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小説|十七月の歌 3/6

精神的血縁

僕が目を覚ますとタローは起きていたらしく、こちらを見ていた。まだ薄暗い部屋の中、朝焼けの窓は紫色で、ガラス戸を開くとタローは草の上に降りてしっぽを振った。一度フェイントをかけて、ゴムボールを思い切り投げると、稜線の淡い山々には遥か及ばず、雑木林の前に落ち、タローは草原を駆けていった。その光景に、心がどこか遠くへと引き寄せられるのを感じた。空は徐々に黄色に染まり、朝の息吹が広がってゆく。それを眺める内に、タローは帰ってきた。僕は、早かったねと褒める。

山荘が建つと、僕はそこに移り住んだ。近しい人々との交流は続け、政治家や企業重役なども、来日の際には声をかけてくれた。僕は時折、彼らを山荘に招くこともあったが、日々の筋力トレーニングを欠かさず、朝夕にタローと散歩し、静かで内省的な時間を過ごすことを大事にしていた。――一日の分を弁えることは、壮年の美徳である。

察しの良いタローが吠えた。家事手伝いが来たのだろう、近所の実家に戻っていた後輩のニケに頼んでいた。彼女が入ってくると、僕は挨拶をした。数日空けていたためか、表情が明るかった。「おはようございます。集会サバトはこちらで?」ニケが挨拶した。「魔女かいな」と僕は答える。「こんな家政婦は嫌だ――どんなでしょう?」「ええと、……勤め先で必ず事件が起こる。」ニケは「名探偵ですね〜」と笑って荷物を置き、今日はカフェインレスの珈琲でいいかと確認した。僕は頷いて、また言った。「こんな家政婦は嫌だ――タローが懐きすぎる。」するとニケはタロちゃんと呼びかけ、「あんまり家を空けると忘れられちゃいますよ」と答えた。タローはニケの足元に来て座り、僕らを交互に見ていた。僕は「嘘々、助かってる」と誤魔化した。



果たして僕が生活から解放されるまで八年を要し、ルツのもとには戻らなかった。彼女はといえば油画を続けて、今や自分の画風を得るに至ったらしい。ともかく作品は売れているようだった。ただ正直なところ、その売れ筋の芸術性を僕は理解できていなかった。彼女というブランドを身につけたい人々の装飾シンボルのように見えた。そうは言うものの、僕も気に入ったものをひとつ購入して、久しぶり、とメッセージを交わした。そしてルツは言った。

「大久保利通で会わない?」

大久保利通というのは青山霊園の墓のことだ。僕らは霊園を散歩する際、ある時は永井荷風、またある時は渋沢栄一と墓の前で待ち合わせた。大久保利通の墓は、性器崇拝みたいに大きな亀の石像から墓石が伸びている。ここは高台で草木が周りを囲み、人目に付きにくい。雨降る初夏などは一層隔絶されて居心地が良かった。

石像の前に腰かけているとヒールの音が聴こえ、角からルツが現れた。タイトなワンピースに帽子を被り、大人びて妖艶に見えた。お互いサングラスを外すと、顔の造作の懐かしさが心の奥に触れるようで、自然と抱きあった。ルツが「会いたかった」と耳元で囁いた。「俺もさ」と答えたその声は、自分でも驚くほど、深くから湧いた実感を伴っていた。風は木々の間を抜け、小さな渦を作りながら葉を揺らしていた。僕らは一緒に腰を下ろし、互いの空白を埋め始めた。

「USに行ってからもルツのことをよく想い出したよ。」そう僕が告げると、ふふ、とルツは嬉しそうに笑った。「若葉とか景色とか、ああ綺麗だなって思う時、そこにルツもいるんだ。隣で一緒に感動してる。その時、すごく安心するんだ。俺の感性は間違ってない。この世界には俺の理解者がいる。そう思えて。」するとルツは、目を細めて笑顔を見せた。「それは事実、ちゃんと私も頷いてたよ。」その言葉に僕は、「テレパシーが懐かしいな」と笑った。僕らは相手が何を考えているか当てる遊びをしていた。実際それはよく当たり、頭の中まで一緒にいるような気がしたものだ。

「私はいいことがあったとき、上野に行ってテンに話してたよ。賞もらったとか、仕事決まったとか。」ルツは、想い馳せるように遠くを見た。そして僕が、「あの場所で聞かせてくれてたんだ」と呟くと、ルツは大事に仕舞うように、そうなの、と答えた。

ルツは、創作の幅を広げ、多忙な日々の中で新たな挑戦を重ねていると話した。その言葉には確かな手応えがあり、充実感が溢れていた。一方、僕も心境の変化や会社売却後の生活について語ったが、少し自嘲的な響きがあった。

「まあ、大したことを成したわけじゃないさ。」僕は肩を竦めて言った。

「それは嘘よ。」ルツは、幼げな狡さを口元に浮かべながら、軽く首を振った。

「でも、あなたのメフィストフェレスはなんて言ってるの?」


――僕のメフィストフェレス?

それは消えてしまったかに見えた。


ルツは僕の手を両手で握っていた。目を見つめると身体の隅々まで記憶が蘇り、欲望が急速に膨張するのを感じた。しばらく二人で引いては寄せる波を眺めるように甘い空気に浸っていた。

やがて僕らは霊園を後にし、タクシーに乗って六本木の自宅へ向かった。言葉は少なかったが、時折視線を合わせ、沈黙の中に胸の高鳴りを共有していた。ルツは自宅に着くと、窓から見える高層階の景色に目を輝かせていた。僕はその後ろから、静かにルツを抱きしめた。彼女の甘い香りと柔らかな肌の温もりは、懐かしさと共に、火を灯していった。

「ずっと、こうしたかった……」

ルツはそう囁いたが、自分でもその言葉に驚いたように、身体を僅かに強張らせた。僕はその仕草に違和感を覚え、抱きしめた腕を少し緩めたが、ルツはすぐに僕の腕を引き寄せ、強くしがみついてきた。そしてルツはゆっくりと顔を近づけ、唇が触れ合う瞬間、その甘い感触に溶け込もうとしていた。

唇が重なると、僕たちはお互いの存在を確かめ合うように、時間と行為を重ねていった。ルツの緊張が徐々に解かれてゆくその様子は、繊細な糸が解けるかのようで、彼女の内側が僕の前に差し出されているような感覚だった。それと同時に、僕自身の心も透けてしまったかのように、彼女に導かれてゆくのを感じた。その瞬間、安堵と喜びが胸に満ちていた……。

――ただ、あの一瞬の動揺は、再会によるものか、それとも彼女自身が抱える何かを示しているのか、僕の中に淡い疑念が残った。



数週間後、僕は招待を受けていたルツの個展の開場式典オープニングセレモニーに顔を出した。表参道の会場に足を踏み入れると、漂う樹木ウッディな香りに、ヴァニラの甘さが混じり、擽るような高揚感を帯びて、この空間を緊張と安らぎの狭間に揺れ動かしていた。黒と金のコントラストが広がる室内では、柱から流れる水が、祝祭の序曲を奏でるかのように落ち、その柱に沿ってカーブを描く階段の下には、広大な地下空間が開かれていた。重低音が奥のステージから漏れ、仄かに壁を照らす青白い光が清涼さを高めていた。

ルツは僕に気づくと、舞うように近づいてきた。その自然ながら優雅な所作は、柔らかな風を感じさせる。軽やかな挨拶ハグは甘美な香りを伴い、僕の心に余韻を残した。無造作な毛流れが束髪シニヨンに流れ込み、赤いドレスの鮮やかな光沢が彼女の存在感を際立たせている。

ルツの周囲には名士たちが集い、彼女の存在に酔い、その成功を称えていた。僕もまた彼らから祝辞を受け、売却に関する話題や最近の動向を交わしたが、それらの声はルツの作品の前に薄れていった。遠目に見える絵が、以前の印象とは異なり、空間の中で生ける象徴のように息付いており、僕を吸い寄せていたからだ。僕は話を切り上げて、展示へ向かった。

ルツの絵は、その壁面に等間隔で配置されていた。ガラスの奥の絵は、スポットライトの光を浴びて、無機質な冷たさと熱い感情の交錯を感じさせる。彼女の技術が、絵画という生物に呼吸を吹き込み、その命は静かに燃えていた。

空間が変わることで、作品の印象は変化する。作品は装飾に過ぎないようにも見えたが、じっくりと向き合ってゆくと、その不調和には意図が潜んでいることを発見した。彼女はこの空間を、自身の感覚の一部のように掌握し、演出している。作品を見つめる内、躍動する線や色彩が誇張され、心の中で波立つリズムに呼応し、ルツの感情そのものが僕の前で踊り始めたかのようだった。僕はそこに、八年という空白が色付いてゆくのを感じた。

展示を一巡しながら、彼女の技術がもたらす震撼を感じずにはいられなかった。絵の一枚一枚が彼女の精神の断片を映し、観る者の心を鋭く刺し、あるいは鈍い痛みで満たす。彼女の筆は、淀みのない精緻さで内面の情景を浮かび上がらせ、絵画はその深淵に潜む感情を惜しみなく開示していた。

僕が購入した作品もそこに展示されていた。その作品を初めて観た時、僕は詩人がいう〈眩暈めまい〉を覚えた。そしてそこに、僕に向けられたルツの視線を感じていた。作品に描かれた異形の生物たちは、どれひとつとして明瞭な輪郭を持たず、形は曖昧で、鑑賞者の解釈を試すかのように漂う。だが、視点を固定しようとすれば、混沌とした像が次々に現れ、激しく打つかり合う。これによって、鑑賞者は認知を揺さぶられ、〈眩暈〉に支配される。

しかし、近年の作品には、これまでとは一線を画す変化が見られた。色彩はより鮮明で、形は抽象へと深化していた。曖昧さの中に具象性の余韻を微かに留めた、新たな美の追求だった。それはルツ自身の内面に秘められた何か――触れがたいものが表出しているようだった。

ルツが囲まれている輪にそっと近づき、彼女の肩に軽く手を置くと、耳元で囁いた。「素敵だったよ。」ルツは振り返り、ぱっと笑みを浮かべた。「もう帰っちゃうの?」「そうだな。俺も負けてられないな、と思って。」彼女はその言葉に応じて、微かに笑みを深めた。「そんなこと言って。」

僕はルツの優しさを当てにして、冗談を口にしたが、彼女はそれ以上引き止めるでもなく、名残惜しそうに別れの挨拶を交わした。あるいは、それも読んだ上でのルツだったかもしれない。