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小説|十七月の歌 5/6

混沌とそれぞれの秩序

その週末、僕は後輩のバンを連れて山へ向かった。目的地は四方を千メートル級の山に囲まれた場所で、車道もない。車を停め、そこからは野営しながら進む行程だった。バンは、飲食店をいくつか経営している。屈強な身体つきで、並んで歩いていると、ボディガードと間違えられたこともあった。僕はこうアウトドアに誘って彼の課題を一緒に考えたりしていた。目的地を決めた経緯についても話したが、バンは全く怖れなかった。

「怖くないのか?」僕は冗談混じりに尋ねたが、バンは豪快に答えた。

「俺に怖いものなんてありますかね?」

登山口で車を停め、中腹から山を越えると、谷底では、赤や黄に染まった木々が川の両岸に寄り添い、細くうねりながら山間を下っていた。その風景には、季節の移ろいと共に、何か得体の知れないものが忍び寄っているような感覚があった。

陽が傾いてきた頃、岩の張り出した場所で野営することにした。僕らは鹿や猪が来ないよう寝る場所から離れて食事をとり、熊除けにラジオを付け放した。星を散りばめた空はその真空に達するほどに透き通って遠く、そのまま蓋を開けて僕らを宇宙に放り出してしまいそうだった。僕らは焚き火の音を聴きながら会話していたが、ふと気になって、「人生についてどう考えてる?」と尋ねてみると、バンは、「俺なんかは難しいこと考えないっすよ。毎日、楽しくやれたらそれで御の字」と、達観したような陽気さで答えた。

翌朝は、鳥たちの声もなく、冷気が漂って、聖域に踏み入ったかの印象を与えた。次第に霧が濃くなるなか歩を進めて、僕らは四メートルほどの岩壁に差し掛かった。僕はバンに荷を預け、先行してロープを垂らした。

「いいぞ、固定した!」

枝の陰になってよく見えないが、返事がなかった。そして降りてみたところ、誰の気配もなかった。周囲を歩いてみたが、動物の痕跡もなく、《何があった?》と考えると、肌が逆立って寒気がした……。僕は自分に言い聞かせた。《バンなら大丈夫、出るものが出ただけだ。》その言葉で心を落ち着けて、僕は独りで歩き始めた。

間もなく、GPSの設定位置まで辿りついたが、現場がどこかは分からなかった。辺りを二十分ばかり見て回ったが、それらしい形跡もなかった。――と、不意に幼い声が響いた。

「ねえこっちこっち」

その人影は、十歳くらいの少女であった。僕は少女の方へ近づいて行った。少女は距離を保ったまま、僕がついて来ていることを確かめるように振り返り、また進んだ。ふと時計に目をやると、日付が十七月に変わっていた。――十七月?


空が蒼く暮れると、山の輪郭が微かに揺れ、川や木々の音が奇妙な話し声のように聴こえ始めた。歩調にまた不安が混じり、肌に纏わりつく冷気が一層濃くなる。道は黒い小川に沿っていて、その水底は地中深くまで割れているかのように見えた。山は可能世界に満ちている。この瞬間にも虎が出てこないとも限らない……。

峠の上から見えた古い黄色電灯のような夕陽が、山あいの紫に落ちてゆき、しばらくすると、人家の灯りが見えてきて、暖かい心持ちがした。見上げて通り過ぎる窓からはお香が漂っていた。一台の車が道の悪さに揺れながら向かってきて、僕は脇に避けた。ヘッドライトが眩しかったが、運転席にいるのは体毛に覆われた何かに見えた。しかし、少女に確かめる間もなく、集落の中心にあった屋敷に着いた。

屋敷の玄関には女性が座っており、立ち上がって「お帰りですか」と迎えた。少女はそっけなく「帰ったぞ。お客」と言って中に入っていった。女性は僕に「ご苦労でしたね。どうぞ上がってください」と労った。

広い玄関に入ると材木の香りが心を落ち着かせた。僕は離れに通され、「一時間ほどで用意ができますから、お風呂をどうぞ」と告げられた。ここは旅館をされているのかと訊くと、そうではないと言う。「のちほど主人が説明に上がりますので」と女性は僕を部屋に案内して出ていった。

実際、身体が汚れていたので、言葉に甘えて風呂に入った。露天温泉に浸かって、長く息を吐くと、疲労した身体から解き放たれるような快さだった。檜を枕に、柔らかく照らされた庭の木々を眺めて放心した。そして、風呂を上がると配膳が終わる頃だった。旬の食材を使った多数の小鉢が並んだ食膳に幸福感を覚えた。僕は、女性が会話の隙を与えないのは、客と親しくするのを禁じられているためかもしれないと思い、主人を待つことにして、その日を終えた。


夜中、僕が寝ている横に、屋敷の女性が座っていた。蝋燭の灯りに背を向けて俯いており、その表情を覗うことはできない。女性は囁いていた。「……まっくらを浮遊する灯りが好き、それはどこかへ連れて行ってくれるから。」僕は身体を動かそうと思ったが、動かなかった。「……横にふれたあなたの腕が温かくて、私はこのままでいようと思うの。私はあなたに言うわ。あんなふうに雨、こんなふうに雨。」女性はそう言って、ゆっくりと僕の耳元に近づいた。

「ねえ、どうしてあんなこと言ったの? ――手に入れたいって」

「永遠と無限を」


目を覚ましたのは未明だった。部屋にも居たたまれず、外に出ると、炭坑らしき洞窟があった。置かれていた松明を点けて入ってみると、奥からは冷たい空気がゆるりと流れている。だが、しばらく進むと火が消えてしまった。視界には自分の身体さえ映らず、警戒心から身体が軽くなった。そこで奥から鳥の羽ばたくような音が聴こえ、甲高い声が、それに続いて響き渡った。……気味が悪かったが、それ以上の物音もないことを確認すると、前後を間違えないように壁を伝ってまっすぐに引き返した。しかし、入った以上に長く歩いている気がしてくる。――暗闇のせいなのか? などと考えたところで、腕を思い切り引っ張られて投げ出された。獣かもしれない、と思った時、気配の主が口を開いた。

「ちょっと待て、テンか?」カチッカチッと音がして、松明に淡い火が灯った。その光に照らし出されたのは、汚れた顔のダイだった。僕は「こんなところで何してる?」と咄嗟に言った。「こっちのセリフだ、俺はここに住んでる。出入口は塞がれてるはずだが?」ダイは言葉を続けながら、木の箱を指差した。その松明の光は微かで、ダイの姿も箱の輪郭も曖昧で、今にも消えてしまいそうだった。僕は立ち上がり、腰を下ろした。

「何だってこんなとこに来たんだ?」僕は心を落ち着けるために、そのダイの問いを、自分に問い直す必要があった。「……ダイの足跡を辿ってみたいと思ってさ。しかし、ずいぶん深入りしちゃったようで。」「ほんとだぜ、ちょろちょろしてたら殺されるぞ。」ダイは笑みを浮かべて言う。「……まあそう言ってくれて嬉しいよ。逆の立場だったら、俺もきっとそうしたろう。」

「しばらく会わなかったな。頑張ったらしいじゃないか。ほんとうに器用な奴だよ。」その言葉は褒めているようでありながら、どこか皮肉にも聞こえた。僕は「そうは思わなかったけどな」と素直に返し、「ダイこそどこに行っていたんだ? 心配したぜ」と笑った。

ダイは、前に組んだ手の二つの親指をくるくる回していた。「俺はここに来るまでいろんな仕事をしたよ。この世のあらゆる暴力を探して。……血清がほしかったのさ。俺を蝕む病の。」ダイの声は低く、どこか虚ろに響いた。僕は、言葉を選びながら、「お前の衝動か?」と尋ねた。彼は乾いた笑みを浮かべた。「そうだよ、だんだん慣れちまったけどな。」「……見つからなかったのか。」その僕の言葉に、ダイはゆっくり頷くと、何か探すかのように、視線を遠くに泳がせた。その瞳には、長きに渡る苦悩の重さが察せられるようだった。

「紛争はひどかった。朝起きたら水を汲んで、元気に学校で勉強して、点いたり消えたりする電灯の下で暮らしている子どもたちがだよ、教師ともども小屋に集められて、怯えるままに射殺された。なおもエスカレートして、集落の二十人が、見せしめに四肢を切られて生きたまま放置された。若い娘は三十人もの男に犯されて、顔がパンパンに腫れて、脚も折れて、身体中が血だらけで投げ出された。――何故あいつらはそんなことをすると思う? 威嚇なら度が過ぎているし、性欲じゃ、ああはならない。」ダイは一瞬沈黙し、言葉を続けた。「あれは力の誇示なんだよ。あの集団では、力として肯定されるからやるのさ。その善悪や共感はうちやって、できないことができることに原始的な敬意を表する。もはや報復ですらない。人間はどんなに残虐でグロテスクなことでも、肯定する論理があればやってしまう。それがこの世界の現実だ。」

ダイの瞳は暗く、鋭さを増していた。僕は彼が目にした惨状を想いながら、言葉を失っていた。

ダイは深く息を吸い込んで、微かに笑った。「……そして、俺はどうだ? 何の意味もなく、残虐な行為を繰り返してきたんだろうか? ――違う。俺はそれを、芸術だと捉えていた。暴力の中に美を見出し、それを肯定していたんだ。」彼の目の奥には、深い闇が感じられた。「――芸術?」僕は、その言葉の異様さに心がざわついた。「そうだ、テン。芸術ってのは、世界の真理に触れる行為なんだ。暴力だろうが、愛だろうが、その瞬間に全てを注ぎ込んだら、それは美しいものになる。俺はその〈偉大なる刹那〉を生きてきたんだ。……恐怖も、苦しみも、何もかもが消失する、その瞬間にこそ、救済がある。」そう語るダイの言葉は、苦悩に叩き上げられた密度を持ち、僕の胸に小さな風穴を開けた。その傷口からは、彼の深い孤独と閉塞感が伝わってくるようだった。

「俺の中のムカデ、あれはずっと大きくなってな……。構造は分かったが、血清はなかった。」ダイは淡々と語ったが、その目には絶望と、抑え込んだ感情とが揺れていた。「ムカデは、俺を蝕み続けてる。……暴力に美を見出す度に、そいつが俺の中で蠢く。……俺の存在が否定される度に、そいつは大きくなるんだ……。」ダイは吐き捨てるようにそう言って、項垂れ、肩を僅かに震わせていた。

「……なあ、テン。俺は残虐な行いを重ねて、その度にビクビクと逃げ出してきた。どんな地獄にも、俺の居場所はなかった。」ダイはゆっくりと顔を上げて、僕の心を覗き込むように、その目を向けた。「……でも分かるか? それでもありふれた夕暮れなんかが美しいんだ。……それでも世界が微笑むなんて、残酷なことだよ。いつも引き裂かれるようだった。……この世に居場所なきものには、冷たく笑ってくれってな!」

僕は、ダイが抱える呪いの、その重さに圧し潰されそうだった。そしてようやく、「……辛かったな。」と声を絞り出した。

「俺は、ずっと探してたんだよ。もしかしたら、〈刹那〉を作品にできたら、俺にも生活があるんじゃないか、なんて夢を見てたんだ。……でも、もうダメだ。俺に残ったのは、ムカデだけさ。」ダイは小さく笑ったが、それは短く、乾いたものだった。「……だけど、お前に会えてよかったよ。お前だけは、俺が何を言っても、最後まで見てくれるだろう?」

僕は、その言葉が持つ決定的な響きに、喉の奥が詰まった。「……よせよ。」僕は視線を外して弱々しく言ったが、ダイはどこか悟ったような笑みを浮かべて続けた。「テン、俺はもう……ここにはいない。もし気が済まなかったら、適当に石でも積んで手を合わせてくれ。」

僕は背中に冷たいものを感じた。「……わかったよ。しかし、どうしたら帰れるんだ?」それに対して、ダイは短く答えた。「君はいつでも帰れる。」僕は「そうなのか」と疑問を残したが、彼はほっとしたように溜め息を吐いた。

「……思うよ。俺は人間に生まれるんじゃなかった。植物の方が良かった。コケでもキノコでも、何でもいい。……ユリだったら最高だよ。Lily――響きも良い」

「素敵だろうな」と、僕も笑みを浮かべたが、それは直ぐに消えた。ダイが消えかけていることを、心のどこかで感じ取ったからだ。僕は、消えた松明の微かな名残を追うように、僕は暗闇に手を伸ばした。ダイの硬い手が、確かに僕の手を握った。

「じゃあな。会えてよかったよ」

「……ああ、まっすぐ歩けよ」

僕は立ち上がり、遥かに続く道を想い描いた。


「なあ、見晴らしのいい丘にユリを植えるよ」

振り返ったが音はなく、ダイはもう消えたようだった。