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小説|十七月の歌 1/6

病めるものに世界は微笑む

レールを外れた十七月、僕は世界が微笑むことを知った。穏やかな陽気に甘い香りが漂い、目をやれば若葉や柔らかい花々、それだけのことで僕の心は大きく揺さぶられた。それと歩調を合わせるように、芸術の中に呼吸できる場所を見つけ、それからというもの、希死念慮を吹き飛ばすような生の肯定を探した。僕はそれを生の芸術と呼んだが、不死を叶える石のように存在しなかった。

両親は山羊と狂犬だったといえば説明しやすい。その関係は年々悪化し、テーブルが折れ、窓ガラスが割れ、僕は居心地が悪かった。山羊は女を作って帰らなくなり、狂犬は僕の大学の入学費を使い込んでいた。

不意に僕は投げ出された。それは現実が溶け、認識のフレームを失った瞬間だった。僕は、何をしてゆくかという問いに答えられず、友人らの不自由ない境遇に苛立ち、孤立し、居場所をなくしては図書館や森に逃げ、知識を得ることで不安から目を逸らしていた。しかし、恐怖症の発作に襲われるようになった。それは夢や空目に見る獣に起因し、扁桃体を直接刺激するような恐怖を与え、歯をガタガタと揺らした。

その日々においてひとつ支えとなったのが、甲浦という街だった。四国でたまたま滞在したその街は、トンネルを越えた終着駅にあり、野晒しの高架から、小さな街と、森に切り取られた海とが見えた。僕は通路に留まって、山と海の間でひっそりと息をする街を眺めていた。不思議なことに、まるで長い長い旅から帰ってきたような気分なのだった。――一体、この街の何がこんな気分にさせるのだろうか? 悠然と佇む山々と、洋々と満ちた海が優しく見守り、慎ましい街並みが両手を広げている。――僕はこの街が微笑み、僕を受け入れていると感じた。どこにも安らぎを覚えられず、逆立っていた心が、暖かな光に包まれるようだった。胸の奥に広がってゆく、僕の過去と未来が、この街にずっと存在していたかのような、奇妙な感覚。――そこに生の芸術はあった。


僕は街を離れてからも、そこで生きることを想い描くようになった。そして、逃げることにした。「そこで生きるか、死ぬかだ」と決意して。

だが、翌日街につくと、霧のような期待は、雨に掻き消されていった。重い潮気が肌に纏わり付き、山々は表情もなく見下ろしていた。僕の抱いていた幻想は、目の前の街に重なることはなかった。蟠っていた不安が、心の中で激しく暴れ出し、この街に自分の居場所があるかなど、見当も付かなかった。

僕は砂浜に腰を下ろし、海を眺めた。それは嘲笑うかのように果てしなく、地平線に、僕を縛り上げる獣を潜ませていた。浜辺にも居たたまれず、ここに生活はないと諦めて、色褪せた山に入った。しかし、風に揺れる枝葉や木洩れ陽は、僕の作為を見透かし、罵り脅すようで、僕は何かに追われるように転げ出た。

呆然と畦道を歩いて、どこにも受け入れられない気がして、陽が暮れてきて、思い切りも空しく、枯れ草の中の物置みたいな駅に萎れて、ボロ雑巾を絞った最後の一滴みたいに、「小便臭い人生だな」と吐き捨てて、足元の虚空に目を落とした。羞恥に追われて死にたがり、それを断ち切ることのできない、無力で不格好な自分の輪郭を、ただぼんやりと見据えるほかなかった。


「ねえこっちこっち」

突然の女児の声に、僕は顔を背けた。女児と若い母らしい女性だった。女性は、項垂れて靴の間の土を黒くしていた僕のそばまで来ると、身を屈めて静かに、大丈夫ですかと声をかけてきた。僕がそれに答えるためには、咳払いが必要だったし、しゃくり上げるのじゃないかと思って、口を開くことができなかった。女児が見上げて目を合わせる影を西陽が映していた。しばらくして、女性は隣に腰かけた。僕は両手で顔を拭って小さく喉を鳴らしてから、切れ切れに尋ねた。

「ここに生活は、ありますか?」

拗ねた子供のような憮然とした声色に、嫌気を覚えたが、女性は僕の肩にそっと手を触れて、ゆっくり、ありますよと答えてくれた。その声は、柔らかく包み込むように響き、僕はまた顔を隠して、上手く返事ができず、謝った。

薄闇の広がる頃にふと女性が、うちに来ませんかと尋ねた。僕は顔を上げずに頷いた。そして、近くに停めてあった自動車に乗り込んだ。僕は車内の芳香に、微かな安堵を覚えた。夕焼けが着実に消えてゆく中で、星々が姿を見せ始めていた。車は峠を越え、着いた先は、田畑に点在する一軒家のひとつだった。女性は、少し待ってと車を停めると、家の中に入っていった。戸の曇りガラスにもうひとりと話をしているのが映り、二三言交わした様子で、年配の女性が一緒に出てきた。年配の女性は、大変だったね、ごはん食べていきなさいと僕を招き入れ、女児を連れて食事の準備を再開した。僕は言葉が出ず、頭を下げた。

「私は三河凪。海の凪」

僕も、名前を言った。凪は二十六歳で、僕は二十一歳だった。

話している内に準備ができたとのことで、五つ椅子のある食卓に集まった。金平ごぼうや高菜、鯵、五穀米、味噌汁。僕はまだ水深三メートルくらいにいて、上手く味わうことも、気の利いた返事もできなかったが、心に染みる料理だった。

年配の女性は薫、女児は葵といった。薫さんの、どこから来たの、という質問に東京と答え、帰らなくて大丈夫なの、という気遣いには、帰る場所はありませんと、拒むように伝えてしまった。それでも薫さんは、何があったかしれないけど、今日はゆっくりしていきねと言って、見ず知らずの僕を労わり、食事を終えると、二階の一室に通してくれた。

まだ出来事に現実味がなかった。――ここに僕の生活があるのだろうか? その答えは分からないが、生かされた――少なくともいくらか猶予ができた――と感じていた。凪が二階に来て、これ使っていいからねと、男物のパジャマを貸してくれた。風呂上がりに着ると少し短かったが、この家に溶け込んだようで嬉しかった。


その夜は、意識を保ち続けているような浅い眠りを経て、早くに目が覚めた。鳥の声が聴こえて、慣れない花のような香りと、見知らぬ天井を見て、まだその家にいることの実感を強めた。カーテンを開けると、次第に真っ白な曇り空が部屋を光で満たして、まるで世界という女性が微笑み、光の中で手を差し伸べているかのようだった。僕を縛り付けていたものが解け、身体が浮かぶような感覚があった。――これは救済だ、と僕の胸は強く震えた。僕は深く、何度も息をいて、その暖かい光に身を浸した。

それから一階に降りると、薫さんは朝ご飯の支度をしていた。挨拶をした後、僕はトイレを借りて、その後、意を決して、キッチンに戻って、ここに置いてもらえないか、と訊いてみた。薫さんは手を止めてこちらに来た。

「うちはね、幸い余裕があるし、畑もないから、たまに草とったり、家事の手伝いをしたりしてくれたら、それでいいのよ。でも、この街には若い人が少ないから、街の人を助けてあげてね」

僕は、もっと大変な条件を想定していた手前、あっさりと生活を認められたようで、拍子抜けしてしまった。しかし、その言葉に報いることを誓った。


朝食を終えると、僕は近くを歩いた。道々で視線を感じたが会話はできず、戻ってから、薫さんに、一緒に挨拶してもらえないかと訊いてみた。薫さんは「よろこんで」と、親戚を預かっている体で挨拶回りをしてくれた。すると、街の人たちとの距離はぐっと縮まり、畑の手入れや池の掃除、建築の手伝いなどをさせてもらった。薫さんの根回しのためか、仕事の後、思い思いの額だったけど、きちんとお金をもらえて、僕は満足していた。薫さんに報告して全額を渡したが、返された。

「お金は入れなくていいから、続けなさい。それはとっておきね」

僕は、何となくこうしてやっていけば、ここに居ていいのだと体感し、段々と緊張が解けていった。次月からは、僅かながら食費分は受け取ってもらうようにした。


三ヶ月目に入ると、僕は凪と寝た。休日の昼過ぎに花火をした帰り、大粒の俄か雨がやってきて、土手の坂で足を取られた凪を抱き上げて、紺色の下着が浮き出たのを笑うと、凪が絡みついてきて、僕らが足下の茂みの中で思うさま口付けあうと、凪は「あとで部屋に行くね」と囁いた。事が済んだ後、僕には察しのつかない地殻変動のように涙が溢れてきた。何故だろう、受け入れられて? ――そう思い改めてみれば、物心ついてから、初めて人を信用している気がした。だが感情が追いついたのはしばらく後だった。

僕が落ち着いてから、凪は鍵のついた箱を開けるように語り始めた。「お姉ちゃん、明るくてきれいで、評判だったのよ。」僕は、その言葉に軽く頷いたが、凪の口調が僅かに硬くなったことに気づいた。「でも、お義兄さんが亡くなった後、お姉ちゃんはお寺に入ってしまったの。葵を残してね。……旦那さんの死に方がショックで……。」凪は少し言い淀むように間を置いて、話を続けた。「……奥のガレージ、締めきってるでしょ。あそこで首を吊ってたの。」

凪は俯いた後、優しげな眼差しを僕に向けた。「……こういうと気味が悪いかもしれないけど、最初にあなたを見たとき重なったのよ、お義兄さんが。抱えてるのよ、もっと何かできたんじゃないかって。だから、あなたの助けになれることが、私も母も嬉しいのよ。」

凪はそのように打ち明けた。彼女は、三河家の好意の背景を説明して、僕を安心させようとしてくれたのだと思う。僕は、彼の服や部屋を使わせてもらっていることを嫌だとは思わず、改めて感謝を告げた。


この生活もしばらくして、これからを考え始めた頃、僕は隣で横になっていた凪に話をした。「みんなのおかげで居場所ができて、まともになれたなって思う。けど最近このままでいいのか考えるんだ。もっとできることがあるかもって。生まれたからには大きいことしたいって気持ちもある。……東京の大学に行って可能性を広げるのってどう思う?」すると凪は、ごそごそと起き上がって、「それ大賛成よ」と意思を込めた。そして、少し考えてから付け加えた。「よし、もうエッチするのやめよう。」

僕は咄嗟に訊き返したが、凪は「これからのことをしっかり受け止めて、自分の選択をしてほしいのよ」と諭した。さらに凪は、聞き分けのない僕にこう続けた。「私は大学に行って、東京で働いて、選んでここに住んでるの。テンは選択肢もなく決めようっていうの? 私は邪魔したくないよ。それでも私を選びたいんだったら、大きくなって、また惚れさせなさい。」

僕は、凪の言葉にギャフンと答えて、これが最後と言いながらキスをせがんだ。



芸術か生活か

それから僕は東京の大学に入った。残高は心許なかったが、入学費を払って、後はバイトと奨学金で何とかなるだろうという算段だった。学部は将来を保留する意味で、実学に足を置きつつ融通が利きそうな経済系の学部にした。自由科目は哲学と文学とし、それらについてサークルで議論も重ねた。バイトは若い会社でプログラミングを始めた。

僕は詩と哲学を本分としていた。詩や哲学がその一語一語を厳密に追う報酬を与えてくれるのに対して、小説には意匠性の弱い部分、意図が分からない部分があり、その軽さに馴染めなかった。そうはいっても僕は二十歳になる前にひとつ小説を書いた。なぜか? ランボーは二十歳で詩をやめ、ラディゲは二十歳で病死した。二十歳とはそのような区切りで、自分にも何か見出せるのか問いたかったのだ。彼らは余りにまばゆく、数多の詩人や作家の生涯を霞ませてしまった。――もちろん、僕の出来損ないの文章も。

その頃は、虚無を払う思想を求めていた。芸術の美しさは、僕に一瞬の救いをもたらしたが、その美しさは、現実の問題を解決しない。絵画や詩が僕に示す世界は、僕の足元を支えるものとならなかった。僕は人生に意味を与えようとしたが、空虚な手応えしか得られず、ただ時代遅れの魂を引き摺って、暗闇を彷徨うようだった。


佐野愛美の『星のあいまに』という詩がある。

なぜ、138億年の闇に
流れては消える銀河の
果てしない交錯の中に

ただ、あなた――
無数にひとつのあなただけ
見つめているの この空を

どれだけ生命いのちが殖えようと
どれだけ苦渋を嘗めようと
どれだけ言葉が裂こうとも

あなたがすべての始まりで
すべてがあなたの後にある

もしも、あなたが望むなら
――プツリと、星は消えてゆく

比べるものも
並べるものも、なにもない
あなたひとりが、眺めてる

だから、私はささやくの
みて、心にしたがって
そう、金星ヴィーナスと踊って


この詩は、世界は「あなた」を通した形式でしか存在せず、「あなた」は世界の前提であるので、世界など好きに解釈すればいい、そういう意味だと思っている。僕はこのような自我論に立脚して、芸術も哲学も「あなた」の世界を彩る直接的な方法なのだと考えていた。それは、一種の生活哲学と言える。

――さて、その哲学はどう表現すべきだろうか? 果たしてそれをゆたかに表現する形式は小説だった。小説は奥行き豊かな文章世界を描ける。それを用いて、読者は、能動的に世界を立ち上げて、そこに流れる時間の中で、世界の彩り方を体験できる。その表現は多様に存在すべきであって、哲学という形式では定義や例示はできても、それ自体を多様に展開させることはできない。そのような経緯で僕は小説への関心を高め、生活哲学とその表現について考察し、生の芸術を模索した。



学生時代によく遊んだ仲間は、ユノ、美大油画科のダイ、ルツだった。僕らは、煙が揺れるカラオケの薄明かりの中で、酔いに回ったビリヤード台の上で、自分たちの小さな世界を作り出していた。

ある日の部室で、ルツがふと切り出した。「昆虫食べる人、知ってる?」 「ヘルマン・ヘッセ?」とダイが皮肉めいた口調で応じる。ルツは首を振った。「テレビに出てた大学生。」「なるほど、……逆に俺はね。俺の中にいるムカデに、いつか食い殺されるんじゃないかって思ってるんだけどな。」ダイの語り口は、笑い混じりだったが、部屋の空気は違和感を留めていた。僕はその気不味さを振り払おうとした。「ボードレールに『不都合なガラス屋』って散文があってさ、ガラスの訪問販売を最上階まで呼びつけて、ヒイヒイ上がってきたガラス売りに〈この世を美しく見せるガラスがない〉と無理をふっかけて、挙句に階段から出てきたところに花瓶を落として、彼の売り物を粉々にしてしまうんだ」

「ユノは息を呑んだ」と、ルツが呟いた。ユノが目を丸くして笑う。「地の文か」と、僕も笑って返したが、ダイは「おかしな話だけど、わかるな」と、頷いていた。

そんな風に過ごしながら、僕は、どう社会に出るかという問いには全く解を与えられなかった。思想や表現を求める道のりは遠く、そこに生活を描くことはできなかった。


僕はルツと付き合い始めた。ルツは僕が精神的血縁を感じた数少ない人物だった。パラレルワールドの自分といえば過ぎるが、感性や行動原理といった根底の部分が似ていた。精神的血縁と過ごす時間は印象的な瞬間が多い。山を行く時、海辺に佇む時、何かを美しいと思う時、ルツを想い出す。想い出すというより、もはや存在している。その瞬間を共に慈しみ、心を暖めてくれる。僕は、彼女に彩られて変質した世界を見ると、過ぎた日々がこの瞬間にも影響することに人生の質感を覚える。ルツとの日々は僕の財産となった。

Verweile doch! Du bist so schön.
《時よ止まれ、お前は美しい》

彼女に囁いたことがある。ひとりの生活さえ不安な僕らは、いつからか自分の思想や表現への欲求をメフィストフェレスと呼んでいた。ただ、ファウストと違って魂が低かったせいか、それとも契約の言葉を口にしたせいか、僕は初めから破滅へと押し流されていった。自己の基準と社会の基準を器用に切り替えることは、焦りや不慣れで全く上手くいかない。自己に沈潜するほどに会話を失い、単位を落とし、残高を減らし、役に立たない人間になっていった。僕は自分の生活力のなさを呪いながら、自らの悪魔を封じ、呪物崇拝フェティシズムと蔑み、社会で身を立てることに専念すると決めた。

静かな昼下がりの誰も訪れない部室で、僕はそれを伝えた。――俺はもっと大衆的ポップにならないといけないと言って。

ルツは涙を流した。憐れみか、哀しみか、心細さに。そして彼女は、抱いてと小さく囁いた。僕らは互いの神経が見えると表現するくらいに、様々な精神状態セット環境セッティングを試していた。気分に合せて、どの順で、どういう風に、どれくらい刺激すべきか、互いに心得ていた。

その日、曇ガラスの光を白く受けた姿は、さながら傾国のヘレネーだった。