アウトライン
小さな部屋の中で、男と女が向い合って座っている。何の変哲もない掛け時計の秒針の規則的な音と男の机をトントンと指で叩く不規則な音が部屋の中によく響く。加えて時折、男の足を組み替えた時の衣服が擦れる音や、男のこれみよがしなため息の音がする。女の方は瞬き以外ほとんど目立った動きは見られなかったが、男の何度目かのため息の後、唐突に口を開いた。
「――ですから、言葉では説明が出来ません。私に出来ることは、「理解出来ない」ということを説明することだけです」
男の様子を全く意に介さず、女は憮然とした表情でそう告げた。
「……わかった。じゃあ、何でも良いから、関係ありそうだなってことだけ説明を。後はこっちで適当に何とかするから。」
根負けしました、降参ですとでも言いたげに、男は投げやりな調子で言った。
――――少し待って下さい。思い出しながらになりますから、長くなると思います。
――私は虫が嫌いだった。虫っていうのは、生き物の癖に何を考えているのか分からない。細い足や不快な羽音も勿論だが、あのコマ送りで動いているような動作が何よりも苦手だ。私にはなんだか機械が生き物の振りをしているみたいで、それがとても不気味だった。あんまり虫を怖がるものだから、私の兄と姉は――その内のほとんどが兄によるものだった気がするが――そのことについて幼少の私をよくからかった。
「じゃあ、鳩とかもやっぱり苦手?」
紗陽はおどけたような感じで言った。その感じが兄に似ているような気がしたが、こっちはあまり腹が立たないから不思議だと思った。
「なんでいきなり鳩なの?」
「いや、あいつらの機械らしさもなかなかだと思うけどね……一つ一つの挙動で毎回どこかしらの骨を折っているんじゃないかと心配するくらいの不自然さがあるよ」
「そんなにひどいかな……」
「まあそんなにはひどくないね」
学校から駅までの帰り道、こうして紗陽と他愛もない話をするのが私達の日課だった。学校では夏休みが明けてそろそろ文化祭の準備が始まろうとしているというのに帰宅部の私と紗陽は今日もいつも通り悠々と帰宅していた。その途中、刺される事こそなかったが、周囲をゆらゆらと浮かぶ足長蜂に因縁を付けられて数分足止めを食らう事になったのは、いまいち青春謳歌に対してやる気のない私達への罰だったのかもしれない。余計なお世話だと思った。
「紗陽は文化祭何か準備とかないの?」
「準備ねえ。私達まだ2年だし、あんまりはしゃいだ事はないんじゃないかな。クラスの出し物とかはシノもやるでしょ?」
「シノ」とは私の苗字「東雲」からきた愛称で、この呼び方で呼ぶ友人はせいぜい数人程度だ。私はどうも浅い付き合いというのが下手なようだし、本音ではそんなに友達の数ばかり増えても、と思っていることもあって、交友関係は比較的狭い方だ。紗陽は私とは対照的に要領がよくて頭の回転も速く、聞き上手なので友達は多い。そして友達が多いと、その分「付き合い」というやつが当然増えてくる。私は今年の文化祭も、てっきり去年みたいに各方面から引っ張りだこの紗陽が見られるものだと思っていた。
「いや、正直去年の件は結構反省していてさ。人間身の丈にあってないことをすると碌な目に合わないと思った」
「紗陽は時々変に達観したことを言うよね」
駅は吹きさらしになっていて、電車を待っている人の為に数個だけ作られている椅子に座りながらでも雲一つ無い青空がよく見えた。向かい側の乗り場に、線路に落ちてしまった人が電車から避難する為のスペースがいくつかあって、その内の一つにほとんど枯れた向日葵が首の折れた死体のように横たわっていて、周りには蝿が集っている。駅についてから10分程で電車は到着し、私と紗陽はその電車に乗った。
「あっ……何も考えてなかったらこっちの電車に乗っちゃったけど……特に用とか無いよね?」
「うん。テスト明けで結構遊んじゃったし。あとは文化祭にとっておこう」
この路線は、一方に行くと段々都会になっていって、反対側に行くと段々と景色から建物が消えていくという分かりやすい構造になっている。私達が向かっている方向とは逆側の方向にある街を中心にグラデーションを描くように発展しているから、高校前の駅から寂れた方が私達の帰る方向で、少し遊んで行くときは逆の方向の電車に乗る必要がある。
電車はがたがた、のろのろと進んでいく。乗客はまばらで、学生と老人の割合が半々く らいだろうか。こんな頼りない電車でも、坂が多く風の強いこの町ではそれなりに役に立つ。高校入学の時、兄のお下がりの自転車で通学しようとしたことがあるが、体力に自信のない私が4駅分の自転車通学に嫌気が差すまでそう長くはかからなかった。電車通学万歳である。
「さっきの話だけど、じゃあ紗陽はさあ、虫とか苦手じゃないの?」
「得意じゃないだろうね。でもこんなところだし、虫っていっぱいいるからね。いちいち苦手にしてたら疲れるし、あんまり気にしないかな」
「私だって好きで虫嫌いやってる訳じゃないんですけど」
「そりゃあそうだ」
「便利か不便かで好き嫌いが決められないから困っているんだよ」
「うーんでもねえ。何考えてるかわからない部門ならそこそこ激戦区だと思うけど」
「例えば?」
「シノとか?」
紗陽がそう言って笑うと黒漆喰のように滑らかな髪が少し揺れた。
空閑紗陽。高校二年生の17歳で、誕生日は7月12日。身長は160センチ代後半でスラっとした体型、色の白い肌と真っ黒なミディアムショートが和風の美人って感じだ。一方私の髪は、今日みたいなじめじめした日には炎のように荒れ狂う。私の髪は紗陽の髪とは真逆で、茶色がかっていて最上級に頑固なくせ毛だ。夏の間は短くしていた為毎朝のように爆発していたが、今はもう伸ばし始めていて、後もう少しで肩にかかる位の長さになるだろう。秋が終わる頃にはこのくせ毛も多少はマシになっているだろうか。霧吹きで髪を濡らして、ドライヤーで乾かして、保湿剤を塗って、また乾かしてという行程をダラダラとこなす間、私は洗面所の鏡の前で、昨日の紗陽の綺麗に整えられたボブカットを思い出していた。自分の体質にうんざりする気持ちは、自分にはないもののことを考えて羨ましがることにより紛らわせようという算段だったが、かえって惨めな気持ちになった気がする。そんなに出来の良い性格ではなかったということだろう。髪を整えた後も依然として緩慢な動作で支度を済ませて、眠い目を擦りながら学校に向かった。
私の通う高校は、なんと言ったら良いのか、説明に困るくらい普通の高校だ。共学の普通高校で、校風は文武両道で、偏差値は中の上くらいで、毎年十人から二十人くらいはそれなりに名の知れた大学に進学する。武の方といえば、偶に県大会で優勝する部活も出てくるが、安定した成績を収め続けるくらい強豪という訳でもない。私は二階に上がって自分の教室に入ると、既にたくさんのクラスメイトが各々の仲良しグループでまとまって談笑していた。どうやら私は下から数えたほうが早いくらいの順位だったらしい。日頃から仲の良い友人との挨拶もそこそこに、そそくさと席につく。そういえばこの高校は私服高なのだが、皆私服で登校するのは一年生最初のゴールデンウィークくらいまでで、それ以降はほとんど制服みたいな格好で学校生活を送るようになる。制服を着ることができる最後の期間だからとか毎日私服を考えるのがめんどくさいだとか、皆口にする理由は様々だが、結局のところ高校生の身分である以上は、私服校でも私服の学生は少し浮くというか、まあ目立つのだ。取り分け女子の間ともなると、やはりスクールカーストなるものはどこの学校にも少なからず存在するもので、私くらいの地位で気合を入れたお洒落な格好をしていこうものならばそれなりの風当たりが待っているというものだろう。そういうのが許されるのは紗陽周辺の上位グループくらいだと思う。私は黒板近くの入り口の方に固まって楽しそうに談笑している紗陽のグループを見ながら、そんな卑屈なことをぼーっと考えていた。ほどなくして先生が入ってきて、クラスのホームルームが始まった。もうすぐ台風の季節だから、気をつけて過ごすようにだとか、そんな感じの当たり障りのないことを先生は言っていたような気がする。
いつも通りの高校生活が、徐々にそうではなくなってきたのはこの辺りからだと思う。三時間目の数学の時間、クラスの大体真ん中くらいの私の席からふと右斜め前の方にある入り口付近の紗陽の席に目をやると、紗陽は前の生徒から隠れるようにして辞書を引いていた。いや、引いているというよりも一頁ずつぺらぺらと捲っていて、斜め読みしているようにも見えた。5時間目の英語の予習だろうかとも思ったが、辞書の表紙の色からして学校指定の英和辞書ではないようだった。私は視力には自信があったから、さらに目を凝らして辞書の文字を読み取ろうとしてみる――国語辞典のようだ。紗陽は数学が学年でも成績上位をキープするほどに得意だから、授業中他の科目の予習をしていようが誰も文句は付けられないと思うけれども、それよりも辞書を斜め読みするという行為が私には気になった。少なくとも私は、辞書を真面目に一頁ずつ捲って眺めるなんて行為は、最初に教材一式を購入し、その日の夜にすることがなくなってなんとなく一式をひと通りぱらぱら捲った時くらいの経験しかない。ましてや紗陽は数学の授業はどちらかというと真剣に聞いていた方だったと思う。この違和感は頭の隅に残されたまま、私は普段紗陽とは別グループで話すことが多いためゆっくりと話ができる放課後まで持ち越された。
放課後になり、私は紗陽に今日は予定がないかどうか確認した。紗陽は調べ物があるとかで図書室に寄って行くから、先に帰っておいて、と言った。そのまま帰っても良かったが、やはり今日の紗陽の様子は気になる。私はそれなら私も図書室で待っていると伝えた。少し鬱陶しかっただろうか。
この学校の図書室は普通の教室より一回り小さいくらいの、小ぢんまりとした部屋だ。その分至る所のスペースを活用しようと躍起になったように本が敷き詰められていて、多少混沌とした印象を受ける。紗陽はその中から色々な本を手に取って、パラパラと捲り、本棚に戻すという行為を繰り返していた。私はその間、読みかけの小説の続きを読もうと思って持ち歩いていた本を開いたが、紗陽の様子が気になってあまり没頭する事は出来なかった。
一時間弱程紗陽は調べ物をしていたが、途中で諦めた様で、受付前の小さな椅子で本を読んでいた私に声を掛けた。
「どうだった?」
「いや、結局目当てのものは見つからなかったよ……行こうか。結構待たせちゃったね」
「わかってるでしょ。私が勝手にやってた事だから、そういうのは気にしない」
紗陽は何処か虚ろな感じで、心のここにあらずといった様子だった。私は何となく話しかけ辛くなってしまい、昇降口を出て、校門を通り過ぎてもしばらくは無言で紗陽と横になって歩いていた。
「多分私は頭がおかしくなったんだと思う。私は発狂したんだ」
全く予想していなかった紗陽の言葉に、私は正直どう反応して良いかわからなかった。まるで会話の仕方を忘れてしまったみたいだ、と思った。ある日いきなりどこか遠い辺境の島で現地人に話しかけられたとしても、この時よりはもう少し人間らしい反応が出来たと思う。昨日と同じ道を、私は数学の時間の件をなんと聞いてみたら良いだろうかと思案して歩いていると、丁度昨日足長蜂が出た辺りに差し掛かった所で、唐突に紗陽はそう言った。
「正確には違うんだけど……こういうのが一番分かりやすいっていうか……他に説明できる言葉が見つからなくてさ」
「えっと………うーん……どういうこと?」
狼狽する私を見て、紗陽はひどく居心地の悪そうな笑顔を浮かべながら続ける。
「ごめんね――いきなり変なこと言って。でも、やっぱり晴香には言っておきたかったんだ。――ちょっと’’タンポポ’’寄って行かない?」
晴香とは私の名前で、そう呼ぶのは家族くらいなものだった。そしてタンポポとは駅前から数分歩いたところにある小さな喫茶店のことで、私と紗陽が頻繁に利用している店だ。私は初めてこの店に入った時、なんだか実家のお祖母ちゃんの家に雰囲気が似ているなと思った。それくらい素朴というか、野暮ったさのあるお店なので高校生の利用客は少ない。でも私と紗陽はタンポポのそういうところが結構気に入っている。
店の一番奥の席に座って、紗陽はコーヒーを、私はレモンティーを注文した。私も普段はコーヒーとかカフェモカとかを注文するのだけれど、今は何となく喉が乾いている気がしたので爽やかな飲み物が欲しい気分だった。すぐに飲み物が出揃うと、紗陽はミルクを入れたコーヒーを混ぜながら話し始めた。
「例えばさ、大昔の人々って結構皆んな神様を本気で信じてたと思うんだよね。――世の中は神様が作ったもので、神様の教えに従って生きていくことが良いことだ。――で、神様の教えを守っていることで様々な形で救われるっていうのが当時の人々にとっての’’当たり前のこと’’だったと思うんだけど、それは今ココで生きている私達の常識とは違う」
コーヒーを一口飲んで、紗陽は続ける。
「私達は地球が太陽の周りを回っていることを知っているし、地球が丸くて青いということを知っている。――――神様はいるかどうかはわからないけれども、それほど現実の物事は神様中心で動いている訳ではないということをなんとなく思い始めている。それは多分、科学とか医学とか、新しい物差しで世界を捉えるようになったから。物差しとか世界の捉え方が違うと、世界の見える範囲とか見え方が変わってくるの。どんな物にだって、必ず複数の見方が存在するからね。だから私達は、大昔の人たちとは多かれ少なかれ世界の捉え方というか、見え方が違うの」
普段の私なら、若しくは相手が紗陽でなければこの辺りが限界だっただろう。堪らずストップをかけたか、真面目に聞くのを止めてケーキの一つでも頼もうかなと考え始めたはずだ。しかし――これは単なる後付の脚色なのかもしれないが――いつになく真剣な紗陽の様子は、なんとなく以前とは違うものを感じさせたし、普段の紗陽でない紗陽と相対していた私も普段の私ではいられなかった。それに、紗陽は冗談を好むが、他人を困らせる笑いや他人の欠点を笑いの種にするような笑いが大嫌いだった。その辺りの見極めはとても気にする性格なのだ。だから、この話もきっと重要なことなのだと私は思った。
「言っていることはなんとなくわかる……と思う」
確かに、大昔の人と今の人の価値観が全く同じだとは思わない。言語の壁がなかったとしても話が合うかどうか微妙だろう。人は色んな事を考えたり解明したりした。その中で素晴らしいものは多くの人びとに広まって、現在まで受け継がれている。簡単に言えば人類は今に至るまで少しずつ進歩してきました、ということだと思う。
「うん。それで、私の物差しが劇的に更新されたの。今の晴香の物差しが3世代目のものだとしたら――つまり今の時代の人々がよく使っている物差しのことだけれども――私の物差しは一気に7世代目くらいのものなんだと思う。これはあんまり自信ないからあてにしないでね。飽くまでも感覚的に、だから。ともかく――それ位大きな隔たりがあると頭の中とか、物の見方を言語で説明することはほぼ不可能で、側から見たらとてもおかしな人に見える。だから今の私を端的に言うと、狂人なんだと思う」
動物によって認識できる色の種類が異なるとか、そういった話を私は思い出した。紗陽のコーヒーカップは赤い液体で満たされていて、私の周りにはレモンティーの弱々しい香りが微かに漂っていた。
会計を済ませ、駅に向かい、電車に乗り、私が降りる駅の一つ前の駅で紗陽が降りる時にまた明日と交わすまで2人は殆ど無言だった。家の中にいる間、夕飯を食べながら、木製の簡素な勉強机の前で、そして2段ベッドの中でも私はぼんやりと駅での会話を思い出していた。――人はどんな時に自分は狂人だ、などと告白するのだろう。紗陽の目はやっぱりとても冗談を言っているようには見えなかったし、冗談だとしたら、私には紗陽の口からあんな詰まらない冗談が出てくるとは到底思えなかった。ではどうしてあんな事を紗陽は言ったのだろう。何か自分は狂っていると思わざるを得ないような、取り返しの付かない事を紗陽はしてしまったのだろうか?それとも本当に心を病んでしまったのだろうか?精神病とはまるで風邪を引くみたいにある日突然なるものなんだろうか?或いはより分かりやすく何処かに頭を強く打ち付けたりしたのだろうか?そういえば、元々は辞書の話について聞こうとしていたんだっけ。紗陽の告白を聞いている間、ただ黒い靄でしかなかった感情が、冷静さを少し取り戻したことで疑問となって次から次へと浮かんできた。そこから更に冷静さを推し進めて、思考を整理していく。紗陽は自分を狂人だと称したが、それは妥当な言葉が他にないからだと言っていた。世界の見え方が変わったとも言っていた。これだと何だか紗陽がカルトな宗教にはまったみたいだ。けれども私に対してそれらしき勧誘はなかった。熱心な狂信者ならすることは勧誘と相場が決まっているし、友人を侮蔑するみたいで、この考えはあまり気持ちの良い考えではなかった。兎に角今はまだ結論を出すには材料が少なすぎる。明日、もう一度紗陽に詳しく聞いてみようと思った。
その夜に見た夢は、普段私が夢をあまり見ない――見ていたとしても覚えていなければ、それは見ていないことと同じだ――ともあってよく覚えている。電車の夢だった。視点は線路上に固定されたビデオカメラのようで、遠くからこちら側に電車がやってくるのが見える。映像に映る全てのものは倍速でぬるぬると動いていて、特に電車の動きがまるで蛇みたいに気持ち悪かった。線路が曲がりくねっていなければあっという間に電車はこちらまで到達しただろう。線路は私の40メートル程前で二手に分かれており、やがて電車はそこに差し掛かる。電車はそこで急にピタッと止まったかと思うと、二呼吸程置いてさらに倍速で私のいる方向に走ってきた。電車に跳ね飛ばされ視界はめまぐるしく回転した後、私は向日葵になっていた。
――――町は重厚な雲で蓋をされていて、息が詰まりそうな朝だった。昨日に増して湿っぽくて不自然に少し冷えた空気が、天気予報を見るまでもない位くらい明確に「これから雨が降りますよ」と告げている。くせ毛のことを除けば、雨は嫌いではない。真冬の、毎日のように降る雪のバリエーションの一つみたいな雨は流石に気が滅入ってくるが、これくらいの季節に降る雨であれば気温を適度に過ごしやすくしてくれるし、住んでいるとこういう天気こそこの町の本性みたいに思えてくる。私は忘れずに傘をしっかり持って、身支度をして、学校へ向かった。
その日の学校での紗陽は、いつも通りの紗陽だった。授業で真面目にノートをとる姿も、クラスメイト達の昨日何があっただとか誰々がどうしただのという話に、色鮮やかな反応を見せたり小気味良い返しをしたりする姿も、まるで普段通りだ。やっぱり昨日の話は冗談だったのだろうか?昨日のことを考えるとどんどん不安が膨れ上がっていくので、私は放課後まで、なるべくそのことを考えないように努めた。
「紗陽」
私は下駄箱から自分の靴を取り出そうとしていた紗陽に声をかけた。気温が少し低くなってきたため、紗陽はいつの間にか紺色のカーディガンをYシャツの上から着込んでいる。
「昨日の話なんだけど………」
「うん」
紗陽は昨日と同じ様子で答えた。
「お前はいつか人を殺すぞ」
「うん。正直よくわからなかった」
「じゃあ今度は駅まで歩きながら話そう。今日は雨が降っているから、昨日と逆にすべき だったね」
紗陽は水玉模様の傘を開きながら言った。この辺りの道路は最近舗装されたばかりで濃い紺色をしており、それが雨に濡れてパンパンに詰め込んだ黒い厚手のゴミ袋のようだった。私も自分の、これまた兄のお下がりである青地の無愛想な傘を開きながら紗陽の後に続く。
駅までの道はあまり人通りがなくて、人目をそこまで気にせず話すことができた。出来ればあまり人前で話したくない話題だったので、都合が良いと思った。外は雨が降っていて、さあさあとした音が辺りを包んでいた。幸い風もそれ程強くないようで、両手でしっかりと傘を握りしめる必要はなさそうだな、と思った。
「紗陽、何処かに頭を打ったりとかした?それとも悪い宗教にはまったとか?昨日はあんなこと言ってたけど、やっぱりよく分からないよ」
耐え切れなかった、と思った。昨日の紗陽の告白は思っていたよりも私を不安な気持ちにさせていたようだ。結果、友人を尊重する気持ちよりも、友人を心配する気持ちの方が勝ってしまった。気を悪くしてしまったらどうしよう、と私は言った直後に後悔していたが、紗陽はいつにも増して柔らかい調子で答えてくれた。
「やっぱりそう思うよね――大丈夫だよ。私はどこか怪我をしたとか怪しい人に洗脳されたとか、そういう外的な要因によっておかしくなった訳じゃない、と思う。心配かけてごめん」
傘をゆるゆると回しながら、紗陽は続ける。
「昨日電車を降りた後にね、失敗したと思ってた。あんな事を突然言われたら、晴香を心配させてしまうよね――今私がどういう状態かということよりも先に、原因の方を先に話すべきだったよ」
「じゃあ、どうしてあんな事を」
「それがね……実を言うとよく分からないんだ。ただ憶えているのは、一昨日の夜中にふと、目が覚めて、目の前が真っ白な光に包まれているのを見た、のかもしれないし頭の中がジリジリとノイズでゆっくりと満たされていく感覚を味わった、のかもしれない。色んな体験をしたのかもしれないし、何も起こってないのかもしれない。ただ、その夜以前の私とその夜以降の私を決定的に別の存在にしてしまう、事故のようなものが起きたことだけが確かで、その事故を私はどのような形で体験したのかは説明できない――そう事故。事故っていうのは、結構正確な比喩だと思うよ」
つまり、つまりはどういうことなのだろう。紗陽の頭の中で偶然、唐突に『何か』が起こって、それが紗陽の中の何かを大きく変えてしまった。そういうことなのだろうか?
「人間はその知識を発展させて、わからなかった事を理解してきた。理解できる事が増えれば、それを元に新たなわからない事がまた出てくる。それと同時に人の認識は少しづつ変化していったんだけど、ここで一つイメージして欲しいのが、最初から膨大なわからない事があって、そこに人が理解したことが広がっていくイメージ。真っ白で広大なキャンパスを、端っこの方から順番に書き込んで埋めていくイメージ。私は――というより私の意思は――順番を無視してそのわからない事の彼方へ事故かなにかで跳ね飛ばされたんだ。だから今の私は、今の人類から見て『わからないことさえわかっていない』という位置に存在してるんだと思う。キャンパスの書き込みが私の位置にまで到達して、私が書き込みで満たされて初めて、私の認識や思考は理解される」
「それは……精神疾患とか、脳の異常とか……そういうもの症状の一種という可能性はないの?」
私は精神医学とか、脳科学とか、そういうものに関して全く詳しくない。でも、話を聞いている限りでは紗陽の言ってることがそれらの分野に関わる可能性も十分考えられるだろう。もしそうであるのならば然るべき治療を受けるべきだ、これは当然の助言なのだ、と私は自分に言い聞かせた。
「そうかもね。うん……多分そうなんだろうな。実際にそういうところで診察を受けたら、何か一つくらい私の症状が該当する病気があるんだろうね。でも、これはきっと治らない。治るとしたら、治った私はもう以前とは違う新しい私だと思うよ」
駅のホームに着いて、定期券を改札に通した後、紗陽が大丈夫?と聞いてきた。どうやら私がよっぽど難しい顔をしていたようで心配したらしい。駅にも人はあまりいなかったが、その代わりに乗り場には沢山の人慣れした鳩が、人間の肉を啄む隙を狙って歩き回っている。
「ごめんね。こんなに変な事ばかり言ってしまって。別に晴香を困らせて面白がっている訳ではないんだよ。ただ――私が、私の頭が、何だかよくわからないものになってしまったってことを知って欲しかったんだ。私の話を真面目に聞いてくれるの、晴香だけだからさ」
「やっぱり……変だと思う………紗陽が今どうなっちゃってるのかはわかんないけどさ、こうして普通に会話出来てるってことは、紗陽は変なんかじゃないと、私は思う」
自分でも支離滅裂なことを言っているな、とは思った。けれども、そう見当外れな疑問でもないとも思った。紗陽は努めて平静を保っているようには見えないし、話し方も不自然さを感じさせる何かがあるようには思えない。それこそ、こんなことを言われなければ私は今まで通り普通に紗陽と会話していただろう。
「記憶があるからね」
紗陽は目を伏せて、申し訳無さそうに続ける。さっきから私の様子は参っていく一方だっただろうから、紗陽は辛かったのかもしれない。私はそれに対して逆に罪悪感を感じた。
「以前はどうやって考えていたかとか、どう話していたとか。自転車の乗り方みたいなものなんだろうね。一度覚えたら簡単には忘れない」
「じゃあ、紗陽が今どう思ってるとか、何を感じたとか……つまり『今の紗陽』とはもう、話せないってこと……?」
口に出しながら、私は自分の言葉の意味を考えようとして、やめる。私は一体何を馬鹿なことを言っているのだろう。そう考えることで振り払う。私は今、一体誰と話しているのだろう。何かが、私の手から零れ落ちて消えていくような感覚。
「なんか怖いね。それって。とても辛いことだと思う」
「ありがとうね。そう思ってくれるだけでも嬉しいよ」
――電車が到着し、私と紗陽を運ぶ。電車は一駅、二駅と通過していき、次の駅で紗陽は降りる。雲の幕が降りている間にも、滞り無く夏は終わっていく。
――――文化祭の準備が始まって、あと残り二週間程というところまで、紗陽はいつも通りに振舞っていた。宣言通り去年よりも控えめではあったが、準備の方にも精力的に参加していたし、ステージパフォーマンスの方では創作ダンスをやるとかでクラスの方も徐々に盛り上がりを見せ始めていた。
――――それから、紗陽が死んだ。放課後、校舎の三階からの落下による、脳挫傷だそうだ。部活動の為学校に残っていた複数の生徒達の目撃証言によれば事故とも自殺ともどちらにも取れる様子だったらしいが、遺書らしきものが見当たらなかった為警察は事故と断定した。紗陽が死んだことを翌日朝のホームルームで――実際には生徒たちの噂が広まっていて、全校生徒の半分くらいは既に知っていたようだったが――担任から改めて知らされた時、私は驚く程冷静だった。事件当時、私は3階の図書室で精神医学について何か参考になるものはないか調べ物をしていた所に騒ぎを聞きつけて、と言う形で死亡事故の現場を目撃していた。開いた窓ガラスの周りには複数の生徒たちが群がっていた。私はそこから少し離れた窓から、横たわる誰かの体を見たことを覚えている。すぐに校内放送で全校生徒への帰宅命令が出されたため、その体が誰のものであるのかはわからなかったが、きっと心のどこかではこの事実を予感していたのかもしれないな、と思った。同時に、ただただ胃の中を鉛のように重たい空気が満たしていくのがわかった。
紗陽の葬式には、クラスメイト全員が参加した。紗陽の両親は身内だけで慎ましく式を行うことも考えていたそうだが、紗陽と仲が良かった友人達から先生を経由して意向を伝えたところ、紗陽も数多くの友人に送られるなら本望だろうとのことで、そのような形となったのだそうだ。クラスメイト達は悲しみを堪え切れず涙する者や、慎み深く喪に服す者がほとんどだったが、私はぐるぐると同じことを葬式の間ずっと考えていた。無意味とわかっていても紗陽のことを考えてしまう自分の頭は、何一つ噛み合わないことも相まって、軽妙に空回りを続ける歯車のようだった。
紗陽が死んだのは本当に事故だったのだろうか。これから誰とも心通うことなく、他人の期待する紗陽を、記憶と知識を頼りに作動させることに絶望したが故の自殺だったのだろうか。それとももはや死ぬことすら紗陽には私達とは違って見えていたのだろうか。紗陽にとって墜落死よりも大切な何かを優先した結果が現れただけなのだろうか。あの、紗陽の語っていた『事故』とは、普通の女子高生だった紗陽に起きなければならないものだったのだろうか。私には紗陽の死んだ理由は理解出来ないという確信を持ちながら、力無く妄想することしか出来ない。それでも、何か出来たのではないか、助けになれることがあったのではないか――どうしてもそう思ってしまう。私は、何も出来なかったのだから、何もしてあげられなかったのだから、こういう考えは傲慢だろう。そしてそう思ってしまう自分が気持ち悪くて、醜いと思った。醜いと思ったから、そういう後悔を何度も何度も捨てようと思ったのに、出来なかった。
紗陽はきっと全部最初からわかっていたように思う。自分の死も、それで私が罪悪感に苛まれることも、あの告白の時に全部わかっていたんだと思う――こんな感じで何度も考えてみたけれど、こういうのもやっぱり自分の都合の良い妄想でしかない。私のすべきことは、紗陽の事は私には永遠に理解出来ないという事を忘れないことだ。紗陽を都合のいい解釈で上書きせず、紗陽を紗陽のまま忘れないことだと思った。だってあの告白は、――――つまりはそういうことだと思うから。
その後の高校生活のことは、あまり覚えていない。文化祭は日程が後ろにずれ込んだものの、天国の紗陽に届くような素敵な文化祭にしようとかそれらしい口上を並べて、なんだかんだクラスメイト達は充実した思い出作りに励んでいたと思う。それを薄情だとか、残酷とは私は思わなかった。文化祭の私と言えば、スクリーンに映し出される自分を遠くから観ているような気持ちで、ただその時間が過ぎるのを待っていたように思う。文化祭が終わった後も、高校を卒業しても、大学を卒業して、地元の適当な民間企業の事務員に就職しても、それは変わらなかった。まるで魂が抜けてしまったみたいに、脱け殻として日々を過ごしていた。これは今、当時を振り返っている私の感想だから、実際はそうでもなかったのかもしれない。しかし、この期間のどの記憶を手にとって鮮明に思い出そうとしても、まるで分厚いガラス越しに眺めているかのように他人事なのだ。
そうした生活が――例え見かけ上は同じだとしても――変わったのは去年の春頃だった。私は、あの倍速で動く電車の夢によく似た夢を見た。前の夢と違ったのは、今度は電車が私のいない方の線路を走っていった点だ。私は向日葵になることなく、茫然と線路を眺めていた。それがきっと、何かの引き金だったのだと思う。夢はここで終わり、私は目が覚めると、私は以前の私とは違う「私」になっていた。恐らくはあの、紗陽をどうにかしてしまった現象が、私にも起こったのだと思った。紗陽にどういう現象が起こったのか、未だに私にはわからない。当時の紗陽の言葉をヒントに独学でそれらしいものを探ろうと何度もしたが、結局分からずじまいだった。だからこれも結局は想像でしかないが……私にはそう思えてならなかった。あの、紗陽にとって何の意味も持たなかったかも知れない奇跡が、私を救ったのだ。そう思えてならなかった。
――――語るべきことはこれで終わりましたから、お話もこれで終わりです。参考には、ならなかったでしょうけれども。
机を挟んで私の向かいに座っている刑事は、困惑した表情で頭を掻きながら、これはどうしたものかと唸っている。暫くして、耐えかねたように口を開いた。
「あー……それとあんたのやったことと、何の関係が?」
――――やや磨り減り始めたアスファルトの上を、使い古された軽自動車が走っている。車種は国産の中型セダン。助手席ドアミラーに補助ミラーがついていることから、おそらく覆面パトロールカーだろう。若い男が運転する横で、うぐいす色のよれたスカジャンを着た初老の男がシートベルトを窮屈そうに締めている。
「珍しいですよねー女性の殺人事件」
「まあ実刑は免れんだろうなぁ」
「そうですねー特に反省も見られないし、精神鑑定もパスしましたしね。えーっと東雲……晴香でしたっけ?あいつ刑期なんて如何にもどうでも良いって感じですよ。何なんでしょうね?不思議ですよ、あんな美人なのに。世捨て人か、それとも今流行りのサイコパスってやつなんですかね」
「覚えたばかりの横文字を使うな。恥かくぞ」
そう言って初老の警官はカーラジオをつけるが、ニュースで今の自分達と全く同じ事件について報道されているのを聞くと、舌打ちをしてすぐに消した。チャンネルを変えたら良かったのかもしれないが、もう一度ラジオをつけるのは少し億劫だったし、どうせどこも似たような報道をしているだろうと思い直した。
「特に過去に何かあったって訳でも無さそうですし、これはマスコミ大はしゃぎでしょうね。幾らでも好き放題言えて正に極上の素材ってやつですよ。なんたって美人と凶悪犯と政治家は奴らの大好物ですからね」
初老の刑事はどんどん表情を渋らせていくが、若い方の刑事は全く悪びれず続ける。
「お前な……はしゃぎ過ぎだぞ。もっと市民の安全を守る警察としての自覚をだな……」
「あはは……すみません。でもやっぱりわかんないですよね。なんで人殺しなんてしたんでしょ?元々そういう人間だったってだけですかね?追川さんはどう思います?」
「わかんねぇよ。他人様が何考えてるかなんてな。俺らは警察に割り振られた仕事をしてりゃ良いんだ。そうすりゃ万事上手く行く」
「なるほど!流石先輩って感じの意見っすねー!頼もしいです!」
「おい、そこを右だ、右」
「え?こっちは遠回りですけど」
「動機の方はまだ掛かりそうだからな。流石に動機は全く御座いませんじゃ通らんだろう。それらしいもんを取っ付けなけりゃいかん。一仕事終わったんだしそれまで一服したって罰は当たらんさ。ちょっとばかし野暮ったい店だが一杯くらいはおごってやる」