2023 情事の終り 精読 前編
グレアム・グリーンの『情事の終り』精読と解説です。同人誌『小説の仕組み3』用の原稿です。
底本は新潮文庫『情事の終り』2014年を使用しています。
第一部
作家のベンドリックスが以前浮気をしていたサラの夫ヘンリーと再会する。
ヘンリーは妻のサラの浮気を疑い、興信所へ行こうか煩悶している。悩んでいるヘンリーの代わりに、ベンドリックスは興信所へサラの調査を頼む。浮気男の振りをして、今のサラの浮気を辿ろうとする。
サラとの浮気が終わっても、ベンドリックスはサラに未練があった。サラへの想いが昂じてある種憎しみのような感情を募らせている。
男性のなかには、女性に恋愛感情を持つことで自分が毀損されているような、プライドを壊されているような被害者意識を持つ人がいる。その憎しみをベンドリックスはサラに向ける。
サラが永遠に失われることは、最初の咳のシーンから明示されている。
これは別れを告げられた男のプライドをそそぐ話なのだろう。彼女の喪失に傷ついて、その傷を彼女自身に償わせようとしている。喪失によって傷ついたことへの攻撃性のようなものを感じる。
愛する人間が愛によって自分のプライドを傷つけているという感覚。それを女性へ向けると自分が傷ついたことへの攻撃性になるのだけれど、その攻撃性を愛する人に向けてしまうというアンビバレントさが、男を不幸にしていく。そのような地獄があるように見える。
サラとの会話。心情的にはまったく終わっていないことを知りながらのベンドリックスの台詞。
本当に浮気が終わっていれば、別れた女性の浮気調査に参加などしない。上っ面を滑っていく空疎な嘘が際立っている。
ベンドリックスとサラの食事の後、興信所の尾行の結果を知らされる。
サラの心がどこにあったかを知る重要な伏線。ローマカトリックの信者ではないということがここで確認される。
愛を得られないと思い込んでいる男の心情は嫉妬と憎しみに変わる。
その感情が、彼女を愛しているにもかかわらず、想いを叶えてくれない彼女を傷つけたいという憎しみの感情に変わる。自分のプライドを優先するがゆえに自分を不幸にしていく。
ベンドリックスの小説の映画のシーン。
浮気している女が男と食事をしている最中に、玉ねぎを食べるかどうかためらう。彼女の夫が玉ねぎの匂いを嫌っていたからだ。男は彼女のためらいに傷ついて腹を立てる。
ベンドリックスは映画のなかでこのシーンのみが成功していると思うが、それはサラとの実体験を描いたものだと後で知らされる。
第二部
ベンドリックスはサラを愛すれば愛するほど、サラへの不信感へ取り憑かれていく。夫を裏切らせた自分も、サラの多数の男のひとりだという思いに苦しむ。
浮気が成就する悦びとともに、ベンドリックスは彼女が自分を裏切る可能性をも背負うことになる。
サラの言葉をベンドリックスは信じることができない。
ベンドリックスが信じられないのはサラではなく自分であろう。だからサラの言葉が届かず、いつまでも自分のつくった苦しみのなかに取り残されることになる。
バーキスがゴミ箱から回収されたサラのメモをベンドリックスに渡す。一見誰かを愛しているような文面のサラのメモが誰に宛てられたものなのか。それが神であることが話の後半で明かされる。
それを知らないベンドリックスが自分の疑念を増強するサラの言葉に煩悶する。
ベンドリックスはサラ、ヘンリー、メモの第三の男への嫉妬に苦しむ。
「私はあなたが幸せであってほしい」と告げるサラに、ベンドリックスは「僕がほかの女と寝るベッドの用意をしてくれる?」と問う。それは君が夫を裏切ったように、僕が君を裏切っても許してくれるかというベンドリックスの甘えの感情である。
不倫相手の願望を叶えるということは、愛する者にその人自身を裏切らせることでもある。
自発的に社会的な罪を犯させることで、その人自身の背骨を折る行為になる。
そうすることで不倫相手は、他の人間からも裏切られるカルマを背負ってしまう。
ベンドリックスはサラを浮気に巻き込んだことで、サラに裏切られる可能性をも背負うことになる。
サラが自分を裏切るという妄想に苛まれて、ベンドリックスはサラを責める。
ベンドリックスを苛んでいるのは、彼女が自分を裏切るかもしれないという暗い予感だ。
自分のなかの予感を払拭するために、ベンドリックスはサラを責める。
サラが何を言ってもベンドリックスの不安は拭えない。彼女が裏切りを内包するように仕向けたのは自分であり、それを恐れているのも自分であるからだ。
ベンドリックスがサラを裏切らせたことによって、自分が裏切られる可能性をも背負う。それは相手の行動からくるものではなく、内側から湧いてくる疑問なので、サラが何をしようと不安が解消することはない。
ベンドリックスは自分の情事の結果、自家中毒に陥っている。
やがてヘンリーがベンドリックスとサラの浮気に気づく。
ヘンリーとベンドリックスのあいだに憎しみはなく、彼女の愛を自分の思うようには得られなかった連帯感のようなものが生まれている。
ヘンリーはサラのことを自分とは距離のある人間として受け入れ、ゆえに不完全な愛情でも満足しなければならないと思っている。
ベンドリックスはサラとの距離が近く、サラと自分との相違が受け入れられない。本質的にサラを愛しているからこその狭量さというべきだろうか。
しかし人間は肉体によって隔てられた存在であり、自分とは異なる感情を持つ。このヴァリアントを受け入れるか否かが彼らの違いであるように思える。
じわじわとサラが愛しているものが明示されていく。重要な伏線。
ベンドリックスはそのメモが未知の男に宛てたものだと思っている。
サラが手紙を書いた対象がサラにとっては後ろめたいものではなかったため、手紙にはサラの誠実な心の流露が見られる。そのことが伏線からも示されている。
ベンドリックスはサラの秘密の日記帳をバーキスから渡される。ヘンリーの家から不当に持ち出したものだ。ベンドリックスはこれで目的を果たしたといい、バーキスとの契約を解除する。
この小説はナラティブ(語り)が多様である。
ベンドリックスの小説と映画、ゴミ箱から拾ったメモ、日記帳。今であればSNSやメールの引用になるだろう。
第三部からはサラの日記帳の文章となる。ベンドリックスの視点である前半の語りを覆すストーリーがここから始まる。
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