見出し画像

小説|十七月の歌

その月、僕は世界が微笑むことを知った。
穏やかな陽気に甘い香りが漂い、目をやれば若葉や柔らかい花々、それだけのことで僕の心は大きく揺さぶられた。そして、芸術の中に息のできる場所を見つけた。
それからというもの、僕はそこに希死念慮を吹き飛ばす生の肯定を探した。僕はそれを生の芸術と呼んだが、それは不死を叶える石のように存在しなかった。

両親は山羊と狂犬だったといえば説明しやすい。その関係は年々悪化し、テーブルが折れ、窓ガラスが割れ、僕は居心地が悪かった。山羊は女を作って帰らなくなり、狂犬は僕の大学の入学費を使い込んでいた。
不意に僕はレールを失った僕は、何をしてゆくかという問いに答えられず、友人らの不自由ない境遇に苛立ち、居場所をなくしては図書館や森に逃げ、知識を得ることで不安から目を逸らしていた。
しかし、恐怖症の発作に襲われるようになった。それは夢や空目に見る獣に起因し、直接脳を刺激するように歯をガタガタと揺らした。
その日々において支えとなったのが、甲浦という街だった。四国でたまたま滞在したその街は、トンネルを越えた終着駅にあり、野晒しの高架から、小さな街と、森に切り取られた海とが見えた。僕は通路に留まって、山と海の間でひっそりと息をする街を眺めていた。不思議なことに、まるで長い長い旅から帰ってきたような気分だった。一体、この街の何がこんな気分にさせるのだろうか? 悠然と佇む山々と、洋々と満ちた海が優しく見守り、慎ましい街並みが両手を広げている。――僕はこの街が微笑み、受け入れてくれていると感じた。胸の奥に広がってゆく、僕の過去と未来が、この街にずっと存在していたかのような、奇妙な感覚。――それは生の芸術のようだった。

僕は街を離れてからも、そこで生きることを想い描くようになった。そして、街へと逃げることにした。「そこで生きるか、死ぬかだ」と決意して。
だが街に着くと、霧のような期待は雨に消えていった。重い潮気が肌に纏わり付き、山々は表情もなく見下ろしていた。僕の抱いていた幻想は、目の前の街に重なることはなかった。蟠っていた不安が激しく暴れ出し、この街に自分の居場所は見当たらなかった。
僕は砂浜に腰を下ろし、海を眺めた。それは果てしなく、僕を縛り上げる獣を潜ませていた。浜辺にも居たたまれず、ここに生活はないと諦めて、色褪せた山に入った。しかし、風に揺れる枝葉や木洩れ陽は僕の作為を見透かすようで、僕は追われるように転げ出た。
呆然と畦道を歩いて、どこにも受け入れられない気がして、陽が暮れてきて、思い切りも空しく、枯れ草の中の物置みたいな駅に萎れて、ボロ雑巾を絞った最後の一滴みたいに、「小便臭い人生だな」と吐き捨てた。羞恥に追われて死にたがり、それを断ち切ることのできない、無力で不格好な自分の輪郭を、ただぼんやりと見据えるほかなかった。

「ねえこっちこっち」

突然の女児の声に、僕は顔を背けた。女児と若い母らしい女性だった。女性は、項垂れて靴の間の土を黒くしていた僕のそばまで来ると、身を屈めて静かに、大丈夫ですかと声をかけてきた。僕がそれに答えるためには、咳払いが必要だったし、しゃくり上げるのじゃないかと思って、口を開くことができなかった。女児が見上げて目を合わせる影を西陽が映していた。しばらくして、女性は隣に腰かけた。僕は両手で顔を拭って小さく喉を鳴らしてから、切れ切れに尋ねた。
「ここに、生活は、ありますか?」
拗ねた子供のような憮然とした声色に、嫌気を覚えたが、女性は僕の肩にそっと手を触れて、ゆっくり、ありますよと答えてくれた。その声は、柔らかく包み込むように響き、僕はまた顔を隠して、上手く返事ができず、謝った。
薄闇の広がる頃にふと女性が、うちに来ませんかと尋ねた。僕は顔を上げずに頷いた。そして、近くに停めてあった自動車に乗り込んだ。車内の芳香に、微かな安堵を覚えた。
夕陽が着実に沈んでゆく中で、星々が姿を見せ始めていた。車は峠を越え、着いた先は、田畑に点在する戸建のひとつだった。
女性は少し待ってと言って車を停め、家に入っていった。戸の曇りガラスにもうひとりと話をしているのが映り、二三言交わした様子で、年配の女性が一緒に出てきた。年配の女性は、大変だったね、ごはん食べていきなさいと僕を招き入れた。僕は言葉が出ず、頭を下げた。
居間に通されると、年配の女性は女児を連れて食事の準備を再開した。
「私は三河凪。海の凪」
凪は二十六歳で、僕は二十一歳だった。
話している内に準備ができたとのことで、五つ椅子のある食卓に集まった。金平ごぼうや高菜、鯵、五穀米、味噌汁。僕はまだ水深三メートルくらいにいて、上手く味わうことも、気の利いた返事もできなかったが、心に染みる料理だった。
年配の女性は薫、女児は葵といった。薫さんの、どこから来たの、という質問に東京と答え、帰らなくて大丈夫なの、という気遣いには、帰る場所はありませんと、拒むように伝えてしまった。それでも薫さんは、何があったかしれないけど、今日はゆっくりしていきねと言って、見ず知らずの僕を労わり、食事を終えると、二階の一室に通してくれた。
まだ出来事に現実味がなかった。――ここに僕の生活があるのだろうか? その答えは分からないが、生かされた――少なくともいくらか猶予ができた――と感じていた。
凪が二階に来て、これ使っていいからねと、男物のパジャマを貸してくれた。風呂上がりに着ると少し短かったが、この家に溶け込んだようで嬉しかった。
その夜は、意識を保ち続けているような浅い眠りを経て、早くに目が覚めた。鳥の声が聴こえて、慣れない花のような香りと、見知らぬ天井を見て、その家にいる実感を改めた。
カーテンを開けると、次第に真っ白な曇り空が部屋を光で満たして、まるで世界が微笑み、光の中で手を差し伸べているかのようだった。縛り付けていたものが解け、身体が浮かぶような感覚。――これは救済だ、と胸が強く震えた。僕は深く、何度も息を吐(つ)いて、その暖かい光に身を浴した。
それから一階に降りると、薫さんは朝ご飯の支度をしていた。挨拶をした後、僕は意を決して、ここに置いてもらえないか、と訊いてみた。薫さんは手を止めてこちらに来た。
「うちはね、幸い余裕があるし、畑もないから、たまに草とったり、家事の手伝いをしたりしてくれたら、それでいいのよ。でも、この街には若い人が少ないから、街の人を助けてあげてね」
僕はもっと大変な条件を想定していた手前、あっさりと認められたようで、拍子抜けしてしまった。しかし、その言葉に報いることを誓った。

朝食を終えると、僕は近くを歩いた。道々で視線を感じたが会話はできず、戻ってから、薫さんに、一緒に挨拶してもらえないかと訊いてみた。薫さんは「よろこんで」と、親戚を預かっている体で挨拶回りをしてくれた。すると、街の人たちとの距離はぐっと縮まり、畑の手入れや池の掃除、建築の手伝いなどをさせてもらった。薫さんの根回しのためか、仕事の後、思い思いの額だったけど、きちんとお金をもらえて、僕は満足していた。薫さんに報告して全額を渡したが、返された。
「お金は入れなくていいから、続けなさい。それはとっておきね」
僕は、何となくこうしてやっていけば、ここに居ていいのだと体感し、段々と緊張が解れていった。次月からは、僅かながら食費分は受け取ってもらうようにした。

三ヶ月目に入ると、僕は凪と寝た。休日の昼過ぎに花火をした帰り、大粒の俄か雨がやってきて、土手の坂で足を取られた凪を抱き上げて、紺色の下着が浮き出たのを笑うと、凪が絡みついてきて、僕らが足下の茂みの中で口付けあうと、凪は「あとで部屋に行くね」と囁いた。事が済んだ後、僕には察しのつかない地殻変動のように涙が溢れてきた。何故だろう、受け入れられて? ――そう思い改めてみれば、物心ついてから、初めて人を信用している気がした。だが感情が追いついたのはしばらく後だった。
僕が落ち着いてから、凪は鍵のついた箱を開けるように語り始めた。「お姉ちゃん、明るくてきれいで、評判だったのよ。」
僕は、その言葉に軽く頷いたが、凪の口調は僅かに硬くなっていた。
「でも、お義兄さんが亡くなった後、お姉ちゃんはお寺に入ってしまったの。葵を残してね。……旦那さんの死に方がショックで……」
凪は少し言い淀むように間を置いて、話を続けた。「……奥のガレージ、締めきってるでしょ。あそこで首を吊ってたの。」
凪は俯いた後、優しげな眼差しを僕に向けた。
「……こういうと気味が悪いかもしれないけど、最初にあなたを見たとき重なったのよ、お義兄さんが。抱えてるのよ、もっと何かできたんじゃないかって。だから、あなたの助けになれることが、私も母も嬉しいのよ」
凪はそのように打ち明けた。彼女は三河家の好意の背景を説明して、僕を安心させようとしてくれたのだと思う。僕は彼の服や部屋を使わせてもらっていることを嫌だとは思わず、改めて感謝を告げた。

この生活もしばらくして、僕は隣で横になっていた凪に話をした。「みんなのおかげで居場所ができて、まともになれたなって思う。けど最近このままでいいのか考えるんだ。もっとできることがあるかもって。生まれたからには大きいことしたいって気持ちもある。……東京の大学に行って可能性を広げるのってどう思う?」すると凪は、ごそごそと起き上がって、「それ大賛成よ」と意思を込めた。そして、少し考えてから付け加えた。「よし、もうくっつくのやめよう。」
僕は咄嗟に訊き返したが、凪は「これからのことをしっかり受け止めて、自分の選択をしてほしいのよ」と諭した。さらに凪は、聞き分けのない僕にこう続けた。「私は大学に行って、東京で働いて、選んでここに住んでるの。テンは選択肢もなく決めようっていうの? 私は邪魔したくないよ。それでも私を選びたいんだったら、大きくなって、また惚れさせなさい。」
僕は、凪の言葉にギャフンと答えて、これが最後と言いながらキスをせがんだ。

それから僕は東京の大学に入った。残高は心許なかったが、入学費を払って、後はバイトと奨学金で何とかなるだろうという算段だった。学部は将来を保留する意味で、実学に足を置きつつ融通が利きそうな経済系の学部にした。自由科目は哲学と文学とし、それらについてサークルで議論も重ねた。バイトは若い会社でプログラミングを始めた。
僕は詩と哲学が好きだった。詩や哲学がその一語一語を厳密に追う報酬を与えてくれるのに対して、小説には意匠性の弱い部分、意図が分からない部分があり、その軽さに馴染めなかった。
そうはいっても僕は二十歳になる前にひとつ小説を書いた。なぜか? ランボーは二十歳で詩をやめ、ラディゲは二十歳で病死した。二十歳とはそのような区切りで、自分にも何か見出せるのか問いたかったのだ。だが、彼らは余りに眩(まばゆ)く、数多の詩人や作家の生涯を霞ませてしまった。――もちろん、僕の出来損ないの文章も。

その頃は、虚無を払う思想を求めていた。芸術の美しさは、僕に一瞬の救いをもたらしたが、その美しさは、現実の問題を解決しない。絵画や詩が僕に示す世界は、僕の足元を支えるものとはならなかった。僕は人生に意味を与えようとしたが、空虚な手応えしか得られず、時代遅れの魂を引き摺って、暗闇を彷徨うようだった。

佐野愛美の『星のあいまに』という詩がある。

なぜ、138億年の闇に
流れては消える銀河の
果てしない交錯の中に

ただ、あなた――
無数にひとつのあなただけ
見つめているの この空を

どれだけ生命(いのち)が殖えようと
どれだけ苦渋を嘗めようと
どれだけ言葉が裂こうとも

あなたがすべての始まりで
すべてがあなたの後にある

もしも、あなたが望むなら
――プツリと、星は消えてゆく

比べるものも
並べるものも、なにもない
あなたひとりが、眺めてる

だから、私はささやくの
みて、心にしたがって
そう、金星(ヴィーナス)と踊って

この詩は、世界は「あなた」を通した形式でしか存在せず、「あなた」は世界の前提であるので、世界など好きに解釈すればいい、そういう意味だと思っている。僕はこのような自我論に立脚して、芸術も哲学も「あなた」の世界を彩る直接的な方法なのだと考えていた。それは一種の生活哲学と言える。
さて、その哲学はどう表現すべきだろうか? 果たしてそれをゆたかに表現する形式は小説だった。小説は奥行き豊かな文章世界を描ける。それを用いて、読者は、能動的に世界を立ち上げて、そこに流れる時間の中で、世界の彩り方を体験できる。
その表現は多様に存在すべきであって、哲学という形式では定義や例示はできても、それ自体を多様に展開させることはできない。
そのような経緯で僕は小説への関心を高め、生活哲学とその表現について考察を重ねた。

    *

学生時代によく遊んだ仲間は、ユノ、美大油画科のダイ、ルツだった。僕らは、煙が揺れるカラオケの薄灯りの中で、酔いの回ったビリヤード台の上で、自分たちの小さな世界を作り出していた。
ある日の部室で、ルツがふと切り出した。「昆虫食べる人、知ってる?」
「ヘルマン・ヘッセ?」とダイが皮肉めいた口調で応じると、ルツは首を振った。
「テレビに出てた大学生」
「そう。……そういえば俺は、ムカデに食い殺される夢を見たよ」
「グロいね。ちょっとずつ?」
「いや、ひと噛みで」
ダイの語り口は笑い混じりだったが、部屋の空気には違和感が残っていた。僕はその気不味さを振り払おうとした。
「ボードレールの『不都合なガラス屋』って散文を読んだんだけどさ、ガラスの訪問販売を最上階まで呼びつけて、ヒイヒイ上がってきたガラス売りに〈この世を美しく見せるガラスがない〉と無理をふっかけて、挙句に階段から出てきたところに花瓶を落として、彼の売り物を粉々にしてしまうんだ」
「ユノは息を呑んだ」と、ルツが呟いた。ユノが目を丸くして笑う。「地の文か」と、僕も笑って返したが、ダイは「おかしな話だけど、わかるな」と、笑っていた。
そんな風に過ごしながら、僕は、どう社会に出るかという問いには全く解を与えられなかった。思想や表現を求める道のりは遠く、そこに生活を描くことはできなかった。

僕はルツと付き合っていた。ルツは僕が精神的血縁を感じた数少ない人物だった。パラレルワールドの自分といえば過ぎるが、感性や行動原理といった根底の部分が似ていた。精神的血縁と過ごす時間は印象的な瞬間が多い。山を行く時、海辺に佇む時、何かを美しいと思う時、ルツを想い出す。想い出すというより、もはや存在している。その瞬間を共に慈しみ、心を暖めてくれる。僕は彼女に彩られて変質した世界を見ると、過ぎた日々がこの瞬間にも影響することに人生の質感を覚える。ルツとの日々は僕の財産となった。

Verweile doch! Du bist so schön.
(時よ止まれ、お前は美しい)

そう彼女に囁いたことがある。ひとりの生活さえ不安な僕らは、いつからか自分の思想や表現への欲求をメフィストフェレスと呼んでいた。ただ、ファウストと違って魂が低かったせいか、それとも契約の言葉を口にしたせいか、僕は初めから破滅へと押し流されていった。
自己の基準と社会の基準を器用に切り替えることは、焦りや不慣れで全く上手くいかない。自己に沈潜するほどに会話を失い、単位を落とし、残高を減らし、役に立たない人間になっていった。僕は自分の生活力のなさを呪いながら、自らの悪魔を封じ、呪物崇拝(フェティシズム)と蔑み、社会で身を立てることに専念すると決めた。
静かな昼下がりの部室で、僕はそれを伝えた。――俺はもっと大衆的(ポップ)にならないといけないと言って。
ルツは涙を流した。憐れみか、哀しみか、心細さに。
その日、曇ガラスの光を白く受けた姿は、さながら傾国のヘレネーだった。

社会で身を立てると決めた僕は、「とにかく動け」と、ヤスという男と会社を設立した。まずできることを考え――ヤスはいろんな人との交流が苦じゃなかったし、僕はプログラミングに習熟していた――、システム開発案件を受注し、二三ヶ月のペースで納品するようになった。半月に一度は解決できるかわからない壁に打ち当たったり、事故が起きたりして、その度に心臓を鳴らして奔走していたが、僕らは会社に住みつき、充実を感じていた。
ヤスは陽気だった。例えばある深夜、いつものようにオフィスで仕事をしていた僕らは、休憩がてらコンビニに行こうと部屋を出た。するとヤスは、真っ暗で誰もいないフロアを見渡すや、徐々に奇声――英単語の羅列――を発しながら跳ね回り、ホールへと向かっていった。そして、シャツを脱ぎ捨て、上半身裸になり、エレベーターの扉に鼻先が触れるほど近づいて待ち構えた――まるで自らの運命を試すかのように。
……果たして扉が開くと、仕事上がりの女性が立っていた。彼女は一瞬驚いたものの、「お疲れさまです」と素敵に流してくれたので、僕らは事なきを得た。

翌年、大手のデータ分析案件に入る機会があった。新技術の活用を目指したこの案件で、僕らのシステム設計は高い評価を受けた。僕はこれを横展開し、主要事業に据えた。これまでの事業経験から、発射角度を間違えたら、いくら執行のレベルが高くても成長できないことを学んでいたが、これは良いと思っていた。とはいえ、商談は百戦百勝ではない。今までになかったのだから断られて当たり前、と励ましあって営業を続けた。
さらに数年経つ頃には、大型案件が続々と決まり、取材記事が全世界に拡散され、米国案件も増えていた。僕は英語市場へのアクセス拡大のため、米国への投資比重を高め、本社をサンフランシスコに移すことにした。
僕の業務はステージに応じて変わったが、どの領域においても先鞭をつけるという意味では変わらなかった。僕はただ、自分の役割を合理的に、効率的にこなすことに努め、そこに自分の感情が伴わなくなっていることに、目を向けることはなかった。

    *

サンフランシスコに移る前に、僕は久しぶりに三河家を訪れた。凪と薫さんは、起業で忙しくなった僕を気遣い、無理しなくていいと言ってくれていた。しかし今回会っておかないと、長く空ける可能性があった。僕は、ずっと仕事に浸り、脳裏にはビジネスの課題や施策が張り付き、夢の中でさえ解を探すほどだったため、この一泊は、久々の休暇となった。
空港の到着ロビーで三人の姿を見た時、本当の家族みたいだなと、胸に暖かみが広がった。僕の情報はニュースなどを通して共有していたこともあり、僕は自然と、彼らの話を聞く側に回ろうと努めた。そして、三人の生活や街の出来事について、五年間の渇きを潤すように聞き続けた。夕方には、近所の人たちも駆けつけ、それぞれ一升瓶を抱えてきたので、僕らはかなり酔った。皆が帰った頃には深夜一時を過ぎ、葵は既に部屋で眠っていた。僕はあっけなく過ぎた時間を悔やんだ。
薫さんが、飲み過ぎちゃったわと、心地よさそうに言った。お風呂どうぞ、と促されたが、僕は、先に入ってください、凪と自販機に行ってきます、と軽く返事をした。僕は椅子にだらっと座り、凪は隣で突っ伏していた。凪行こうよ、と言うと、いかんよー、と言う。しかし、「話したいことがあったんだよ」と耳元でいうと、電球がついたみたいに顔を上げて、にっこりした。ただ田んぼに落ちてもいけないので、二階に上がった。
凪と二人になると僕は、事業にはどんな価値があって、組織はどれくらい大きくなって、どんな権威から認められて、とアピールしていた。僕の女神に認めてほしかったのだ。凪は、それを嬉しそうに聞いていた。しかし僕は、凪の表情が薄いガラスのように脆いことに気づいた。僕は「惚れ直してくれる?」と問いかけたかったが、言葉は喉元で詰まり、代わりに無責任な想いだけが口から零れた。
「きっと、いつまでも好きだよ」
凪はすぐに「私もよ」と笑顔で答えたが、その幼気な表情に、僕はつい抱きしめてしまった。その温もりは記憶と今の凪との境界を曖昧にしたが、次第にぎこちなく感じられ、僕は誤魔化すように「でも、次いつ帰るかわからない」と付け加えた。
しばらくして、凪は僕の肩を優しく撫で、「弟みたいなものだからね」と囁いた。そして、薫さんが「お風呂上がったよー」と言ったのに、凪は身体を離して、「テンが入るってー」と返した。
そのまま、凪は僕の頭を抱いて、「じゃあね、テンも私のこと気にするんじゃないよ」と残して、階段を降りていった。その後ろ姿は、遠くへ消えてゆくようだった。

翌朝、僕らは四人で空港へ向かった。凪は明るく振る舞っていたが、その笑顔の奥に不安が垣間見えるような気がして、僕は目を逸らしてしまうのだった。
一泊二日は余りにもあっけなく過ぎて、もう一泊できなかったことを後悔した。しかし、仕事を前進させる効力感は、早くも飛行機の搭乗ロビーでそれを癒してしまうのだった。

    *

移住してからは、仕事の規模も大きくすることができた。グローバル企業、各国政府、国際研究機関などの案件だった。この年の資金調達で会社評価額は十億(ワンビリオン)ドルを超え、僕らの会社はユニコーンと呼ばれるようになった。
ただ、この頃から少し伸び悩んだ。当時の社会的動乱の中でも、社内オペレーションを整え、業界の新しい標準となる製品をいち早く打ち出し、業界の明暗がはっきりしてくると、ターゲット市場を切替え、それらは上手くいった。にも拘らず、市場の切替えによる顧客獲得の鈍化、先行きの不透明感による大型契約の遅延、そういった特殊要因に加えて、競合の乱立や用途規制といった環境要因があった。
投資回収の見込みが低い内は、リスクを抑えて仮説検証を続けるしかない。だが成長率が下がってくると、経営陣は株主から叩かれる。この状況下、人智を尽くして対応してるつもりでも、必要な投資をしていないと、厳しい声もあった。
しかし、無力な時代に比べれば、ここまでの苦労は大したことがなかった。不条理に苦しむことも、生か死の二択に直面することもなかった。いかに客観性を保ち、解像度を上げて意思決定してゆくか、それだけで良かった。

創業八年目で会社を売却した。山頂に岩を上げては落とされるシーシュポスのように、売上を積んではゼロになる四半期を繰り返し、実証的再現性――上手くいくからそうするという使い捨ての経験則――を絶えず更新し、偏見(バイアス)なき意思決定を保ち、自分の中の基準を沈黙させ続けて、気づけば僕は、良いことにも悪いことにも心が動かなくなっていた。
それと呼応するように偏った生活のツケ――チカチカする三角形がいくつも現れ、目を開いていることもままならないような頭痛――が出てきて、僕は生活を改めた。対症療法より効果があったのは、禁煙、立ち机、筋力トレーニング、カフェインとアルコールを控えることだった。しかし、視界のミドリムシは九匹残った。僕は青空を這う虫たちを眺めて、世界が朽ちてゆくのを感じた。
ここまで僕を突き動かしていたのは、「生まれたからには何かなさねばならない」という強迫観念のようなものだった。だが着実に近づく終わりを突きつけられ、僕は生き方を見直さざるを得なかった。
何度勝っても満たされず、器用になるほど些末に見えてくる日々の中で、僕は競争に幸福がないことを悟った。成功の規模(サイズ)ではない。オリュンポスの住人なる成功者も、偏執を抱え、幸福を見つけられず彷徨う人々だった。さらにここまできても、人生など初めからなかったならそれに越したことはないと考える自分を発見した。もはやここに望む生活は見当たらなかった。
この状態でも事業家で在り続けることはできる。しかし、僕には一時(いっとき)の処世の術という以上に未練がなかった。――といっても、身につけた能力を殺すわけではない。この世界をふたたび盲信することはないというだけのことだ。

売却交渉はスムーズだった。五社から入札を受け、僕はインタビューに答えていった。当座の外部環境を除いては、経営状況について、どれも魅力的に語ることができた。そして、売却益を手にして僕がしたのは、野心のない資産分散(アセットアロケーション)だった。法定通貨、株式、国債、金銀、仮想通貨、不動産――六本木一丁目に立つマンションの一室と、都内からアクセスのよい台地の山と、三河家の近くの土地。
四国の方は、米国を出る前から凪や薫さんに協力してもらって、土地購入や設計や業者手配を済ませていた。関東の方はもらった地形図や地質調査などの資料だけで決めてしまった。日本に戻ってから訪れてみると、どちらも想像していた以上に好みの場所だった。僕は、二つの土地に家を建て、落ち着いた時間を過ごそうと考えていた。

    *

再び十七月に入った僕は、しばらく関東の旅館に独りでいることが多かった。自然の中で過ごすことが心地よく、都会における、のっぺりと密集したビルや、手あたり次第の効率化に繁茂するサービス、刺激に反応するばかりの表層的な生活、そういうものから距離を置きたかった。また僕は、心を動かすものを求めて、昔好んで読んだ文学や哲学の書を読んでいた。
その内、何となしに手に入れた『自由からの逃走』の原本を読んで、自分もその症状、自由への不安ゆえに自らの基準を捨てた状態に陥っていたのだと、ハッとさせられた。目標や日々の行動、それらは自分で決めたにも関わらず、その是非は外的な尺度に委ねられていた。僕が陥っている無感動は、これによる自己疎外であり、振り返ると自分は損得勘定でしか生きていなかったと痛感した。
だが、フロムのいう自由にどう到達すればよいのか、自らの価値観を失って久しい自分には掴みどころがなかった。そこでふと、木々の間や山道を散歩したり、草むらに寝転んだりしていると、カントの定言命法に、自由についての記述があったことを思い出した。カントとフロムとの自由の定義は異なるが、カントのような動機によらない行動指針、すなわち信念をもつことは、外的な基準を逃れる手がかりを与えてくれた。そのようにしながら、散策しながら詩を書いたり、ギターを弾いて作曲したり、自らの心の向くまま、芸術活動に耽っていた。
結果、創造によって内面を外化することが、自らの人格や価値観を更新してゆくうえで有益だったらしい。それからは、形を帯び始めた自らの基準に従って生活することができた。すると、硬いゴムのように委縮していた心は、風に戦ぐ白布のように感応を取り戻していった。
僕はようやく人に会いたいと思い、凪に連絡をした。

    *

四国の方を訪れた際、三河家と地元の人たちが宴会を開いてくれた。皆、応分に歳を取っていたが、穏やかなのは変わらなかった。
葵は東京の大学に通っており、帰って来られなかったが、凪は夫と息子と参加してくれた。夫は大学の同期で遥(ヨウ)といった。息子ももう四歳になっていた。遥は香川の出身だったが、三河家に同居していた。物静かだが人との折り合いはよく、自分の頭で考えていて、僕は三河家目線で素敵な人だと思った。
人の出入りが多かったため、主催してくれた薫さんとちゃんと話せたのはお開きにした後だった。今日のお礼をいって僕は、何かあったら嬉しいものはありますか、と切り出した。
「なに、ツルの恩返し?」
僕が軽く笑って「そうです、覗いちゃだめですよ」と返すと、薫さんは笑みを湛えて、「大丈夫よ、気持ちだけで。あなたが帰ってきてくれただけで十分」と答えた。しかし、僅かでも、形にして恩に報いたかった僕は、話を伺いつつ設備の新調やガレージの立て直しを提案し、賛成してもらえた。
ガレージは葵以外に立ち入る人がいなかったので、念のため電話で確認すると、葵は「幽霊とか怨念とかを信じてないだけだから、取り壊して大丈夫」とのことだった。
そして結論、隣の土地を買って物置を新設する工事も追加された。僕は少し心が軽くなったのを感じ、「今後も何でも頼ってください」と告げ、お風呂の準備のために二階に上がった。
荷物を整理していると、開いたままの戸を凪がそっとノックした。話したいことは沢山あったが、この部屋だと色々と想い出してしまうので、散歩しようと誘って、二人で夏の夜の街を歩くことにした。
外は虫の音や蛙の声がしていた。肌を撫でる風は涼しく、そのまま一夜明かしたくなるような心地よさだった。電灯はまばらに道を照らし、僕らの影を引く。懐中電灯の光は足元だけを照らし、未来も過去も、この闇の中に隠れるようだった。
ふと僕は、遥さんって良い人だね、と切り出した。
凪は、式をやらなくてごめんね、と振り返る。
謝らなくていいさ、と僕は答えて、ゆっくりと歩きながら、街に流れた時間を、そして凪に流れた時間を想った。あの時の選択が、凪をどう変えたのか――あるいは、変えなかったのか。
僕が、もっと早く戻ってくるべきだったな、とぼやくと、凪は笑ってなじった。
「それもテンの選択でしょ?」
それは過ぎ去った時間の存在を示すようでもあった。
「不器用だったな。みんなが元気でいてくれたから、よかったけど」
そう僕が述べると、凪は静かに答えた。
「それで十分よ。人生には、やるべき時がある」
――もっと余裕を持って、器用に生きることができていたらどうだったろう。ようやく、凪のような美しい生き方に辿り着けるのかもしれない。僕はそんなことを考えながら、遠回りをしてきた自分の人生を振り返っていた。
「ほら、海が見えてきた」
凪が指差した先には、峠の向こうに広がる街と、黒々と広がる海があった。僕はぐるりと辺りを見回す。この街は変わらない。山と海に包まれて。僕はこの街に受け入れられる感覚と同時に、僕の中に山や海が流れ込み、自分と不可分なものがこの土地に溶け込んでいるように感じた。
僕らは港まで歩き、ブロックに腰を下ろした。穏やかな入り江には、波がコンクリートに寄せる柔らかな音だけが響いて、僕らの沈黙を彩っていた。
「ねえ、惚れ直してたと思う?」
不意の言葉に驚きつつ、僕は凪の横顔をみて、「え、けっこう頑張ったぜ」と戯(おど)けた。凪はこちらを向いて、僕の心を読むようにじっと見つめている。その悪戯っぽい瞳には、何か寂しさのようなものが漂っていた。
「正解はね、――ずっと大好きだったよ」
僕は照れ笑いして「俺だって、揺るぎないさ」と答えた。そしてもうひとつ真実を伝えた。
「凪と過ごした日々は、今でも俺の人生でいちばん美しいよ」
それは事実、どんな成功の瞬間より痛切で、比べようもなかった。その言葉に、凪はゆっくりと視線を海に移し、僕らの間には、ただ波音だけが流れた。
「……本当に、あなたに声をかけてよかった」
凪の声は、どこか遠くから響いてくるような、静かなものだった。僕も同じように海を見つめ、言葉を重ねた。
「凪は、世界の微笑みそのものだったよ」
「あなたも私の微笑みだったのよ」

「……ほら、ちゃんと海を見て」

僕が目を覚ますとタローは起きていたらしく、こちらを見ていた。まだ薄暗い部屋の中、朝焼けの窓は紫色で、ガラス戸を開くとタローは草の上に降りてしっぽを振った。一度フェイントをかけて、ゴムボールを思い切り投げると、稜線の淡い山々には遥か及ばず、雑木林の前に落ち、タローは草原を駆けていった。その光景に、心がどこか遠くへと引き寄せられるのを感じた。空は徐々に黄色に染まり、朝の息吹が広がってゆく。それを眺める内に、タローは帰ってきた。僕は、早かったねと褒める。
山荘が建つと、僕はそこに移り住んだ。近しい人々との交流は続け、政治家や企業重役なども、来日の際には声をかけてくれた。僕は時折、彼らを山荘に招くこともあったが、日々の筋力トレーニングを欠かさず、朝夕にタローと散歩し、静かで内省的な時間を過ごすことを大事にしていた。――一日の分を弁えることは、壮年の美徳である。
察しの良いタローが吠えた。家事手伝いが来たのだろう、近所の実家に戻っていた後輩のニケに頼んでいた。彼女が入ってくると、僕は挨拶をした。数日空けていたためか、表情が明るかった。
「おはようございます。集会(サバト)はこちらで?」とニケが挨拶した。
「魔女かい」と僕は答える。
「こんな家政婦は嫌だ――どんなでしょう?」
「ええと、……勤め先で必ず事件が起こる。」
ニケは「名探偵ですね〜」と笑って荷物を置き、今日はカフェインレスの珈琲でいいかと確認した。
僕は頷いて、また言った。「こんな家政婦は嫌だ――タローが懐きすぎる。」
するとニケはタロちゃんと呼びかけ、「あんまり家を空けると忘れられちゃいますよ」と答えた。タローはニケの足元に来て座り、僕らを交互に見ていた。僕は「嘘々、助かってる」と誤魔化した。

    *

果たして僕が生活から解放されるまで八年を要し、ルツのもとには戻らなかった。彼女はといえば油画を続けて、今や自分の画風を得るに至ったらしい。ともかく作品は売れているようだった。ただ正直なところ、その売れ筋の芸術性を僕は理解できていなかった。彼女というブランドを身につけたい人々の装飾(シンボル)のように見えた。そうは言うものの、僕も気に入ったものをひとつ購入して、久しぶり、とメッセージを交わした。そしてルツは言った。
「大久保利通で会わない?」
大久保利通というのは青山霊園の墓のことだ。僕らは霊園を散歩する際、ある時は永井荷風、またある時は渋沢栄一と墓の前で待ち合わせた。大久保利通の墓は、性器崇拝みたいに大きな亀の石像から墓石が伸びている。ここは高台で草木が周りを囲み、人目に付きにくい。雨降る初夏などは一層隔絶されて居心地が良かった。
石像の前に腰かけているとヒールの音が聴こえ、角からルツが現れた。タイトなワンピースに帽子を被り、大人びて妖艶に見えた。お互いサングラスを外すと、顔の造作の懐かしさが心の奥に触れるようで、自然と抱きあった。ルツが「会いたかった」と耳元で囁いた。「俺もさ」と答えたその声は、自分でも驚くほど実感を伴っていた。風は木々の間を抜け、小さな渦を作りながら葉を揺らしていた。僕らは一緒に腰を下ろし、互いの空白を埋め始めた。
「USに行ってからもルツのことをよく想い出したよ。」そう僕が告げると、ふふ、とルツは嬉しそうに笑った。「若葉とか景色とか、ああ綺麗だなって思う時、そこにルツもいるんだ。隣で一緒に感動してる。その時、すごく安心するんだ。俺の感性は間違ってない。この世界には俺の理解者がいる。そう思えて。」するとルツは、目を細めて笑顔を見せた。「それは事実、ちゃんと私も頷いてたよ。」その言葉に僕は、「テレパシーが懐かしいな」と笑った。僕らは相手が何を考えているか当てる遊びをしていた。実際それはよく当たり、頭の中まで一緒にいるような気がしたものだ。
「私はいいことがあったとき、上野に行ってテンに話してたよ。賞もらったとか、仕事決まったとか。」ルツは、想い馳せるように遠くを見た。そして僕が、「あの場所で聞かせてくれてたんだ」と呟くと、ルツは大事に仕舞うように、そうなの、と答えた。
ルツは、創作の幅を広げ、多忙な日々の中で新たな挑戦を重ねていると話した。その言葉には確かな手応えがあり、充実感が溢れていた。一方、僕も心境の変化や会社売却後の生活について語ったが、少し自嘲的な響きがあった。
「まあ、大したことしたわけじゃないさ。」僕は肩を竦めて言った。
「それは嘘よ。」ルツは、幼げな狡さを口元に浮かべながら、軽く首を振った。
「でも、あなたのメフィストフェレスはなんて言ってるの?」

――僕のメフィストフェレス?
それは消えてしまったかに見えた。

    *

数週間後、僕は招待を受けていたルツの個展の開場式典(オープニングセレモニー)に顔を出した。表参道の会場に足を踏み入れると、樹木(ウッディ)な香りにヴァニラの甘さが混じり、擽るような高揚感を与える。黒と金のコントラストが広がる室内では、柱から水が流れ落ち、その柱に沿ってカーブを描く階段の下には、広大な地下空間が開かれていた。重低音が奥のステージから漏れ、仄かに壁を照らす青白い光が清涼さを高める。
ルツは僕に気づくと、舞うように近づいてきた。軽やかな挨拶(ハグ)は甘美な香りを伴い、僕の心に余韻を残した。無造作な毛流れが束髪(シニヨン)に流れ込み、赤いドレスの鮮やかな光沢が彼女の存在感を際立たせている。
ルツの周囲には名士たちが集い、彼女の存在に酔い、その成功を称えていた。僕もまた彼らから祝辞を受け、売却に関する話題や最近の動向を交わしたが、それらの声はルツの作品の前に薄れていった。遠目に見える絵が、以前の印象とは異なり、僕を吸い寄せていたからだ。僕は話を切り上げて、展示へ向かった。
ルツの絵は、その壁面に等間隔で配置されていた。ガラスの奥の絵は、スポットライトの光を浴びて、無機質な冷たさと熱い感情の交錯を感じさせる。彼女の技術が、絵画という生物に呼吸を吹き込み、その命は静かに燃えていた。
空間が変わることで、作品の印象は変化する。作品は装飾に過ぎないようにも見えたが、じっくりと向き合ってゆくと、その不調和には意図が潜んでいることを発見した。作品を見つめる内、躍動する線や色彩が誇張され、心の中で波立つリズムに呼応し、ルツの感情そのものが僕の前で踊り始めたかのようだった。僕はそこに空白の年月が色付いてゆくのを感じた。
僕が購入した作品もそこに展示されていた。その作品を初めて観た時、僕は詩人がいう〈眩暈(めまい)〉を覚えた。そしてそこに、僕に向けられたルツの視線を感じていた。作品に描かれた異形の生物たちは、どれひとつとして明瞭な輪郭を持たず、形は曖昧で、鑑賞者の解釈を試すかのように漂う。だが、視点を固定しようとすれば、混沌とした像が次々に現れ、激しく打つかり合う。これによって、鑑賞者は認知を揺さぶられ、〈眩暈〉に支配される。
しかし、近年の作品には、これまでとは一線を画す変化が見られた。色彩はより鮮明で、形は抽象へと深化していた。曖昧さの中に具象性の余韻を微かに留めた、新たな美の追求。それはルツ自身の内面に秘められた何かが表出しているようだった。
ルツが囲まれている輪にそっと近づき、彼女の肩に軽く手を置くと、耳元で囁いた。「素敵だったよ。」
ルツは振り返り、ぱっと笑みを浮かべた。「もう帰っちゃうの?」
「そうだな。俺も負けてられないなと思って」
彼女はその言葉に応じて、微かに笑みを深めた。「そんなこと言って。」
僕はルツの優しさを当てにして冗談を口にしたが、彼女はそれ以上引き止めるでもなく、名残惜しそうに別れの挨拶を交わした。あるいは、それも読んだ上でのルツだったかもしれない。

ルツから僕とユノのいるグループにニュースが送られてきた。
――山中で男性遺体、登山中に滑落か
ダイが遺体で見つかり、美大のクラスで情報を集めているらしい。ニュースによれば、発見現場は僕の家から遠くない山の中腹だった。
僕が最後にダイと会ったのは、技術職として彼のキャリアを考え、まず簡単な業務に就いてもらった時だった。その仕事には齟齬があったのだろう、一か月も経たずに彼は去り、僕も自然と連絡を絶っていた。その後、彼が遠くへ行ったという話をルツの友人から聞いた。欧州の国々を転々とし、アフリカの地にまで足を伸ばしていたらしい。
なぜ彼が再び日本の山奥に戻ってきていたのかは、誰も知らないようだった。僕は彼の実家の連絡先を手に入れ、電話をして、週末に訪れることにした。彼の両親に、どんな言葉をかければいいかは分からない。ただ、もう少し知りたいし、伝えられることもあるのではないかと感じていた。

週末、ダイの母が玄関に出迎えてくれた。彼女に残るダイに、僕は懐かしさと悲しみを覚えた。お悔やみを伝えると、彼女は静かに頷き、リビングに案内した。
リビングには、ダイの発見現場の写真と地図が広げられていた。写真に映るダイの首には赤い線が刻まれており、その痕跡に僕は思わず目を留めた。そして彼女に顔を向けると、彼女は俯いて頷いた。写真の中のダイは、引きつった表情で硬直し、彫刻のようだった。まるで、意識など初めからなかったかのように。
僕が地図を手に取ると、彼女はふと話し始めた。
「実は、あの子……高校生の頃、一度精神病院に入院したんです。上の娘が事故で亡くなってから急に変わってしまって……」
彼女の言葉は抑揚を欠き、無意識にするように、指先がテーブルの縁をなぞっていた。
「それから、感情を抑えられなくなって、暴力的な衝動がひどくなりました。衝動制御障害と診断されて……病院に入れるしかなかったんです。」そう言って、彼女は何度か瞬きをして、息を整えた。
僕は「さぞお辛かったでしょう」としか言えず、自分の無力さに胸を締め付けられた。「……でも、退院後は少し落ち着いたようで、あの子は絵を描くようになりました。それがあの子の心を映し出していたんだと思います。」
彼女は、ダイの絵を僕に差し出した。それはムカデとトンビの絵だった。紫色の空の下、巨大なムカデが砂漠に身を起こし、トンビは逃げるように空を飛んでいた。しかし、砂漠の無限の広がりに逃げ場はなく、それがムカデを一層大きく感じさせる。
「このムカデは……あの子の中にある暴力的な衝動で、トンビは……自由になりたいと願う、あの子自身だったのでしょう。……逃れたいけれど、逃れられない。そういうものと戦い続けていたんです……」
彼女の涙が、ダイの苦しみを代弁するかのように流れた。僕はその絵を見据えて、ダイの内なる混沌を思い遣った。
「日本を出た後、あの子は葉書を送ってきたんです……」
彼女はじっと手元を見つめたまま、声を低くした。
「その中には、こんなことが書かれていました。『ムカデは俺を完全にするために存在している』って……」
彼女の声には震えがあった。僕はその言葉を胸に抱えながら、慎重に言葉を探し、「彼は……何になろうとしてたのでしょうか?」と尋ねた。
僕の問いかけに、彼女はしばらく返事をしなかった。それから、彼女は息を吸い、ゆっくりと首を振った。
「……あの子は、それと戦っていたんです」
彼女の声は、段々と小さくなるようだった。
「……どこか、安らげる場所を探していたんだと思います。……私には、それ以上、わかりません」
彼女の目には、遠い記憶が浮かんでいるかのような、そしてその記憶がもう届かない場所にあるような、そんな悲しみがあった。

    *

数日ぶりに山荘に戻ると、タローは静かにベッドの脇で眠っていた。窓から漏れる柔らかな光が、丸まった身体を優しく包んでいる。タローは物音に目を覚ますと、鈴の音のような軽やかさで僕にじゃれついてきた。その無邪気な喜びに、僕の心も温かくなる。
シャワーから上がると、ルツからメッセージが届いていた。彼女が明日、山荘に来るという知らせだった。ルツがここを訪れるのは初めてだ。どこかしら、彼女の存在が新しい息吹を与える予感がした。

翌日の昼過ぎ、ルツは思いのほか早く到着した。タクシーで麓に着いたとの連絡が来た時、僕はちょうど迎えに行く準備をしていた。
門を開けた後、登ってきた車を降りたルツの姿を見て、タローは軽快に歩み寄り、歓迎するように足元をひと回りし、彼女を見上げた。僕がようこそと迎えて、簡単に自宅を案内してしまうと、ルツは感心してみせてから、「となりに私の家を建ててもいい?」と訊いた。僕は「それは素敵だ」と笑った。
それから僕らはタローを連れて小川に向かい、砂利を敷いた山道を下っていった。木々の間に入ると、空気はひやりと冷たく、樹皮、枯れ葉、土、それぞれの香りが立ち込めて、歩くにつれてせめぎ合うようだった。
不意に、ルツが道の脇に留まった。彼女は興味を惹いたものがあると、その場に立ち止まることがあり、僕は、彼女が何にどう思ったのか、訊いたものだった。絵画でも音楽でも映画でも食事でも、同じものを観てどう思ったかを比べることは、僕らの楽しみだった。
彼女の後ろから覗きこむと、木々が開けた草むらに、血のように紅い花が一輪だけ咲いていた。
「永遠――とでも呼べそうな、なんども繰り返されてきた風景」
「唐突で独立していながら、必然のように揺るぎない風景」
そのように言葉を交わして、お互いに確かめるように目を合わせ、小さく笑った。
道を下りきると、丸石の転がる川原に出る。僕らは大きな岩に座って透明な川の流れを眺めた。川の上には色付いたイロハカエデが揺れていた。
タローが何か言いたげに、鼻息を荒げ始めたので、僕はリードを外してあげた。
「家族は元気?」と、間を置いて切り出すと、ルツは小さく頷いた。
「元気よ。お父さんが一度倒れちゃったけど、いまはもと通り」
彼女の声は明るいが、そこには影が感じられた。
「そうか、それは良かった」
「そういう年齢になってきたのよね」

しばらくの沈黙の後、僕は重い言葉を口にした。
「こないだダイの家に行ってきたんだけど、……ダイ、自殺だったみたい」
「嘘……」

    *

家に戻るとニケが来ていた。ニケはルツに軽く挨拶を済ませると、「用意しますんで、お茶しばきましょう」と歩き出した。僕は「関西のおっさんか」と小さく言うと、ニケは笑って仕度のためキッチンに引っこんだ。タローと目が合ったので、僕はガラス戸を開けて出してやった。そしてルツにゴムボールを渡した。ルツは綺麗に遠くへ投げた。
ニケがハーブティーを持ってきた頃、ルツは「タローいい子だね」と言ってタローと部屋に戻ってきた。「ありがとう、ニケのお陰だな」と僕が答えると、「へへ、私に似たんです」とニケは照れるように言った。「似てないわ」と僕は笑って返した。

ニケが部屋を出て静けさが戻ると、ルツはハーブティーを手に取り、ゆっくりと一口飲んだ。その仕草は何か思案しているようだった。
「先日の展示、驚いたよ。抽象が増えたね。俺の知らないルツがいた」
僕がそう言うと、ルツは顔を綻ばせた。
「ありがとう。その通りで、前は具体的な形にこだわっていたけど、今はより抽象的な表現に向かっているの。人がそれぞれ、自分の物語を見つけられる余白を増やしたいと思って。普遍的にね。それが今のテーマのひとつよ」
彼女の言葉には、試行錯誤し続ける情熱と、着実な進歩が感じられた。
「それは、何かきっかけがあったの?」
ルツは一瞬視線を遠くにやり、静かに答えた。
「……先生が亡くなったのよ」
彼女はカップの中を見つめながら続けた。
「私は先生からたくさん影響を受けたから、先生を超えなければならないというプレッシャーを感じていて。それが私の焦燥を加速させるの。でも、この焦燥こそが、私をより一層、芸術へ駆り立てているのよ。いま私は、かつてなく芸術に近づいてる。私の人生は、芸術のためにあると思えるくらい」
ルツはカップを見つめたままだった。
「わかる気がするよ。でも、無理はしてほしくないな」
ルツは目を上げて口元を緩めた。しかし、テーブルの上に置いた薬指は強張っているように見えた。
「テンは情熱が消えたと言ってたわね。でも、私にはそういう感覚はないの。何かが満たされたとしても、理想の片鱗が見えたり、過去の作品に粗を感じたりするたび、もう一度、手を伸ばさなきゃって気持ちが湧いてくる。それが、私が生きているって感じられる瞬間なのよ。私には届かない理想が常にあって、それに飢えているの。私はこの歪みを抱えてゆく、覚悟をしているのよ」
彼女の言葉は、自らの血肉を差し出すかのように透徹した意志で満ちていた。僕はその言葉を聞きながら、ルツの中にある情熱の奔流が、自分の生き方とは全く異なる方向へと流れていることを理解し、胸の奥に寂しさが広がってゆくのを感じた。
「俺も芸術を追い求めていたけど、恐らくそこまで思い切れたことはなかった。俺にとって芸術は、生活を彩る手段であり、救済をその理想としていた」
ルツは曖昧な笑みを口元に保ちながら、頷いていた。「それもひとつの在り方よね。……でも、私にとっての芸術は、生活を支えるものじゃない。瞬間を永遠にするためにあるの。私は、それを生み出すために存在しているのよ」
僕の胸の奥で、重く沈む感覚があった。彼女は、自分自身の存在を突き詰め、そこに居場所を見出したのだ。その言葉には、芸術への深い愛情とそれに伴う孤独が滲んでいる。
「そう考えてみると、俺は徹頭徹尾、現実的な人間に思えてくるよ。人の役に立たなければ、自己の存在を肯定できない。そんな気持ちに駆り立てられていたんだから」
僕はそう言いながら、ルツの偏執的といえるほどの情熱も、ある種の救いを求めているのではないかと思った。しかし、ルツは自己を見失っているわけではなく、自己表現に真摯に向き合い続けている。僕はその姿に深い敬意を抱いた。
ルツは、優しげな眼で答えた。
「そうだとしても、テンの選択は間違っていなかったと思うわ。お互い自分の道を進んでいる。きっと、それでいいのよ」
僕はその言葉に理解を感じたが、抱いていたルツの姿は幻想であると、突きつけられるようだった。

しばらくして、ルツとの話題は自然に日常的なものへと移り、ニケが会話に加わった。場の雰囲気は、ニケの好奇心を煙に巻いたり満たしたりしていると、徐々に軽くなっていった。陽が傾き、部屋に長い影が伸びる頃、僕はふと、「この後はどうする? ゲストルームはあるけど」と問いかけた。ルツは笑顔を浮かべながらも、柔らかな口調で答えた。
「ここは住みたいくらい居心地がいいけど、今日は帰るね。明日もあるし」
――明日がある、という彼女の言葉が、思いがけず胸に響く。それは何気ない表現でありながら、ここには時間が流れていないことを、象徴するようだった。
「今日はほんとうに楽しかった。ニケとも話せて嬉しかったわ。」そういったルツに、ニケは軽く礼をして「光栄です、マドモアゼル」と、冗談交じりに答える。僕は「貴族かよ」と小さく返した。
それから僕は、ニケを早めに上がらせて、ルツを車で送ってもらうようにした。
最後に、助手席の窓を開けてルツが言った。「ダイに会えるといいね。」
僕はぼんやりと同意した。「ああ、そうだね。」
ルツは手を振り、タイヤの音はやがて聴こえなくなった。――って、もう死んでるよ。僕は回転の遅さを悔やんだ。

僕はテーブルに腰かけて、これからどうするか考え、特に結論もないままキッチンで料理を始めた。ニケには冷蔵庫に旬の食材を入れておくよう言ってあったので、置いてあった鱧と舞茸を取り出し、ソテーにして食べた。
ベッドに仰向けになって、山で縊れたダイを思うと、僕は「辛かったな」と声に出した。そしてここから遠くないその場所を思うと、行ってみたいと思った。最後の日々に、彼は何を考えていたのか、あの頃とどう変わっていたのか、足跡を辿れば、何か気が付くことがあるのではないか。いや、それがなくとも、ダイを偲ぶ時間を取るべきではないか……。窓の外では、風がそっと木々を撫でていた。星が淡く瞬いて、それは彼の影が揺らめくかに思えた。
僕は、ルツにメッセージを送った。
――俺さ、ダイの死んだ山に行ってみようと思うよ。
――どうして?
――このまま忘れてゆくべきじゃない気がして。

その週末、僕は後輩のバンを連れて山へ向かった。目的地は四方を千メートル級の山に囲まれた場所で、車道もない。車を停め、そこからは野営しながら進む行程だった。バンは、飲食店をいくつか経営している。屈強な身体つきで、並んで歩いていると、ボディガードと間違えられたこともあった。僕はこうアウトドアに誘って彼の課題を一緒に考えたりしていた。目的地を決めた経緯についても話したが、バンは全く怖れなかった。
「怖くないのか?」
僕は冗談混じりに尋ねたが、バンは豪快に答えた。
「俺に怖いものなんてありますかね?」

登山口で車を停め、中腹から山を越えると、谷底では、赤や黄に染まった木々が川の両岸に寄り添い、細くうねりながら山間を下っていた。その風景には、季節の移ろいと共に、何か得体の知れないものが忍び寄っているような感覚があった。
陽が傾いてきた頃、岩の張り出した場所で野営することにした。僕らは鹿や猪が来ないよう寝る場所から離れて食事をとり、熊除けにラジオを付け放した。星を散りばめた空はその真空に達するほどに透き通って遠く、そのまま蓋を開けて僕らを宇宙に放り出してしまいそうだった。僕らは焚き火の音を聴きながら会話していたが、ふと気になって、「人生についてどう考えてる?」と尋ねてみると、バンは、「俺なんかは難しいこと考えないっすよ。毎日、楽しくやれたらそれで御の字」と、達観したような陽気さで答えた。
翌朝は、鳥たちの声もなく、冷気が漂って、聖域に踏み入ったかの印象を与えた。次第に霧が濃くなるなか歩を進めて、僕らは五メートルほどの岩壁に差し掛かった。僕はバンに荷を預け、先行してロープを垂らした。
「いいぞ、固定した!」
枝の陰になってよく見えないが、返事がなかった。そして降りてみたところ、誰の気配もなかった。周囲を歩いてみたが、動物の痕跡もなく、《何があった?》と考えると、肌が逆立って寒気がした……。僕は自分に言い聞かせた。《バンなら大丈夫、出るものが出ただけだ。》その言葉で心を落ち着けて、僕は独りで歩き始めた。
間もなく、GPSの設定位置まで辿りついたが、現場がどこかは分からなかった。辺りを二十分ばかり見て回ったが、それらしい形跡もなかった。――と、不意に幼い声が響いた。

「ねえこっちこっち」

その人影は、十歳くらいの少女であった。僕は少女の方へ近づいて行った。少女は距離を保ったまま、僕がついて来ていることを確かめるように振り返り、また進んだ。ふと時計に目をやると、日付が十七月に変わっていた。――十七月?

空が蒼く暮れると、山の輪郭が微かに揺れ、川や木々の音が奇妙な話し声のように聴こえ始めた。歩調にまた不安が混じり、肌に纏わりつく冷気が一層濃くなる。道は黒い小川に沿っていて、その水底は地中深くまで割れているかのように見えた。山は可能世界に満ちている。この瞬間に虎が出てこないとも限らない……。
峠の上から見えた古い黄色電灯のような夕陽が、山間の紫に落ちてゆき、しばらくすると、人家の灯りが見えてきて、暖かい心持ちがした。見上げて通り過ぎる窓からはお香が漂っていた。一台の車が道の悪さに揺れながら向かってきて、僕は脇に避けた。ヘッドライトが眩しかったが、運転席にいるのは体毛に覆われた何かに見えた。しかし、少女に確かめる間もなく、集落の中心にあった屋敷に着いた。
屋敷の玄関には女性が座っており、立ち上がって「お帰りですか」と迎えた。少女はそっけなく「帰ったぞ。お客」と言って中に入っていった。
女性は僕に「ご苦労でしたね。どうぞ上がってください」と労った。
広い玄関に入ると材木の香りが心を落ち着かせた。
そのまま僕は離れに通され、「一時間ほどで用意ができますから、お風呂をどうぞ」と告げられた。ここは旅館をされているのかと訊くと、そうではないと言う。「のちほど主人が説明に上がりますので」と女性は僕を部屋に案内して出ていった。
実際、身体が汚れていたので、言葉に甘えて風呂に入った。露天温泉に浸かって、長く息を吐くと、疲労した身体から解き放たれるような快さだった。檜を枕に、柔らかく照らされた庭の木々を眺めて放心した。そして、風呂を上がると配膳が終わる頃だった。旬の食材を使った多数の小鉢が並んだ食膳に幸福感を覚えた。僕は、女性が会話の隙を与えないのは、客と親しくするのを禁じられているためかもしれないと思い、主人を待つことにして、その日を終えた。

夜中、僕が寝ている横に、屋敷の女性が座っていた。蝋燭の灯りに背を向けて俯いており、その表情を覗うことはできない。女性は囁いていた。
「……まっくらを浮遊する灯りが好き、それはどこかへ連れて行ってくれるから」
僕は身体を動かそうと思ったが、動かなかった。
「……横にふれたあなたの腕が温かくて、私はこのままでいようと思うの。私はあなたに言うわ。あんなふうに雨、こんなふうに雨」
女性はそう言って、ゆっくりと僕の耳元に近づいた。
「ねえ、どうしてあんなこと言ったの? ――手に入れたいって」
「永遠と無限を」

目を覚ましたのは未明だった。部屋にも居た堪れず、外に出ると、炭坑らしき洞窟があった。置かれていた松明を点けて入ってみると、奥からは冷たい空気がゆるりと流れている。
だが、しばらく進むと火が消えてしまった。視界には自分の身体さえ映らず、警戒心から身体が軽くなった。そこで奥から鳥の羽ばたくような音が聴こえ、甲高い声が、それに続いて響き渡った。
……気味が悪かったが、それ以上の物音もないことを確認すると、前後を間違えないように壁を伝ってまっすぐに引き返した。
しかし、入った以上に長く歩いている気がしてくる。――暗闇のせいなのか? などと考えたところで、腕を思い切り引っ張られて投げ出された。獣かもしれない、と思った時、気配の主が口を開いた。
「ちょっと待て、テンか?」
カチッカチッと音がして、松明が燠のように灯った。その光に照らし出されたのは、汚れた顔のダイだった。
僕が「こんなところで何してる?」と咄嗟に言うと、ダイは「こっちのセリフだ、俺はここに住んでる。出入口は塞がれてるはずだが?」と言葉を続けながら、木の箱を指差した。その松明の光は微かで、ダイの姿も箱の輪郭も曖昧で、今にも消えてしまいそうだった。
僕は立ち上がり、腰を下ろした。
「何だってこんなとこに来たんだ?」
僕は心を落ち着けるために、そのダイの問いを、自分に問い直す必要があった。
「……ダイの足跡を辿ってみたいと思ってさ。しかし、ずいぶん深入りしちゃったようで」
「ほんとだぜ、ちょろちょろしてたら殺されるぞ。」彼は笑みを浮かべて続けた。「まあそう言ってくれて嬉しいよ。逆の立場だったら、俺もきっとそうしたろう。」
「しばらく会わなかったな。頑張ったらしいじゃないか。ほんとうに器用な奴だよ」
その言葉は褒めているようでありながら、どこか皮肉にも聞こえたが、僕は「そうは思わなかったけどな」と素直に返し、「ダイこそどこに行っていたんだ? 心配したぜ」と笑った。
彼は、前に組んだ手の二つの親指をくるくる回していた。
「俺はここに来るまでいろんな仕事をしたよ。この世のあらゆる暴力を探して。……血清がほしかったのさ。俺を蝕む病の」
その声は低く、どこか虚ろに響いた。僕は、言葉を選びながら、「お前の衝動か?」と尋ねた。
ダイは乾いた笑みを浮かべた。「そうだよ、だんだん慣れちまったけどな。」
「……見つからなかったのか」
その僕の言葉に、彼は何か探すかのように、視線を遠くに泳がせた。その瞳には、長きに渡る苦悩の重さが察せられるようだった。
「紛争はひどかった。朝起きたら水を汲んで、元気に学校で勉強して、点いたり消えたりする電灯の下で暮らしている子どもたちがだよ、教師ともども小屋に集められて、怯えるままに射殺された。なおもエスカレートして、集落の二十人が、見せしめに四肢を切られて生きたまま放置された。若い娘は三十人もの男に犯されて、顔がパンパンに腫れて、脚も折れて、身体中が血だらけで投げ出された。――何故あいつらはそんなことをすると思う? 威嚇なら度が過ぎているし、性欲じゃああはならない」
ダイはしばし沈黙し、言葉を続けた。
「あれは力の誇示なんだよ。あの集団では、力として肯定されるからやるのさ。その善悪や共感はうちやって、できないことができることに原始的な敬意を表する。もはや報復ですらない。人間はどんなに残虐でグロテスクなことでも、肯定する論理があればやってしまう。それがこの世界の現実だ」
僕はダイが目にした惨状を想いながら、言葉を失っていた。
彼は深く息を吸い込んで、微かに笑った。
「……そして、俺はどうだ? 何の意味もなく、残虐な行為を繰り返してきたんだろうか? ――違う。俺はそれを、芸術だと捉えていた。暴力の中に美を見出し、それを肯定していたんだ」
「――芸術?」
僕は、その言葉の異様さに心がざわついた。
「そうだ、テン。芸術ってのは、世界の真理に触れる行為なんだ。暴力だろうが、愛だろうが、その瞬間に全てを注ぎ込んだら、それは美しいものになる。俺はその〈偉大なる刹那〉を生きてきたんだ。……恐怖も、苦しみも、何もかもが消失する、その瞬間にこそ、救済がある」
そう語るダイの言葉は、僕の胸に小さな風穴を開けるようだった。その傷口からは、彼の深い孤独と閉塞感が伝わってくる。
「俺の中のムカデ、あれはずっと大きくなってな……。構造は分かったが、血清はなかった」
ダイは淡々と続けた。
「ムカデは俺を蝕み続けてる。……暴力に美を見出す度に、そいつが俺の中で蠢く。……俺の存在が否定される度に、そいつは大きくなるんだ……」
彼は吐き捨てるようにそう言って、項垂れた。
「……なあ、テン。俺は残虐な行いを重ねて、その度にビクビクと逃げ出してきた。どんな地獄にも、俺の居場所はなかった」
ダイは僕の心を覗き込むように、その目を向けた。
「……でも分かるか? それでもありふれた夕暮れなんかが美しいんだ。……それでも世界が微笑むなんて、残酷なことだよ。いつも引き裂かれるようだった。……この世に居場所なきものには、冷たく笑ってくれってな!」
僕は、ダイが抱える呪いの、その重さに圧し潰されそうだった。そしてようやく、「辛かったな」と声を絞り出した。
「俺は、ずっと探してたんだよ。もしかしたら、〈刹那〉を作品にできたら、俺にも生活があるんじゃないか、なんて夢を見てたんだ。……でも、もうダメだ。俺に残ったのは、ムカデだけさ」
彼は小さく笑ったが、それは短く、乾いたものだった。
「……だけど、お前に会えてよかったよ」
僕は、その言葉が持つ決定的な響きに、喉の奥が詰まった。「……よせよ。」僕は視線を外して弱々しく言ったが、ダイはどこか悟ったような笑みを浮かべて続けた。
「テン、俺はもう……ここにはいない。もし気が済まなかったら、適当に石でも積んで手を合わせてくれ」
「……わかったよ。しかし、どうしたら帰れるんだ?」
それに対して、ダイは短く答えた。
「君はいつでも帰れる」
僕は「そうなのか」と疑問を残したが、彼はほっとしたように溜め息を吐いた。
「……思うよ。俺は人間に生まれるんじゃなかった。植物の方が良かった。コケでもキノコでも、何でもいい。……ユリだったら最高だよ。Lily――響きも良い」
「素敵だろうな」と、僕も笑みを浮かべたが、それは直ぐに消えた。ダイが消えかけていることを、心のどこかで感じたからだ。僕は消えた松明の微かな名残を追うように、暗闇に手を伸ばした。ダイの硬い手が、確かに僕の手を握った。
「じゃあな。会えてよかったよ」
「……ああ、まっすぐ歩けよ」
僕は立ち上がり、遥かに続く道を想い描いた。

「なあ、見晴らしのいい丘にユリを植えるよ」
振り返ったが音はなく、ダイはもう消えたようだった。

ヘリコプターが過ぎてゆく音を肌に感じて、僕は自分が横たわっていることに気が付いた。目を開けると、葉が揺れる向こうに淡い青空がゆっくりと広がり、頭を動かすと、泥に髪を引っ張られた。時計を見ると日付は戻っていた。どうやらいつからか夢を見ていたらしい。だが、これも夢ではないか? そう思わないでもなかった。
起き上がって髪や服から泥を払い、歩き出すと右足のふくらはぎに痛みが走った。見るとズボンを貫通した噛み跡がある。――蛇? 俺は毒で昏睡していたのか? しかし意識は冴え、意思は充実していた。――気を失わない内に開けた場所か、電波のある場所へ辿り着くこと、それが第一だ。来た道を行けば捜索隊に出くわすかもしれない。そう考えて直ぐに、山岳救助隊を見つけた。声がうまく出せなかったので、枝を揺らして気づいてもらった。
そのまま病院に搬送され、処置と検査を受けると、マムシに噛まれてショックは起こしたものの、症状はほとんど残ってないという所見だった。その報告はバンに伝えられ、彼を通じてニケにも知らせが届いた。ほどなく荷物を持って駆けつけたニケは、涙ぐんでいた。僕は彼女に丁寧に詫び、またバンに山行の礼を電話すると、彼は声を弾ませた。
僕はルツに会いたいと思った。そして、彼女に電話すると、遠くに嗚咽が聞こえた。
「……テンなの? ほんとうによかった……」
その声は、ひとつひとつ揺れていて、胸が痛んだ。僕は心から謝り、病院に向かっていたルツと落ち合う場所を決め、一緒に上野に行こうと伝えた。

三十分後、僕らは駅のホームで再会した。ルツの姿が目に入った途端、身体の力が抜け、足元が僅かにふらついた。涙の跡を残し、口元を震わせるルツは、立ち尽くしたまま、僕を見つめていた。僕らは自然と歩み寄り、強く抱きしめ合った。ルツの肩を抱くと、彼女の額が僕の胸にそっと押し付けられ、その呼吸が伝わってくる。僕も彼女の髪に顔を埋め、その香りで鼻腔を満たした。言葉なく流れる時間が、お互いの実在を感覚に刻み付けていた。
僕らはやがて、少しずつ身体を離した。彼女は、瞳を濡らしながら笑みを浮かべた。僕も笑みを返すと、静かに流れていた想いが、その中で確認されるようだった。僕らは駅を後にし、タクシーに乗り込んだ。
僕は心配をかけてしまったことを詫び、身体の状態について伝えた。ルツの声は、感情を抑えられないままに揺れていたが、しばらくして心臓の鼓動が落ち着きを見せ始めると、ルツは「……ほんと泣いちゃった」と赤くした目を細めた。

上野駅に着くと、風が冷たくて鼻の奥がじんと痛んだ。公園の大通りは、洪水に流されたかのように人もなく、地平線を見るような遠さを感じた。僕らは鳥居をくぐり、石の灯籠の間を歩き、隠れるような階段に向かった。かつて僕らはここで待ち合わせることが多かった。ここから散歩したり、近くのルツの家に行ったりした。その階段に並んで腰を下ろした。
僕はダイのことを、事実と夢とを別にして話した。ダイの本当の胸中は分からないが、重苦しい呪いを抱えて、この世に留まる場所を持てなかったことは事実のように思える。僕はしばし沈黙して、自分の中で区切りができた、と伝えた。
それから僕らは、食堂に向かった。並んでいると当時が蘇って、あれが懐かしい、これが変わったと話をしながら定食を買った。
「はあ、安心する。目の前と想い出でいっぱいにしたくて……」ルツはぼんやりした様子で言った。その表情は安堵に満ちていたが、どこか儚げだった。僕は、少しでも安心させたくて、ルツの手や肩に触れるようにした。

食事を終えてから、僕らはしばらく歩いた。並木道に出ると、冷えた風が鋭く肌を刺し、足元に散らばる枝葉は、貪られた残骸のように転がっていた。その悲鳴が身体中を無数の蛇のように這い回り、僕の胸の内に不安を膨らませる。空には陰鬱な雲が低く垂れこめ、ひび割れた骨のようなソメイヨシノが手を広げて、僕の魂は抗いようもなく捕えられ、咀嚼され、そして彼女は独り、歩いてゆく。――そんな、錯覚というには余りに強い心象が、僕の意識を支配した。
《僕らの道は、もう交わらない。》――その言葉が頭の中を反響する。僕らの選択は、既に僕らを隔てている。その喪失感が胸に穴を開け、寂寥で覆った。僕は呼吸が浅くなるようで、思わず立ち止まってしまった……。
――しかしその時、視界の端に、微かな光の気配を感じた。ゆっくりと顔を上げると、意外にも、雲の切れ間から一条の光が差し込み、西の空は輝き始めていた……。その光が徐々に空を明るく染めるなか、寄り添って頭を傾けたルツから花のような香りが漂い、どこかで練習するらしい喇叭が、勇壮にチャイコフスキーを奏でていた。
さらに視界の先には、異様だが優しげな眼差しを向けた巨人のように、部室棟が聳えていた。僕はその古びた外壁を見つめながら、何かを探していた。それが何かは分からなかったが、視線は自然と引き寄せられ、ある窓に人影を捉えた。そして、その窓から小さな光源がこちらに迫ってくるのを感じた。――しかし、それも一瞬のこと、気が付けば僕はその窓に吸い込まれ、真っ白な光に包まれていた。その光は若葉と共に僕らを祝福しているようだった。僕の中でルツとの記憶が駆け巡っていた……。
――感性を肯定しあい、心身を共鳴させた日々! ――離れてもお互いの存在を身近に感じ、それぞれの世界を暖めて幸福を願っていたのは、その日々があったからだ。それらは余りにも焼きついて、僕が世界を美しいと思う時、そばにはルツがいた。そのように認識される世界に、僕は自分の人生を感じていた。――そのような歪みに、かけがえのなささえ感じていた。――この愛すべき人生の歪み。たとえ人生を重ねられなくとも、僕らはそれを抱えて生きてゆけるだろう。

    *

自宅の東に見晴らしのいい丘があったので、石を積み上げて、ユリの種を蒔いた。晴れ渡る空は遠く澄み、眼下には川と街が見下ろせた。
木陰に腰を下ろすと、煙みたいに質感のある溜め息が出て、肩の力が抜けるようだった。持参した三十年物の古本は、ヴァニラとシナモンの香りがして、洒落た仕上がりだった。木漏れ陽が紙面を踊る、静かな朝。

「……考えてたのだけど、人生の意味って、それぞれの枕草子を作ることじゃない? ――春には若葉を見て、夏には鮎を食べて、いとをかし。それで十分な気がする」
「……自分の心を動かすもので生活を作る。いつかの哲学みたいだ」
「ははは、正解」
「ずいぶん先越されてたな」
「変わらないことなんだよ」
――そうだ。自己を見失わずに生きること。それ自体がひとつの生の芸術だろう。
「人生はさ、自分の生活と充実を守って、あとは社会にできることをできるかぎりでやる、それで十分だと思う。……でも社会は競争に負ければ滅びる。グローバル企業に産業を潰されたり、武力で略奪されたり、生産力がないと別の社会に呑み込まれてしまう」
――結局、いかに文明ヅラしたって、ここは欲が打つかり合う世界で、下らない小競り合いに巻きこまれ、苛烈な論理に圧し潰されてしまう。だから、自分たちが血を流さないために、何で勝ちつづけ、何を守るか、社会を機能させねばならない。
「社会には尊厳がない」
――そう、尊厳がない。それ故にこそ、自己と向き合い続ける生に、かけがえのなさという尊厳が際立つものだ。機能、機能、……そればかりじゃなくて、自己を見出すことを促し、もっと人格を尊重する社会を作れたら……。なあカント、君のいう目的の王国を。僕らの本当の生活を。――俺はそのために自由と尊厳を歌い続けたい……。

僕はメフィストフェレスに会いたかった。
彼こそが人間の尊厳であるようにさえ思えた。

「ねえ、また小説を書いてみるよ」
「素敵、どんなこと書くの?」
「そうだな、これまでの人生……俺が経験してきたことが、誰かの力になるように」
「きっといいものになるよ」

いつか僕は、誰かに息のできる世界を差し出せるだろうか? いつか僕は、生の芸術を創れるだろうか? いや、そんな大したものでなくていい。砂のようにこぼれてゆく僕の人生から、ほんの少しの好意だけでも受け取ってもらえたらそれでいい。――やってみようと思う。やらなくてはゼロだ。あの懐かしい悪魔をつかまえて、記憶と思想と表現とを引っ張りだして、現実を忘れるくらい没頭してみよう。この世界の美しさと自由を教えてくれた、十七月に耳を澄ませて。