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小説|十七月の歌 4/6

選択と相克

ルツから僕とユノのいるグループにニュースが送られてきた。

――山中で男性遺体、登山中に滑落か

ダイが遺体で見つかり、美大のクラスで情報を集めているらしい。ニュースによれば、発見現場は僕の家から遠くない山の中腹だった。

僕が最後にダイと会ったのは、技術職として彼のキャリアを考え、まず簡単な業務に就いてもらった時だった。その仕事には齟齬があったのだろう、一か月も経たずに彼は去り、僕も自然と連絡を絶っていた。その後、彼が遠くへ行ったという話をルツの友人から聞いた。欧州の国々を転々とし、時にはアフリカの地にまで足を伸ばしていたらしい。

なぜ彼が再び日本の山奥に戻ってきていたのかは、誰も知らないようだった。僕は彼の実家の連絡先を手に入れ、電話をして、週末に訪れることにした。彼の両親に、どんな言葉をかければいいかは分からない。ただ、彼の死が僕に何か語りかけている気がしていた。


週末、ダイの母が玄関に出迎えてくれた。彼女の瞳には、ダイの面影が色濃く残っており、それを見た瞬間、僕の胸は懐かしさと悲しみで締めつけられた。僕がお悔やみを伝えると、静かに頷き、リビングに案内した。

リビングには、ダイの発見現場の写真と地図が広げられていた。写真に映るダイの首には赤い線が刻まれており、その痕跡に僕は思わず目を留めた。そして彼女に顔を向けると、彼女は俯いて頷いた。写真の中のダイは、引きつった表情で硬直し、彫刻のようだった。――まるで、意識など初めからなかったかのように。

僕が地図を手に取ると、彼女はふと話し始めた。「実は、あの子……高校生の頃、一度精神病院に入院したんです。上の娘が事故で亡くなってから急に変わってしまって……。」彼女の言葉は抑揚を欠き、無意識にするように、指先がテーブルの縁をなぞっていた。「それから、感情を抑えられなくなって、暴力的な衝動がひどくなりました。衝動制御障害と診断されて……病院に入れるしかなかったんです。」そう言って、彼女は何度か瞬きをして、息を整えた。僕は「さぞお辛かったでしょう」としか言えず、自分の無力さに胸を締め付けられた。「……でも、退院後は少し落ち着いたようで、あの子は絵を描くようになりました。それがあの子の心を映し出していたんだと思います。」

彼女は、ダイの絵を僕に差し出した。それはムカデとトンビの絵だった。紫色の空の下、巨大なムカデが砂漠に身を起こし、トンビは逃げるように空を飛んでいた。しかし、砂漠の無限の広がりに逃げ場はなく、それがムカデを一層大きく感じさせる。

「このムカデは……あの子の中にある暴力的な衝動で、トンビは……自由になりたいと願う、あの子自身だったのでしょう。……逃れたいけれど、逃れられない。そういうものと戦い続けていたんです……」

彼女の涙が、ダイの苦しみを代弁するかのように流れた。僕はその絵を見据えて、ダイの内なる混沌を思い遣った。

「日本を出た後、あの子は葉書を送ってきたんです……」彼女はじっと手元を見つめたまま、声を低くした。「その中には、こんなことが書かれていました。『ムカデは俺を完全にするために存在している』って……」彼女の声には震えがあった。僕はその言葉を胸に抱えながら、慎重に言葉を探し、「彼は……何になろうとしてたのでしょうか?」と尋ねた。僕の問いかけに、彼女はしばらく返事をしなかった。それから、彼女は息を吸い、ゆっくりと首を振った。「……あの子は、それと戦っていたんです。」彼女の声は、段々と小さくなるようだった。「……どこか、安らげる場所を探していたんだと思います。……私には、それ以上、わかりません。」

彼女の目には、遠い記憶が浮かんでいるかのような、そしてその記憶がもう届かない場所にあるような、そんな悲しみがあった。



数日ぶりに山荘に戻ると、タローは静かにベッドの脇で眠っていた。窓から漏れる柔らかな光が、彼の丸まった身体を優しく包んでいる。タローは物音に目を覚ますと、鈴の音のような軽やかさで僕にじゃれついてきた。その無邪気な喜びが伝わり、僕の心も温かくなる。

シャワーから上がると、ルツからメッセージが届いていた。彼女が明日、山荘に来るという知らせだった。ルツがここを訪れるのは初めてだ。どこかしら、彼女の存在が新しい息吹を与える予感がした。

翌日の昼過ぎ、ルツは思いのほか早く到着した。タクシーで麓に着いたとの連絡が来た時、僕はちょうど迎えに行く準備をしていた。門を開けた後、登ってきた車を降りたルツの姿を見て、タローは軽快に歩み寄り、歓迎するように足元をひと回りし、彼女を見上げた。

僕がようこそ、と迎えて、簡単に自宅を案内してしまうと、ルツは感心して、となりに私の家を建ててもいい、と訊いた。僕は、それは素敵だと答えた。

僕らはタローを連れて小川に向かい、砂利を敷いた山道を下っていった。木々の間に入ると、空気はひやりと冷たく、樹皮、枯れ葉、土、それぞれの香りが立ち込めて、歩くにつれてせめぎ合うようだった。

不意に、ルツが道の脇に留まった。彼女は興味を惹いたものがあると、その場に立ち止まることがあり、僕は、彼女が何にどう思ったのか、訊いたものだった。絵画でも音楽でも映画でも食事でも、同じものを観てどう思ったかを比べることは、僕らの楽しみだった。

彼女の後ろから覗きこむと、木々が開けた草むらに、血のように紅い花が一輪だけ咲いていた。

「永遠――とでも呼べそうな、なんども繰り返されてきた風景」

「唐突で独立していながら、必然のように揺るぎない風景」

そのように言葉を交わして、お互いに確かめるように目を合わせ、小さく笑った。

道を下りきると、丸石の転がる川原に出た。僕らは大きな岩に座って透明な川の流れを眺めた。川の上には色付いたイロハカエデの葉が揺れていた。それを見て、「新緑の頃、滝を見に行ったのを覚えてる? 枝葉を髪飾りみたいに撮った写真があったね」と想い出して尋ねると、ルツは「大事にしてる」と、嬉しそうに答えた。

僕らは雨にふりこめられてイロハカエデの下にいた。新緑の葉を幾重にもかさね、ほっそりとした白い腕を伸ばすたおやかな幹は、神話的な女性を思わせた。その指先に祝福された彼女の姿もまた、ギリシャの神々のように美しかった。

「あれはいい絵だった」と僕が想い馳せていると、ルツは「また行こうね」と優しく笑った。


タローが何か言いたげに、鼻息を荒げ始めたので、僕はリードを外してあげた。僕も僕で、ルツに伝えるべきことを思い、本題に向かった。

「家族は元気?」と、間を置いて切り出すと、ルツは小さく頷いた。「元気よ。お父さんが一度倒れちゃったけど、いまはもと通り。」彼女の声は明るいが、そこには影が感じられた。僕は「そうか、それは良かった」と頷きながら、胸に鈍い感覚が広がった。ルツがぽつりと呟く。「そういう年齢になってきたのよね。」その声は、現実を受け入れていた。

しばらくの沈黙の後、僕は重い言葉を口にした。

「こないだダイの家に行ってきたんだけど、……ダイ、自殺だったみたい」

「嘘……」



家に戻るとニケが来ていた。ニケはルツに軽く挨拶を済ませると、「用意しますんで、お茶しばきましょう」と歩き出した。僕は「関西のおっさんか」と小さく入れると、ニケは笑って仕度のためキッチンに引っこんだ。タローと目が合ったので、僕はガラス戸を開けて出してやった。そしてルツにゴムボールを渡した。ルツは綺麗に遠くへ投げた。

ニケがハーブティーを持ってきた頃、ルツは「タローいい子だね」と言ってタローと部屋に戻ってきた。「ありがとう、ニケのお陰だな」と僕が答えると、「へへ、私に似たんです」とニケは照れるように言った。「似てないわ」と僕は笑って返した。


ニケが部屋を出て静けさが戻ると、ルツはハーブティーを手に取り、ゆっくりと一口飲んだ。その仕草には、何かを思案しているような余韻が漂っていた。

「先日の展示、驚いたよ。抽象表現が増えたね。俺の知らないルツがいた。」僕がそう言うと、ルツは顔を綻ばせた。「ありがとう。その通りで、前は具体的な形にこだわっていたけど、今はより抽象的な表現に向かっているの。人がそれぞれ、自分の物語を見つけられる余白を、さらに増やしたいと思って。普遍的に、無限にね。それが今のテーマのひとつよ。」彼女の言葉には、試行錯誤し続ける情熱と、その末の確信が感じられた。

僕は気にかかっていた疑問を口にした。「それは、何かきっかけがあったの?」ルツは一瞬視線を遠くにやり、静かに答えた。「……先生が亡くなったのよ。」彼女はカップを持ち上げたが、飲まずにそっと戻し、その中を見つめながら続けた。「私は先生からたくさん影響を受けたから、先生を超えなければならないというプレッシャーを感じていて。それが私の焦燥を加速させるの。でも、この焦燥こそが、私をより一層、芸術へ駆り立てているのよ。いま私は、かつてなく芸術に近付いてる。私の人生は、芸術のためにあると思えるくらい。」ルツはカップを見つめたままだった。「わかる気がするよ。でも、無理はしてほしくないな。」

ルツは目を上げて口元を緩めた。しかし、テーブルの上に置いた薬指は強張っているように見えた。「テンは情熱が消えたと言ってたわね。でも、私にはそういう感覚はないの。何かが満たされたとしても、理想の片鱗が見えたり、過去の作品に粗を感じたりするたび、もう一度、手を伸ばさなきゃって気持ちが湧いてくる。それが、私が生きているって感じられる瞬間なのよ。私には届かない理想が常にあって、それに飢えているの。私はこの歪みを抱えてゆく、覚悟をしているのよ。」

彼女の言葉は、自らの血肉を差し出すかのように透徹した意志で満ちていた。僕はその言葉を聞きながら、ルツの中にある情熱の奔流が、自分の生き方とは全く異なる方向へと流れていることを理解し、胸の奥に寂しさが広がってゆくのを感じた。

「俺も芸術を追い求めていたけど、恐らくそこまで思い切れたことはなかった。俺にとって芸術は、生活を彩る手段であり、救済をその理想としていた。」

ルツは曖昧な笑みを口元に保ちながら、頷いていた。「それもひとつの在り方よね。……でも、私にとっての芸術は、生活を支えるものじゃない。瞬間を永遠にするためにあるの。私は、それを生み出すために存在しているのよ。」

僕の胸の奥で、重く沈む感覚があった。彼女は、自分自身の存在を突き詰め、そこに居場所を見出したのだ。その言葉には、芸術への深い愛情とそれに伴う孤独が滲んでいる。

「そう考えてみると、俺は徹頭徹尾、現実的な人間に思えてくるよ。人の役に立たなければ、自己の存在を肯定できない。そんな気持ちに駆り立てられていたんだから。」僕はそう言いながら、ルツの偏執的といえるほどの情熱も、ある種の救いを求めているのではないかと思った。しかし、ルツは自己を見失っているわけではなく、自己表現に真摯に向き合い続けている。僕はその姿に深い敬意を抱いていた。

ルツは、優しげな眼で答えた。「そうだとしても、テンの選択は間違っていなかったと思うわ。お互い自分の道を進んでいる。それでいいのよ。」僕はその言葉に理解を感じたが、抱いていたルツの姿は幻想であると、突きつけられるようだった……。


しばらくして、ルツとの話題は自然に日常的なものへと移り、ニケが会話に加わった。場の雰囲気は、ニケの好奇心を煙に巻いたり満たしたりしていると、徐々に軽くなっていった。陽が傾き、部屋に長い影が伸びる頃、僕はふと、「この後はどうする? ゲストルームはあるけど」と問いかけた。ルツは笑顔を浮かべながらも、柔らかな口調で答えた。「ここは住みたいくらい居心地がいいけど、今日は帰るね。明日もあるし。」

――明日がある、という彼女の言葉が、思いがけず胸に響く。それは何気ない表現でありながら、ここには時間が流れていないことを、象徴するようだった。

「今日は本当に楽しかった。ニケとも話せて嬉しかったわ。」そういったルツに、ニケは軽く礼をして「光栄です、マドモアゼル」と、冗談交じりに答えた。僕は「貴族かよ」と小さく返すと、部屋に笑いが零れた。それから僕は、ニケを早めに上がらせて、ルツを車で送ってもらうようにした。

最後に、助手席の窓を開けてルツが言った。「ダイに会えるといいね。」僕はぼんやりと同意した。「ああ、そうだね。」

ルツは手を振り、タイヤの音はやがて聴こえなくなった。――って、もう死んでるよ。僕は回転の遅さを悔やんだ。


僕はテーブルに腰かけて、これからどうするか考え、特に結論もないままキッチンで料理を始めた。ニケには冷蔵庫に旬の食材を入れておくよう言ってあったので、置いてあった鱧と舞茸を取り出し、ソテーにして食べた。

ベッドに仰向けになって、山で縊れたダイを思うと、僕は「辛かったな」と声に出した。そしてここから遠くないその場所を思うと、行ってみたいと思った。最後の日々に、彼は何を考えていたのか、あの頃とどう変わっていたのか、足跡を辿れば、何か気が付くことがあるのではないか。いや、それがなくとも、ダイを偲ぶ時間を取るべきではないか……。窓の外では、風がそっと木々を撫でていた。星が淡く瞬いて、それは彼の影が揺らめくかに思えた。

僕は、ルツにメッセージを送った。

――俺さ、ダイの死んだ山に行ってみようと思うよ。

――どうして?

――このまま忘れてゆくべきじゃない気がして。