見出し画像

Doing nothing


気持ちの良い空気を、思いっきり吸いたくなる音楽がある。

ノイズキャンセリングをしても聞こえてくる笑い声がある。


ーいつもゆく湿っぽい温かい喫茶店で背筋を伸ばして執筆している



この世は本当に便利になった。
自分が選択していないもの(ノイズ)が耳元でイヤホンとともにシャットアウトされる、いとも簡単に。

両手で耳を塞いでも、完全には消えることのない音たちがたくさん傍にはあった。
小さい頃は、’目を瞑って両手で耳を塞ぐ私’になることで少しだけ強くなることもできた。自分自身を守れることもできた。

今は、何食わぬ顔でイヤホンさえつけてしまえばノイズがキャンセルできてしまう時代になった。

そんな文明の発達も、久しぶりに人混みの中をゆく私には必要だった。

自分が自分へ還る場所は、’私の此処’しかない。
’私自身’は’私自身’の中にしか存在しないのだ。





2024年
仕事へ起き上がれなかった5月2日
初めてクリニックへ行けた5月13日

朝も晩も泣き崩れた。泣き叫んだ。

心の言葉も頭の中にある言葉も私の知らないものばかりだった。
これでもかというほど涙として排出すると、その回数も減っていった。

『寝たらまた明日がやってくる』

夜になるとこの事実が頭にこびりついて離れなくて、どうしたらいいか分からなくて泣いていた。

この反応はしばらく続いた。


私にはありがたいことに、大切で安心できる居場所があったので’ソレ’に強くしがみついた。しがみつけるだけしがみついた。
’依存’という言葉は浮かんでは消えてを繰り返していた。

しがみつく以外の術は生憎、今の私には持ち合わせていなかった。


しんどくて腹が立って叫びたくなる職場への電話も何度もあった。

「大丈夫?
…じゃないよね。」

「元気そうな声になったね。」


大丈夫なわけないでしょ、声だけ聞いて勝手に言うなよ、、、。



管理栄養士として職場(施設)には在籍していたので、「診断が下りたので休ませてもらいたい。」という文言と共に、『他の管理栄養士さんを探してください。』と言おうと思ったのも束の間、「復帰する予定がないのであれば傷病手当は出せません」と言われた。

私の勤めていた介護老人保健施設には、管理栄養士1人の必置義務(※)があったので、私の3ヶ月の休職期間に他の管理栄養士さんを探してもらった方が会社にとって良いと思ったし、クリニックの先生もそう勧めてくれた。

だから、そんな風に言い負かしてくるような言動は、私や先生の良心をぶった切られた気がしてとても腹がたった。

手当が出ないのは生活に関わるので怖いと素直に思ったし、言い成りになってしまう自分にも嫌気がさす。その時の私は少しばかりか頭が切れていたのか、「復帰したいとは思っていますが、その時の状態次第なのではっきりとは言えないです。」と答えることが出来た。私なりの精一杯の少しの嘘と本当のことを織り交ぜた。

(※)国家資格保持者の配置基準が国から定められているので、介護報酬の算定や栄養マネジメントの加算・減算に関わる


そして無事に? 8月末をもって、
初めての仕事であった介護老人保健施設の管理栄養士の幕を下ろしました。

2年とちょっと。
福岡から兵庫へ、全くの新しい土地へ飛び立って旅するかのようにワクワクしていたから、みんなが想像するほどの不安はそんなには無かったと思う。

最初は’1年働くつもり’の心意気でスタートして、右も左も分からない私の面倒をひと回りもふた回り以上も上の先輩方にみてもらった。たくさんのユーモアな関西弁が飛び立つ職場が楽しくて、全てが新しいこと続きで面白いと感じることが本当に尽きなかった。


気付いたら勤めて1年経っていて、そこから私の違和感がぶわぶわっと浮き出てきた。
この仕事が誰かのためになっているのは分かっている。
人の命に触れる尊いお仕事ということも分かっている。

だけれど、その時の私には”時間を消費している感”があったのだ。1度感じてしまうとそれは拭えなくて、でもこの中(職場)で頑張りたい気持ちはあったので一生懸命やりがいや新しいことへ手をつけてみた。いっときのやる気は芽生えたものの、時間を無駄にしていると思う回数は増えていった。やっぱそうだよな、と思った。

自分にも職場にも上司にも失礼だと、『ちょうど2年のタイミングで辞めよう』、と思った。それに合わせて、なりたかった在宅の管理栄養士の仕事を探した。


いわゆる高齢者施設と呼ばれている職場で働いていた私は、自分の無力さももちろん痛感したが、施設内では思うように動けない施設の無力さも知った。要するに、施設の中の管理栄養士の動ける範囲を知ってしまった。

前提として私自身が施設外でも無力なのは分かっているが、希望を抱いていたが故に施設内の無力さをもっともっと強く感じてしまった。悲しかった。勝手に悲しかった。
まあ、ただ現実を知って体感してしまったから生まれたものだと思う。
でもやっぱり、これを書きながら浮かぶのは
目の前で私の知らない何かと闘っている人がいたら、できる限りで傍にいたいと思うし、それが叶う温かさを持っている自分でありたい。


話を戻そう。

管理栄養士ではあるため、咀嚼や嚥下やエネルギーなどの栄養に関しては裁量権が一応あるのだが、大事なのは他職種連携。ナースさんが指揮をとり、ドクターの判断に基づき、それに加えてご家族さんの同意も必要なのだ。

「リスクがあるから無理。」「お金がかかるから無理。」
この2年で私は強い諦めを知った。

食べたいと言っているお食事の提供ができない。
おやつのひとつですら数々のミッションをクリアしないと提供できない。

’食べること’ですらご本人の希望を叶えてやれないことも、食事を選ぶ自由を与えてあげられないことも、そんな自分がすごく嫌だった。
だから、そんな自分にはならないで済むであろう在宅のお仕事に就こうと思った。『お互いのコミュニケーションをとってケアしたい。』これも勝手な希望だね。でもそうやってぷかぷかしていると、わたしは選ぶ自由のある空間で生きたいのだと気付いたよ。果たしてその世界が存在するのかわからないけどね、これはエゴだけど私のほんとうのこと。


仕事を辞めると決意してから1か月以上が経ち、初めてのショートパーマをした次の日に「仕事を辞めたいです。」とするっと言い出せたのは驚いた。美容師さんって魔法使いなのかもしれないと本気で思った。


在宅の管理栄養士の仕事も一発で本命のところに決まり、夏からの新施設オープンに加勢するために今の仕事を辞める。その意思を上司に伝えることもでき、私の計画は完璧だと心の中でニヤニヤした。


しかし、
「仕事を6月末で辞めたいと思っています。」
と伝えると


「「「無理です。」」」

の一言が返ってきた。

看護部長の口からそう出てきたのだ。
そこからわたしは働く意味や希望を完全に失って、数週間後に仕事に行けなくなるのである。
言わずもがな、決まっていた在宅のお仕事もお断りしなければいけなくなった。

”仕事に行けなくなった理由”ははっきりとは答えられない。物理的に起き上がることができなくなったとか、悩みがいえる環境がなかったとか、そんな感じだよ。いっぱい苦しかったね。いっぱい頑張ってたんだね。

仕事に行けなくなったときにはそんなこと思える心は存在していなかったけど、今ならそう言える。少しずつ戻りたかった前のわたしに戻れているのかも。

この苦しかった時間はまだ完全には終わり切れていないけれど、ここ数週間で光が見えてきているんだ。『消えていなくなりたい』と私の中に住み着いている”ヤツ”は少しずつ小さくなってゆく。わたしよ、わたしに戻れ。


仕事に行けなくなった日から10か月と5日。こんなに月日が過ぎていることに気が付かなかった。かなり驚いた。でも確かに言わせてみれば、心は疲れて濁ってる感じはするかも。心と頭はまだ追い付いていない、そんな感じのもっと深いやつな気がするな。


このしんどさが力強いバネ、羽根、になって高くふわりと飛べる私になれる気はしている。ゆっくりと座りながら跳びながら進めよ、このわたし。


これから、再び出逢いを創っていきたい。幸せな再会も新しい再会も楽しみにしています。
読んでくれて、見守ってくれてありがとう。
これが、いまの、わたしの、ぜんぶです。


またね。


mmo










Doing nothing often leads to the very best kind of something.
『何もしないは最高の何かに繋がるんだよ』

映画:プーと大人になった僕


いいなと思ったら応援しよう!

mmo
いただいたサポートで美味しいメロンパンを買いたいと思います。(^^)