと、私とあなたの関係性の前提を疑うこと、そのプロセスを経るうちに「これだけは」と思う主義に出会っていく。「これが正しくなければ世界は成立しない」という主義が、<私>の根源を作る気がする。<私>とは「世界とはこのようなものである」という主張のことである。共同体から生まれるものでもなく、あなたとの関係性によって規定されるのでもない。<私>とは哲学であり、思想であり、政治であり、科学である。それは主張と根拠と弁証法と、それを支えるより原始的な私から成る。

 この手の<私>を、成長途中ですんなり形成していった人たちに対する嫉妬心がないわけではない。特に、今でも他人から与えられた傷だけを<自分>としている人に出会うとそういう気持ちになる。そういう時の感情は圧倒的すぎて<私>を維持することができない。この世に特権があるとすれば<私>をすんなりと手に入れ、維持できることにある。
 それでも、<私>は揺れ動くものだし、<私>を形成する言葉は生まれ続ける。そして、<私>を形成する言葉は、共同体や、あなたとの関係性のうちから生まれてくるのである(共同体に属していなくても、全てではなくてもそうなのである)。そのことに気づいたとき、共同体に属していること、あなたとの関係性が維持されていることを、私は祝福できるようになったように思う。あなたもいつかそうなるならばとても嬉しい。

 他人の言葉ではなく、自分の言葉で語りたいという小さな願望がある。一度は失った<私>のため、そして<私>を失っているあなたのためにも、私たちが<私>の言葉を生み出すために書くことができればこれ以上の幸福はない。


焼肉が食べたい…!!